世界から逃げ出してしまいました
─東京、20☓☓年─
この世界に生まれて10年と少し。小学2年生の頃に不登校になって2年と半ば。そうして訪れた今、その少年は困っていた。
数年ぶりに浴びる太陽の光の眩しさ。開きっぱなしの玄関。少年は背中に大きなリュックサックを背負い、黄色いテープに覆われたかつての我が家をただぼんやりと眺めている。
それは、少年にとってまさしく青天の霹靂だった。
(……さしおさえ?)
さしおさえとは何だろう? 目の前の疑問に少年は頭を巡らせる。言葉だけなら聞いたことはあった。しかしまるで理解ができない。今、少年の頭の中は沢山の「?」で満たされて、とてもまともに何かを考えられる状態じゃない。長年まともに使われなかった声帯は、そんな少年の疑問を形に出すことも許さなかった。
わかる事は、自分がこれまで住んでいたはずの家、ひたすらに優しかった筈の両親、それが今やどこにも無いのだという事だけ。つい昨日まで、確かにそこにあったのに。
家には黄色いテープが引かれ、両親は煙のように消えてしまった。布団の中で小さくなっていた少年は、ドタドタと侵入してきた強面のおじさん達に布団ごと引っ剥がされて、心底驚いた顔で声にならない悲鳴を上げた。その姿を見ておじさん達も飛び上がって驚いた。この家に誰かがが残っているなんて、考えもしなかったからだと言っていた。
「なぁどうする?」「どうと言われてもな……面倒はごめんだぜ」「ガキだぜ、金にもならねぇ。この様子じゃ、両親の居場所なんて知りやしねぇだろうしな」
おじさん達の相談事が少年の耳にぼんやり届く。
少年は賢い子供だった。ハッキリとしない頭の中で反響するおじさん達の声が、少しずつ少年に状況を教えてくれていた。
そんな中、一人のおじさんが少年の前にぬっと立ちはだかった。
「なぁ坊主、よく聞けよ。今日、俺らはお前と出会わなかった。お前は最初からここには居なかったんだ。それが一番お互いの為になるんだよ、分かるか?」
餞別だってくれてやっただろ? 強面のおじさんは少年の背中を指さしながら付け加えるようにそう言うと、ぷいと背中を向けて、家の中へと消えていった。バタンと閉められた玄関の扉は、たった今、少年が全てを失った事をありありと教えてくれていた。
少年は何事かを言おうと口をパクパクと開かせたが、しかし遂に言葉は出てこなかった。そして、その場から逃げ出すようにして何処へともなく走り出したのだった。
『辛い時や、苦しい時。そういう時は、別に逃げてしまっても良いんだぞ?』
近所の林。青々と茂った木々の奥の一際大きな樹のうろで、少年は頭の中にとある言葉を思い浮かべていた。
それは父の教え。少年の半生においてもっとも深く根を張った、彼の考え方の根幹だった。
少年はずっとこの考えに寄り添って生きてきた。
幼稚園の頃、本当は滑り台で遊びたかったのに、体の大きな乱暴者が占領していたから我慢して積み木で遊んでいた。小学校の討論会は、人と意見をぶつけ合うのがキライだから棄権した。そしてある事件を切っ掛けに、いよいよ小学校も嫌になって引きこもることを決めたのだった。
そして今もまた人と関わることから逃げ出して、人気のない林の中へと逃げ出している。
うろの中、少年は頭を巡らせる。自分はどうしてここに居るんだろう。果たして両親はどこに行ったのだろうか。家に借金があったらしい事も知らなかった。恐らくは、両親が自分を負担に感じていただろうという事も。
つらつらと、今や調べる術のない様々な事に頭を巡らせる中、ふと一つの疑問の答えにたどり着く。
(ああそうか。お父さん達も、嫌なことから逃げ出したんだ)
脳裏に浮かんだその答えに、思わず少年はクスリと笑う。あたりまえだ、よく分かる。だっておれはお父さんの子供なんだから。
なんだか不思議とおかしくなって、声にならない笑いを喉の奥でくぐもらせた。その答えは少年にとって腑に落ちる、とても理解のしやすい理屈だった。
(そうだ、餞別って一体何なんだろう)
自分の状況について頭を巡らせていた最中、ふと強面のおじさん達に押し付けられた荷物の事を思い出す。そして荷物に意識が向いた途端、急にずしりと背中に重量を感じて全身に疲労を覚える。朦朧としていた頭がハッキリしてくるにつれて、身体も疲労を思い出したようだった。荷物に引っ張られるようにして背負っていたリュックをズルズルと降ろし、のっそりと起き上がって中身を確かめる。そしてその瞬間、再び声にならない笑いが喉の奥で詰まって響いた。
(あはは……、なんだこれ。お金にならないものだけ詰め込んだのかな)
ボロボロになった図鑑や専門書、賞味期限の過ぎたレトルトカレー、封の開いたスナック菓子……。リュックの底は様々な小物で溢れかえっていた。ふと、リュックから目を外して空を見上げると、さっきまで晴れていたはずの空は今やどんより暗い曇模様。今にも雨が振りそうな悲しい空が広がっている。
少年は中身の確認もそこそこにリュックを閉じた。そして疲労にあえぐ体を支えることをやめ、不意に倒れるようにして横になった。
(もう、なんだか疲れたな。できればここからも逃げ出して……きっと……もっといい所に……)
逃げて逃げて、逃げ続けて、最後にたどり着いたうろの中。少年はすべての気力を失って体を投げ出した。地面を伝うように、ポツポツという音が小さく響き、それはたちまちザアザアという轟音へと変わって少年の周囲を濡らしていく。うろの中にも少しずつ水が流れ込み、泥と混じって少しずつ少年の体を沈めていく。しかし、少年は決して抵抗しようとはしなかった。
うろの中に流れ込む雨水に溺れるようにして、そしてそのまま、少年は泥の中で包まれるように眠りに落ちた。
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鬱蒼と茂った森の中、人も立ち入らないような深い青緑に包まれた空間。しんと広がるその空間に、時たまギィギィと獣の声が響いては、森にしんと消えていく。風はそよぎ、水は踊り、光は淡く森を照らしている。
煌々と輝く数多の命がうごめく空間、まるでこの世のものでないかのようなその森で、今にも消えかかっている命が2つ、淡い光を放っている。
そんな深い森の中に今、湿気ったスナック菓子が散乱している。泥だらけになったリュックのクチは開いていて、その中に流れ込んだ泥水に押し出されて周囲に散乱したらしかった。
ふいに、そのうちの一つが地面に吸い込まれるように消えた。もう一つ、二つ。ポツポツとスナック菓子が消えていく。それに合わせてボコボコと地面が盛り上がり、中から一抱えもあるようなワームの群れが現れた。ワームはスナック菓子にかぶり付いては地面に潜り、周囲の泥をかき混ぜていく。そうしてかき混ぜられた泥の中から、ふいに一人の少年が露出した。ヒューヒューとか細い音を立てて呼吸をしていて、彼は今まさに息絶えようとしている。
少年の周りをうごめいていたワーム達が、ふいに一斉に動きを止める。そして、尖った口先をギギギと捻り少年へと振り返った。泥の上にはスナック菓子は既に無く、ワームと少年だけが埋もれている。ワーム達はゾワゾワと周囲を探るように少年の周りを巡り、少しずつ距離を詰めていく。そしてふと、そのうちの一匹が、今まさに少年に噛み付こうとしたその次の瞬間! 一本の木の枝がヒュンと風を切り、そのワームを貫いた。
ワームはブルンと大きく震えたが、木の枝はまるで根を張るようにうごめいてワームを縛る。突き刺さった地面からは草がみるみると茂っていき、他のワーム達は草の上を暴れるようにうごめきながら、泥の中へと沈んでいった。少年は泥の中から芽吹いた草に持ち上げられるようにして、まるで泥から産まれ直したかのようにこの世界へと浮上したのだった。
そんな少年の前に、枯れ木のような風情の女が、木々のざわめきのような音を囁かせながらふらりと現れる。そして地面から、木の枝をワームごと引き抜いて肩に背負うと、おもむろに口を開いた。
「……なんじゃこれは。掃除屋共が騒がしいと思い来てみれば、よもやお主は人間か? こりゃ驚いた、人を見るのは100年ぶりじゃ。それもまさか、魔力すら持たぬ生きた人間など! こんな世界の果ての"禁足地"の最奥で!」
ふいに頭上から響いた声に、少年はゆっくりと目を開けた。目は霞み、頭はぼやける。手足の感覚はまるでない。それでも、少年の頭に女の声はよく響いた。少年は声の来る方に意識を向けて、霞んだ目で女を見つめた。
それは妖艶な女性だった。明らかに人間ではない、むしろ植物を想起させるような雰囲気をまとっていた。色褪せた銀の髪に、葉脈の走るケープを羽織った妖女。見た目は老女ではなかったが、その朽木のような佇まいと瞳の奥に映る深い緑色は、少年に幾百の年月を感じさせずにはいられなかった。女は少年の顔を覗き込むように見つめ、そしてゆっくりと口を開いた。
「おい根腐れ坊主。どうやら、意識はあるようじゃな? ここであったのも何かの縁。一つ質問をさせてもらうぞ。お主はまだ、生きたいか? ここは人の住まわぬ魔物の地、生きるは並大抵の事ではない。きっとお主は苦しむだろう。──それでももしお主が生きたいと望むなら、儂にその名を名乗るがいい」
少年の霞んだ目がゆっくりと、しかし大きく見開いた。深く沈んだ瞳に力が戻り、朦朧としていた頭が冴えていく。手足に力が戻り、血潮が体を巡っていく。
少年は喉を震わせた。これまで、少年が決して口にしなかった言葉を。ここ数年、呼ばれる事すらなかったその名前を、衰えた喉を震わせて少年は叫んだ。
「──花道、木之芽……ッ! おれは、やっぱり、死にたくない……ッッ!」
「そうかコノメ、しかと聞いたぞ。儂の名前はネルガンシュシュブ。これより後、お主に巣食うアルラウネじゃ」
世界から追い出され、朽ちようとしていた魔力を持たない異界の少年。同じく朽ちかけていた、老いた魔物のアルラウネ。二人が出会ったこの瞬間、運命の歯車は大きく動き出していた。
この日、花道 木之芽は新しい世界で産声を上げたのだった。
〜コノメメモ〜
【掃除屋】
通称:クリーナー
種名:アライムシ
科目:アライムシ科
アライムシ科に属する1属1種の単系種。禁足地にしか生息しない固有種で、禁足地では掃除屋と呼ばれている。クリーナーとは英語[1]で掃除屋を意味する単語。
禁足地に紛れ込んだ異界の異物や、生物の死骸を食べて暮らしている。臭いや振動に敏感に反応し、食べ物のニオイで寄ってくるが、生き物の影や振動を感じると一目散に逃げていく。禁足地がキレイに保たれているのはこいつのお陰。
身は肉厚ではあるが外皮が分厚く食べるには一苦労。体液はクリーミーな食感だが基本大味で、かつ直前に食べていたものの味をよく反映する為、場合によってはエグみが凄い。筆者[2]の最初の異世界ご飯になった。
[1]禁足地の固有種だけにトルニカ語における通称が存在しなかった為、コノメが命名した。
[2]コノメのこと。