初めての狩りをしよう
「よいか? 彼奴はフルールと言う魔物で、耳がよく脚力に優れる。そして風の魔法を用い、文字通り風の如く森を駆けるのだ」
「はい、師匠」
深い、深い森の中。もはや誰もが近寄らなくなったその森で、一組の男女が身を伏せて何かを観察している。少年は手に双樹の弓を持ち、枯れ木のような風情を漂わせる老齢の女はその子の頭をくしゃりと撫でて、目の前の魔物……フルールについて説明していた。
「主食は植物の根。種を通して神経質でこだわりが強い傾向にあり、狙う樹種には個体毎に激しく好みがある。……見よ。どうやら彼奴はシシカブの樹を強く好む癖があるみたいじゃな。コノメよ、ならばどうする?」
「はい、師匠。この辺りにシシカブの樹は数がありません。必ず巡回ルートを持つはずです。なので、まだ元気な樹の前でキャンプを貼ります」
「そうじゃ。しかし、彼奴は耳がよく脚が早い。悟られればすぐに逃げられるぞ」
「はい、師匠。なので樹の根元には罠を掛けます。少し地面を掘ってくくり罠を埋めたいと思います」
コノメと呼ばれた男の子は魔物から目を逸らさずにそう告げる。老齢の女はにやりと笑い、コノメの髪を優しくなぜた。
「狩りは観察と忍耐が全てだ。若いコノメよ、時間はお主の味方だよ」
「はい、師匠」
二人の会話の傍ら、食事を終えたフルールは耳をピクピクと動かしながら、ゆっくりその場を立ち去った。それを見届けた二人もまたゆっくりその場を離れていった。
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「そう、そうだ……。身を伏せて、呼吸を抑え、静かに弦を引け」
森の奥深くから、木々のざわめきのような音が響いている。大きな古いシシカブの樹からわずかに離れた藪の中、老齢の女とコノメが身を伏せ、弓を構えて、ある瞬間の訪れを待っていた。
その矢の先には先程のフルール、長い耳をアンテナの如く四方に振って、そこが安全かどうかを探っている様子だった。
「──焦るな、だが決して集中を切らしてはならぬ。あくまで静かに、静かにだ」
老齢の女が小脇で構えるコノメに声をかける。その声は木々のさわめきの様にソヨソヨと響き、森の中にしんと溶けた。
フルールはしばらく耳をパタパタと動かしていたが、不意に警戒をやめ、遂にシシカブの樹まで歩を進める。
そして樹の足元で、掘っ繰り返された土にほんの僅かに反応を示したものの、すぐに警戒を解いて地面に前足をかけた。
その瞬間──!
「キキキィ!!」
けたたましい声が響き、フルールの身体が大きく跳ねる。しかし、地面から伸びた蔓がフルールの前足をガッチリと絡め、跳ねた体を抑えつける。そうしてほんの一瞬、動きの止まったフルールの体に、まるで吸い込まれるように一本の矢が突き刺さった。
「──っ!」
それは、狙って放たれた矢ではなかった。冷静に、強く弦を引き続けていたコノメの一瞬の緩み。狙い通りに罠にかかった獲物を目にした高揚と、今なら当たると確信した瞬間の動揺、そして等身大の命を前にした恐怖が、彼の手を強張らせ矢が滑った結果だった。
一際大きな断末魔の悲鳴が辺りに響き、小さなつむじ風が辺りに吹き荒れた。命を振り絞るようにしてジタバタと暴れる音も次第に小さくなっていき、遂にフルールは地面に倒れ込む。そして小さく「クゥ」と鳴いた後、もう二度と動かなくなった。
コノメはそろりと藪から身を出し、もう動かなくなった命のもとに歩を進めた。そんな彼を老齢の女が優しく見守る。
「……おめでとう、それがお主の初めての獲物だ。彼奴の命の輝き、決して忘れてはならぬぞ」
「……はい、師匠」
これが、コノメにとって初めての狩り。それは最も過酷で、原始的で、しかし紛れのない命の在り方。生きる為に他の命を奪うという、彼がこれまでずっと放棄していた生きる為の努力そのものだった。
そしてこの時こそが、初めて彼がこの世界と繋がった瞬間だった。
〜コノメメモ〜
【フルール】
通称:フルール
種名:ハネミミ
科目:ハネミミ科
ハネミミ科に属する基本種。フルールはトルニカ[1]語で風を意味する。
脚にはスピッド管と呼ばれる6本の管が付いており、体内で発生させた風魔法を効率的に噴射して高速移動する。魔力の豊富な木の根を食するが、魔力核[2]の保管能力に欠ける為、多くの魔力を保持する事ができない。その為、食後は特に魔力の垂れ流しに近い状態となり、耳を済ませると風の音が響く。食事中〜食後を狙って狩りをしよう。
味は淡白ながら歯ごたえが強く、薄く張った脂は甘みが強い。焼いただけでも非常に美味。
[1]かつて大陸を支配していた王国の名前。ひいては大陸の名前。トルニカ語は今や北方の小国で使われるに過ぎない古代語となった。
[2]魔力の保管器官。身体の正中線に位置し、個体・種族毎に大きさや保存能力が異なる。