"森"を"喰"らう魔獣
──いったい、どうしてこうなった!
森をフラフラと所在無さげに歩いている少年が一人、小さくそう呟いた。体は既に傷だらけで、息も絶え絶え肩を震わせ喘いでいる。そして森の最奥に湧く泉の元まで駆け戻ると、木を背にしてへたり込んだ。
地面に座り込んだまま息を整え、手を顔の前まで持ち上げてじっと見つめる。左拳は固く握りしめられ、右手は激しく震えている。整えた筈の息も、激しい動悸に振り回されて再び荒れる。それは激しい運動によるものでは無かった。ただ圧倒的な恐怖が彼の心を塗りつぶし、重く重く伸し掛かっている。
彼は震える手で顔を覆い、目を塞いで仰け反った。頭頂部が木と擦れ、鈍い痛みが頭に走るが気にも止めず、ただただ空を仰いで慟哭している。そしてふいに、今度は体を丸めて縮こまり、自分の身体が作った影の中で目を見開いた。
(どうして──!)
声にならない叫びが胸をつく。5年前に戻ったかのような孤独と恐怖が身を貫く。暗闇の中、心臓の音だけが激しく響いている。
そして少年はゆっくりと目を瞑った。この世の全てが厭ましくなり、世界を否定するようにして訪れた暗闇。そんな孤独な世界で、少年はゆっくりと、沈むようにして眠りに落ちた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「──森がおかしい」
全ては森の探索中に放たれた、その一言が始まりだった。植物のような雰囲気を纏う銀髪の老女は森を見つめ、いぶかしげな瞳を向けている。視線の先には朽ちた木と、バキバキに砕けた枯れ枝が散乱していた。
「……この光景、覚えがあるよ。先日狩ったコッパーも、いつもと違って小石を含まず枯れ枝ばかりを背負ってた。あれは通常冬の習性だ。時期が合わない」
老女の脇に控えていた少年が一歩を踏み出し口を開く。いつもは深い緑に覆われた森が、その一帯だけはまるで生気を失ったかのように淀み、赤茶けている。老女は地面にしゃがみ込んで軽く地面を撫で、枯れ落ちた木を摘んで検分する。そして、ふいに緊張を見せた。
「──これは、"渇力"じゃ! この枯れた木を見よ、全てが魔力を損なっておる! なんと恐ろしい……!」
老女は木を労るようにして優しく握り、額に擦りつけて目を瞑る。そんな彼女の背中を少年はさすりつつ、気になる部分を問いかける。
「渇力?」
「……そうじゃ。渇力とは、魔力切れによる枯死を意味する。この世界に生きる全ての物は魔力を失えばその存在を維持できぬのじゃ。酸素や水と同じように、魔力が身体を巡って初めて、生命は生命足り得ている。……しかし、この木々達はそれを失っている。まるで何かに吸い上げられたかのように、欠片も魔力を残しておらぬのだ」
少年は息を呑んだ。目の前に散らばる森の変死体。それが単なる災害ではなく、生物による獣害であると聞き、胸に不安が募っていく。
「何かにって……そんな生き物がこの世界には居るの? チュパ●ブラみたいなもの?」
「チュパ……?」
耳慣れない単語に老女は一瞬怪訝な顔をして少年を見つめたが、すぐに取り直して前へと向き直り、真剣な顔で返事をした。
「……1ついる。"魔獣"と呼ばれる者共の中に、"森喰み"とあざなされる化物が」
「魔獣? それは魔物とは違うの?」
「違う。魔獣とは、狩り狩られる食物連鎖の螺旋、そんな生命の当たり前のくびきから外れた存在の総称じゃ。他の生命を寄せ付けぬ程に強靭で、一個でこの世のバランスを崩しかねん存在……、それこそが魔獣じゃ。すなわち、人にとっての"勇者"共に等しい存在と言えよう」
老女の説明に、少年は僅かに緊張を示す。
「じゃあ、その森喰みっていうのは強いんだね? どうだろう、おれ達なら狩れるかな?」
「狩る、じゃと?」
少年がポツリと漏らしたその言葉に老女は鋭く反応した。そして頬に汗を垂らしながら、少年を強く睨みつける。
「5年の狩猟生活で、少し増長しているのではないか? 魔獣は魔物共とは違う。狩る狩られる、そういった次元の存在では無いと言った筈じゃ。森喰みとは文字通り森の捕食者。魔力に満ちた木々を襲い、枯死させていく恐るべき化物じゃぞ──」
その時、森が大きくざわめいた。異変を感じ、老女は喋るのをやめて森へと向きなおり周囲を探る。既に枯れていた大樹がふいにチリとなってボロボロと崩れ、枯れ葉がホロホロと地面に散っていく。大樹が立ち枯れたことで開かれた空間、その奥には赤茶けた獣道が広がっていた。そして、眼前に広がる獣道、老女は頬に幾筋もの汗を垂らしながら、じっとその奥を見つめている。
──そして、一瞬の静寂の後、彼女は叫んだ。
「──マズイ! 既に来ておる!!」
老女は素早く立ち上がった。そして少年に振り返り手を伸ばした。その瞬間、身を震わす轟音が辺りに響いた。
「ブモオオオオオオオオオオオオオッッッ!!!!」
「逃げろ、コノメッッ! お主ではこやつは狩れぬ──!!」
獣道の最奥から、一つの目玉が怪しく光る。その直後に響いた咆轟は少年の身をすくわせた。そしてその咆轟は同時に叫んだ老女の声を掻き消し、少年はただただ呆然と目の前の成り行きを眺める他なかった。
そこからは、一瞬の出来事だった。木々を吹き飛ばしながら、轟音と共に獣道を真っ直ぐに突き進んできたそれは、巨躯の猪を思わせるような化物だった。二本の牙を備え、下顎は大きく発達している。その上に被さるようにして伸びている鼻には3つの鼻孔が見えた。そして、全身からは植物が吹き出しており、左目は既に潰れていて、体中に剣が突き刺さっていた。荒々しく、全身を震わせているその姿は、それだけで少年に死を覚悟させる程の威容を放っていた。
「手負い……!!」
老女は一瞬そう呟き、そして即座にしゃがみ地面に手をつく。すると、地面から竹のような植物がニョキニョキと生えて、目の前を覆い尽くした。しかし轟音は鳴り止まず、次の瞬間、竹のバリケードが弾け飛び巨体が広間に流れ込む。
「……森との繋がりを絶たれ、老いさらばえた儂に果たして何処まで対抗できるか……」
広間で相対する老女と森喰み。老女は少年を守るようにして森喰みの前に立ちはだかると、指揮者のように両手を動かし呪文を唱える。
「森の仲間よ、儂に力を貸しとくれ。種粒一つが実りを繋ぎ、豊穣豊かな森となる。芽吹きの祈り!!」
「これは、古代語……!」
少年が目の前の出来事に戸惑いながらポツリと呟く。古代語を用いた精霊への語りかけ、それは太古の呪文と呼ばれる魔術の1形態であり、魔術師が本気で戦う際の技であった。無詠唱の魔法より数段上の魔術現象を引き起こす強力な魔法。この時唄われた太古の呪文は"芽吹きの祈り"。それはあらゆる植物の成長を急促進させる魔法だった。
老女が詠唱を終えた瞬間、あちこちからブワッと植物が吹き出す。赤茶けた地面を吹き飛ばして地の底から木が生え、折れた竹の節から小竹が伸びる。かろうじて生きていた木は蔦を伸ばし、花をつけ、機関銃の如く種を弾く。それら全てが老女の指揮に従い森喰みに向かって真っ直ぐに伸びた。しかし──。
「ブモォオオオオオオオッッッ!!!」
巨大な咆轟が響く。森喰みは大口を開けて吠えた。そして身体を翻して老女へと向き直ると、繁茂した植物を一口に食い破り、鼻をしゃくり上げて老女を突き飛ばした。老女の体は宙を舞い、木に激突して鈍い音を立てる。そして、激突した木はチリとなり崩れ落ちた老女の上に降り注いだ。
その光景を見て、少年は吠えた。震えていた体が熱くなり、手に力が籠もっていく。目の前で跳ね飛ばされた大事な人を前に、少年は激高し、そして、我を忘れて駆け出した。後ろから僅かに聞こえた静止の声も少年の耳には届かなかった。
──ここで、少年の記憶は一時途切れる事となる。鈍い音と慟哭が響き、彼の視界は少しずつ暗くなっていった。
──彼が次に目を覚ました瞬間。この光景を、彼は生涯忘れることは無いだろう。何故か声は形にならず、喉の奥でくぐもって響く。手は震え、全身の感覚がない。なのに頭だけはハッキリと冴えていて、目の前の光景だけは彼の網膜に焼き付いていた。
目の前には森喰みと呼ばれる巨大な魔獣。右の後ろ足に木の根が突き刺さり、僅かに脚を引きずっている。しかし、彼の目が捉えた光景はそれだけでは無かった。森喰みの口の中、数多の植物を枯死させて来たその悪魔の顎から、見知った人の半身がチラリと覗いていた。
(ネル、ガン……シュシュブッッ!!)
心の中で少年は叫んだ。声にならない言葉を何度もくぐもらせて、その人の名前を呼び続ける。すると、その声が届いたのか、老女の体がピクリと動いた。
「……ああ……、起きたのか……。無事で何よりだコノメ……」
その声は森のさわめきの用にサワサワと響く。しかし、余りにも頼りなく弱々しいその音色に少年は胸を痛め、胸を抑えて無言で痛みに喘いでいた。
「そうか……声が出なくなったか……。だが、それは好都合かも知れんな……。こやつに気付かれずに、こうして最後に話ができる……」
老女は視線を地面に向けたまま、ピクリとも動かず淡々と語り続けた。
「コノメ、お主が初めて儂の前に現れた時……、最初儂は……お主を邪魔者と思ったよ。気まぐれに拾いはしたものの、どうせすぐに死ぬだろうと……、森との繋がりを失い、間もなく立ち枯れるだけであった儂の……最後の戯れだと」
少年は胸元を抑える手から僅かに力を抜いた。顔を上げて老女を見つめ、真剣な顔で最後の言葉を聞いている。
「だが……お主と過ごしたこの数年……。この数年は、楽しかった……。儂の長い人生の中で……思いもかけず、豊かで、優しい、木漏れ日のような……」
老女の顔がほんの僅かに上向いて、少年を見つめた。少年も老女の視線を真っ直ぐに見つめ返す。そして、老女は優しく笑った。
「お主は……、この世界で最も弱い。小さなフルールにさえ、まともにかち合えば勝ち目はない程に……。しかし……、お主はそんな世界で5年も生き延びたのだ……。誇っていい。お主は、この世界で最も弱く……、だからこそ、この世界の誰よりも、強い……」
声が、僅かに遠くなる。森喰みが巨体を揺らしながら、少しずつ遠ざかっていく。少年は老女に追いすがるように身体を揺らし、そして地面に倒れ込んだ。その音を聞きつけ、森喰みが僅かに頭を向ける。しかし、すぐに前に向き直って歩を進めた。
「……これが、儂に残された……最後の力じゃ……。達者で暮らせよ……」
だらんと垂れた老女の手から僅かに迸った魔力が、地面に伏せた少年の周りに下草を生やし覆い隠している。老女の最後の気遣いを察し、下草の中で涙を殺して少年はじっと固まっていた。そして、地面に耳を張り付けて少しずつ遠ざかる森喰みの足音を、悲痛な思いで聞いていた。
「ああ、そうじゃ……」
そんな少年の耳に、最後の言葉が届く。
「……少し早いが……誕生日おめでとう、コノメ。さらば──」
少年が堪えていた涙が、溢れた。そして、その言葉を最後に、老女の声は聞こえなくなった──。




