狩りをしたなら調理をしよう
"禁足地"と呼ばれる深い深い森の奥。その森で最も低い位置に、こんこんと湧き出す泉があった。"生命の泉"と呼ばれるその泉は、低い所から高い所へ、逆流するように森の中へと河を通し、禁足地を潤していた。美しい苔が一面に広がり、無限に水の沸き立つその土地は、まるであらゆる生命の根源のような土地だった。
そんな厳かで神聖な土地の端っこで、二人の男女がやぁやぁ騒いで静かな森を賑やかしている。
「コノメと!」
「ネルガンシュシュブの!」
『三分クッキング〜〜〜〜!!』
「ドンドンパフパフ〜!」
樹のうろを通じて異世界に渡った花道 木之芽がネルガンシュシュブに拾われはや数日。日々、謎の果実とワームを口にねじ込まれるという苦行を経てすっかり元気を取り戻したコノメは、ネルガンシュシュブに師事し、つい先程初めての狩りを終えたところであった。今、そうして得た獲物を前に、二人ははじめての調理に取り掛かろうとしている。
「……してコノメ、三分クッキングとはなんじゃ?」
コノメの無茶ぶりにノリよく声を合わしたあとで、疑問を呈するネルガンシュシュブ。そんな彼女にコノメはニヤリと笑いかけ、異世界の常識(嘘)をひけらかす。
「そっか師匠は知らないか。おれの元いた世界では、料理の前はこういう事を言うものなんだ。料理がとても美味しくなる魔法の呪文だよ」
「魔力を持たぬお主が魔法ねぇ……」
「日本ではみんな魔法に憧れてたんだよ。むしろ使えるトルニカのみんながズルいよね」
二人は軽口を叩き合いながら料理の準備を進めていく。ネルガンシュシュブが地面に手をかざすと木がニョキニョキと生えてきて、絡まりあって調理台を形作る。その机の角が更にニョキりと伸び始め、ついに先端に実をつけると、次の瞬間ぱっくり割れて中から木のナイフが飛び出した。
コノメはその間に、生命の泉から水を汲む。透き通るようなその水の美しさに息を呑みつつ調理台の上に桶を置き、次にリュックサックの中からつい先程仕留めたばかりの小さな魔物・フルールを取り出した。それらを調理台の上に並べると、うんしょと手を伸ばしてポキリと実ったナイフを収穫する。これで調理の準備は完了。タンタタタンと小気味よく奏でていた鼻歌も丁度2周目に差し掛かったあたりの事だった。
しかし、いざ調理開始というその時。急にコノメの動きがピタリと止まる。そして両手にナイフを抱えたまま黙り込む。
そんな彼の様子を見て、ネルガンシュシュブは優しく声をかける。
「……コノメ、何はともあれ調理の時間だ。生物であれば例外なく、生きるためには食べねばならぬ。だからこそ儂らは生物を狩るし、それがお主の仕留めた魔物であるなら全てお主が捌かねばならん。それが命に対する礼儀というものだ。分かるか?」
コノメはごくりと息を呑む。さっきまでの楽しげな雰囲気はすっかりと鳴りを潜め、彼は目の前のフルールの身体をまじまじと眺める。そして、震える手をすっと伸ばして優しく撫ぜる。
狩人としてネルガンシュシュブの弟子となり、初めて自分が奪った命。偶然手から離れた矢が奪ったその命の重さと、現実の肉の重さ。それが今、彼にズシンとのしかかっている。
コノメはナイフを握りしめたまま体の力を抜き、調理台に両手をついて下を向く。そしてゆっくりと口を開いた。
「……おれの世界では、命はとても遠いところにあったんだ。いつも食べる肉も魚も、誰かが殺してくれていて、おれ達は肉だけ食べていたんだ。それがいい事なのかわるい事なのか分からないけど、きっと、生きるって言うことは、ここからはじまる事なんだよね?」
それはコノメの心の悲鳴だった。最も過酷な世界で再び生きる事を決めた、10歳の少年の叫び。その声にネルガンシュシュブは優しく応じる。
「そうだコノメ。お前の半生は聞いている。そう生きられる世の中は幸せかも知れんが、命の重みを肌で知らない世界は歪んでいると儂は思う。儂らは生きる為に命を奪う、それは記憶として知っていなければならない事だ」
コノメは小さく目をつぶり、覚悟を決めてナイフを持つ手に力を込める。そしてフルールの肛門にナイフを当てて、グッと力を込めていく。毛皮がナイフに絡まり擦れ、ビビビという鈍い音と感触が彼の手に伝わる。
「……血は儂が既に吸い取った。だからそう凄惨な事にはならん。捌き方も知ってる限りで教えるから、落ち着いてゆっくり手を動かせ。この魔物がお主の糧となるまでの全てから、目は逸らしてはならん」
「はい、師匠」
ネルガンシュシュブの言葉に従い、コノメはナイフを強く握りしめる。
「そう、そうだ。肛門からまずはお腹の周りに刃を通せ。そしてぐるりとお腹の方に刃をやって……、そう、上手いぞ。そのまま皮を剥いでいこう。フチを持って間に刃を滑らせ、傾けながら当てていくのだ」
コノメは必死に刃を通した。毛皮は驚くほどスルスルと剥がれ、まるで食べられる為に産まれてきたかのように、フルールはツルリとした肉へと変わる。
「よしいいぞ。次ははらわたじゃな。中々良い肥料になるから儂はあまり気にはせんが、はらわたは破けると臭くなって肉に悪影響だそうだ。腹を大きく割いて中を取り出して行こう。刺激の強い工程かもしれんが、めげぬようにな」
ネルガンシュシュブがフルールのお腹の周りを指先でぐるりと撫ぜる。それに従い、コノメは指の這った跡を追うようにしてナイフで腹を割いていく。するとズルリと、薄く膜を纏ったはらわたが塊になって飛び出してきて、今度は膜を破いて少しずつはらわたを引き出していく。
ネルガンシュシュブは目を細め、心配そうな顔をしながらコノメの様子を伺っている。真剣な顔でフルールを見つめていたコノメはふとその視線に気付き、振り返らずにニコリと笑って返事した。
「……大丈夫だよ師匠。なんでかな。不思議だな。おれはこういう怖いことを避けて引きこもっていた筈なのに、何故だか今は怖くないんだ。ネットでうっかり開いちゃったグロ画像はすごい苦手だったけど、今はきれいだって思うんだ」
その言葉にネルガンシュシュブは少し驚き、そして安心したように柔らかく笑う。そして次の工程の指示をする。
内臓を取り出した後は水でお腹の中を洗い、手足を落とし、筋肉の流れに沿って部位を分けていく。筋肉はとてもしなやかで、骨は軽くて強靭だった。美しく、生きるために洗練された形。コノメはそれらを優しく触り、そしてふいに涙ぐんだ。
それを見て、ネルガンシュシュブは少しの驚きを浮かべて目を見開く。しかしすぐにやんわりと笑い、コノメの頭を優しく撫でた。
「……感じるか? こやつが生きてきた、その軌跡が。そうとも、誰も彼もが生きることに本気なのだ。だからお主も、こやつを食べるならばこやつの分まで生きねばならんぞ」
「……できるかな。こんな立派な命以上になんて」
「できるとも。さぁ食べよう」
そこからは無言だった。二人は黙々と作業を続けた。解体し終えたフルールの脚の肉を骨から小削ぎ、ナイフで細かく叩いて砕いてを繰り返し、肉団子状に固めていった。内臓は肝臓だけを取り外し、ナイフで薄くスライスしていく。
それらを葉っぱで出来た皿に盛って机に並べ、二人で向き合うようにして席につく。ネルガンシュシュブは額に右手の指を当てて、コノメは両手をすっと合わせる。
『いただきます』
そして二人は声を合わせた。生命に対する感謝の祈り。しばし続いた静寂は、調子を合わせるでもなく、自然に発せられたこの一言によって破られたのだった。