おれの名前はコノメ
森の奥、泉のほとり、木の葉がチラチラと舞っている。それはなんとも優しげで、まるで傷ついた誰かを労るように宙を舞い、そして木にもたれてうずくまる少年の手元に滑り込んだ。
(……ああ、落ち葉か……)
その感触で少年は目を覚ます。そして、落ち葉をつまみ空に透かしてくりくりと動かした。ほんの少しの時間の睡眠ではあったが、手足の震えはとっくに収まり、頭もハッキリと冴え疲労は既に吹き飛んでいた。
(そういえば、師匠は落ち葉が苦手で、落葉を見ては時折怪訝な顔をしていたっけ……。確か、人にとって髪が抜けるに等しい事態、だったかな……)
過去を思い起こし、声を上げずに口元だけでくすりと笑う少年。体調はとうに戻ってはいたが、未だに声だけが戻ってはいなかった。少年は落ち葉をくるくると弄りたおすと地面に置いて、ぼーっと泉を眺めはじめる。
(あの泉、師匠に初めて連れて来られたとき、感動で思わず叫んだのを覚えてる……。今では見慣れたものだけど、あの時は感動したなぁ……)
そして、ふいに視線を落とし、今度は黒くくすんだ地面を見つめる。
(いつもあそこで焚き火をしていたっけな。師匠は最初はこれでもかって火を怖がって、けれど最近は随分慣れていろんな調理を試したりしたよね……。楽しかったなぁ……)
少年はゆっくりと視線を動かす。視界に入るあらゆるものを見つめては、ふっと湧き上がる記憶に思いを馳せた。
(懐かしいな。あの岩の側で師匠に弓を習ったんだ。最初は弦がよく耳に当たって泣いたっけ……)
(そうそう、あの木と身長を測っていたんだよね。師匠も木に謝りながら、楽しそうに背比べを刻んでいったんだ……)
(師匠と並んで釣りをしたこともあったなぁ。師匠だけが釣れなくて、その日一日は口を聞いてくれなかったな……)
どこを見ても、少年の胸に湧き上がる思い出は全て、老女との朗らかな日常だった。何もかもが懐かしく、愛おしく、少年の胸を震わせている。
少年は、何かに耐えられなくなって顔を伏せた。再び暗闇に戻り、そして必死で言い訳を重ねる。
(だって、仕方がないじゃないか! あんなの、どうしようも無かった! アイツは師匠でも勝てない化物で、おれなんて何もない子供で、だから……!)
顔を伏せ、ブンブンと首を降る。そして、次の言い訳の言葉を考える。
(……この森の誰かがアイツをやっつけるかもしれない。そうしたら、問題ないよね。おれもこの森で……一人で生きて……。いやそうだ、あいつが死んだら、ひょっとしたら師匠だって助かるかも……。……でも、待てよ。もしも誰もあいつを倒せなかったなら、一体この森はどうなるんだ……?)
言い訳を重ねる内、ふと一つの疑問が頭に浮かぶ。そして、森喰みが森を喰い荒らし荒廃していく風景を想像する。美しい森が赤茶けて、朗らかな小唄を歌っていた小鳥達も死に絶え、泉は汚れ、……そして、少年と老女の思い出の土地すらも、消えてなくなってしまう。そんな光景を思い描き、少年は大きくかぶりを振った。
(駄目だ、駄目だ! そんなの許せない! ……でも、だからって、おれにあいつを狩るなんて……──)
その時、一陣の風が吹いた。風に木々が優しくそよぎ、木の葉が舞った。木の葉は少年を慈しむように彼の周りをフワフワと周り、風と共に少年の髪を優しく撫でた。そしてその瞬間、確かに少年はその言葉を耳にした。
──頑張って。
それは少女の声だった。深い慈愛のこもった、それでいてすがる様な、祈りの声。遥か遠いところから風に乗って訪れた、顔も知らない少女からの激励だった。
ふと、全身の強張りが解ける。そしてこれまでずっと固く握りしめられていた左手がゆっくりと開く。その中には、幾本もの枯れ草とドングリのような小さな木の実が入っていた。
(……これは、師匠が最後に俺を隠してくれた時の……──!)
少年は立ち上がった。少女の声に後押しされ、老女の気遣いを再び目の当たりにし、不安を堪えて森の為に立ち上がった。目的は、森喰みを狩り森を救うこと。そして、森喰みに喰まれた師匠を取り返すこと。少年の喉の奥から、「──ゥゥゥゥウ!」と小さく声が漏れている。
「──師匠は、おれをコノメと呼んでくれた……。おいとか、お前とか、あの子じゃなくて、コノメと──!」
コノメは一歩を踏み出した。その顔には決意と覚悟が現れている。
「そんな人が愛した森を、故郷を! あんな奴に滅ぼさせてなんてなるもんか!! だっておれは、ネルガンシュシュブの弟子だから!!」
左手に入っていた木の実に紐を結わえて首にかける。そして、弓を手にして力を込めた。森の為に、ネルガンシュシュブの為に、遂にコノメは決意した。
森を滅ぼす魔獣、森喰み。一切の魔力を持たない、この世で最も脆弱な少年、コノメ。二匹の戦いの狼煙が上がる。
それは、コノメの15歳の誕生日まで残り3日の出来事だった。