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鍵穴大百科

作者: なめらかドライヤー

私は、神保町にある行きつけの古本屋で、毎月欠かすことなく行う事がある。その時財布に入っている小銭全てと「プラスマイナス二十円以内の本」を買う事だ。缶コーヒーも買えないくらい、小銭がない時もある。しかし「世界一の本の街」と云われるこの「神保町」に無い本は無い。この町では、100円の缶コーヒーを探すよりも、100円の本を探すほうがよっぽど簡単なのだ。探せば1円の本(店主との交渉次第という時もあるが)だってある。

財布の中の小銭を確認したら本を探す。それも、棚の端から順繰りに探すのではなく、適当な棚から、適当な本を手にとる。色々な棚を巡り、様々な本を手に取り、長らく探していた古本を見つけたりしながら、そうして長い旅路を経て、一番最初に見つけた「プラスマイナス二十円以内の本」を買うのだ。

なぜこのようなめんどくさい行事をするようになったのか。元来、私は本が好きで、会社員として働いていた頃から毎月十〜十五冊は必ず本を買って読んでいた。色々な本を読んでいたつもりだったのだが、自分で本を選んでいると、どうしても、好みのジャンルに偏ってしまっていた。楽しみながら新しいジャンルを開拓出来たらいいなあ、と思って発案したのが、この奇行というわけだ。

今回手に取った本は「鍵穴大百科」だった。普段なら絶対に買わない。鍵穴だけで大百科を名乗って大丈夫か。大体の大百科は百をゆうに超えてきているぞ。大百科を名乗るのならば百では済まされないぞ。

多少の不安はあったが、自分の知らない、興味のなかった世界に触れるのも、非常に趣がある。

茶色の薄い包み紙で、その未知の世界を包む。それを鞄にそっとしまい込み、初デートへ赴くかのような気持ちで、大事に持ち帰る。

そうして家に着き、直ぐに机に向かう。茶色の包み紙を、初めて妻と夜を共にした時の、あの丁寧さで剥き「いざ、鍵穴の世界へ」と気合を入れ、トン、トンと、本で、二度ほど机を鳴らした。

そうすると、未知の隙間から、なにか出てきた。古本の間にメモか何かが挟まっている事は、割とよくあるので特に驚きはしなかった。それもまた、一つの趣きである。取り出して見ると、だいぶ年季の入った封筒だった。

白の封筒なのだが、端は、日に焼けて茶封筒も同然になっている。封筒の面には、綺麗とは言えないが、不思議と非常に読みやすい字で「遺書」と書いてある。

遺書。遺族に読まれる事なく、気付かれる事もなく古本に紛れてしまったのだろうか。その端々が日に焼けてしまった封筒をみると、少し不憫に思えた。


私は、書店の店主にこの本の元の持ち主の事を電話で聞いてみた。すると、どうやら、この本は先代の頃からあるらしい。しかし、その先代も亡くなってしまったので売り手が誰だったか確認のしようがないそうだ。遺族に渡せればよかったのだろうが、それも叶わない。

しかし、このまま誰の目にも触ることがないというのは「書」として悲しい気がした。

若干の後ろめたさや、好奇心が混ざった物を首筋に感じながら、私は封筒から中を取り出し開いた。

中の便箋には、遺書らしからぬ、花の柄がついていた。そして、封筒に書いてあったものと同じ珍妙な字で、やはり遺書らしきものが書かれていた。

まず、最初に。

僕の人生は幕を降ろした。正解を選べた自信はないが、間違っていた訳でもないと思う。でも、正解を選ばなかった事で、選べなかった事で得ることが出来た経験をとても愛おしく思う。それが僕を作り上げていたのだから。

友達と喧嘩をした事、好きな女の子が皆にバレた事。帰り道にガラスのかけらを集めた事。運動会の障害物競走で人生初の1着を取れそうだったのに足がもつれて4着になってしまった事。勉強を真面目にしなかった事。友達と笑いながら飲み明かした事。チャチな詐欺に引っかかって十数万円の借金を抱えてしまった事。初デートに着て行った服がジャージだった事。

書けばキリがないけど、この全部が、全て愛おしくてたまらない。僕の生きてきた証だ。


でも、ただ一つ。ただ一つだけ、自分自身が圧倒される程後悔している事がある。とある女性の事だ。遺書に女の事を書き残すなんて、ダサいんだろうな。この選択はやっぱり正解ではないのだろうけど、二十三歳になったばかりの男が書いてるから、少し大目に見てほしい。


あれは高校を出てすぐ、秋くらい、9月とかその辺だと思う。漫画やドラマであるようなドラマチックな出会いじゃなかったな。その時僕はカラオケにハマってて、その日も行きつけのカラオケ屋に行ってたんだ。それで、いつも通り部屋に入って、いつも通り歌ってたら、急にドアが開いて女の子がジュースの入ったコップ2つ持って覗いてた。どうやら部屋を間違えたみたいで凄くびっくりしてた。もちろん僕も。すぐに女の子はドアを閉めた。

まあ、たまにある事だし、その事もすぐに忘れていつも通りに「10分前になりましたが延長されますか」の電話がかかってきて「いや、しないです」と答えて、お金を払ってカラオケ屋を出た。

その日はやけに空が青くて、もう夕暮れ時だっていうのに、空は全然オレンジにならなかったっけ。少しの雲を残して色を濃くしていくだけ。「今日暗くなるの遅いなあ」とか思ってたら、女の子が出てきて「さっきはすいません」って。彼女だった。

正直、第一印象はあんまり可愛くないなあ。だった。でも何故か、話したくなって「今日、空明るいですね」って、会話になってない返事を返した。彼女は少し不思議そうな顔をしたけど「そうですね」って返してくれた。

これが、彼女と僕のなんとも言えない出会いだった。

その後、仲良くなって、好きな人の相談を受けたりして僕は落ち込んでて、でもなんか付き合うことになって。同棲を始めてみたり、喧嘩してみたり。セックスレスにもなったりなんかして、二年が過ぎた。

その二年で僕は色々なものを彼女から貰った。今の僕があるのは、その僕ももう死んでしまうから…今までの僕があったのは、彼女のおかげだ。言い切ってしまっても過言じゃない。

後悔しているのは、この後のことだ。

二年目を少し過ぎた頃、急に…

いや、急じゃなかったんだと思う。一緒に居ることが当たり前になって、些細な事を見逃していた。

彼女は「別れよう」って僕に言った。

あの時は凄くショックだった。必死に引き止めようとしたけど、君の決意は固かった。


彼女は夢を追いかける為に、僕に別れを告げた。あの時、僕は本当に子供で、自分の事しか見えてなくて、彼女の夢を応援できなかった。ただ、ずっと一緒に居たかった。


あの時に、彼女の夢を素直に応援できなかった。「頑張って」の一言が口から出なかった。

納得できなくて、君に酷い言葉を投げつけた。


彼女に「今までありがとう」の言葉を、結局死ぬまで伝えられなかった。


それが、楽しい事も悲しい事もあった短い人生の中で唯一、どうしようもなく後悔している事。


こんな形で情けないけど、せめて何かに残したかった。


あの時は、ごめん。

君からは本当にたくさんのものをもらった。

君に出会えて本当に良かった。

今までありがとう。

読み終えて、私は背中を突かれている思いがした。

若くして亡くなった彼は「ただ一つだけ後悔がある」と言った。今年で六十八歳になる私には、山程の後悔がある。妻はもう七十一歳だ。彼と彼女のように、ドラマチックでもなんでもない、普通の出会いだった。

私もいつか遺書を書かねばならない時が来るのだろうか。いや、必ず来るのだろうが、実感としてはすこし薄い。

だから、妻を旅行に連れて行こうと思う。何が「だから」なのかもはっきりとしないが、旅行に連れて行こうと思う。

温泉にでも行って、夕食を二人で取り、二人でゆっくりと酒を呑み、昔の事でも語ろう。

そうして、感謝の言葉を伝えよう。

今までありがとう、そして、これからもよろしく、と。


あと、部屋を一つ丸々本で埋めちゃってごめんな、と。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なめらかドライヤーさんの天性を感じさせる作品ですね。
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