第4話
「かんぱーい!」
夜空にグラス同士が当たる小気味好い音が響き渡ります。
揺れるワインを一口飲んで、私は気分良く隣の彼に話しかけました。
「貴方ったら、まさか力業で騎士様方の侵入を防いでいるとは思いませんでしたわ」
こうして夜にお会いするのは珍しいのですけれど、良いお酒が手に入ったので先日のお礼も兼ねてちょっとした祝杯を挙げているのです。
いつもは燦然と輝く彼の金髪が、どこか落ち着いた光を放っていて新鮮な気持ちになります。
「あの時は必死だったんだ!両側から押されて今にも扉は壊れそうだったし…」
「私の機転が役立ちましたね」
「…確かに助かったが、年頃の娘があれほど下着の名前を連呼するのはどうかと思うぞ」
「あら、常識に囚われない行動をするから効果があるのです」
「……」
私の発言に黙り込みます。
ああやだ、こうしてすぐに殿方が黙ってしまうから、私は論破女とか屁理屈女とか言われてしまうのです。
こんなにか弱いのになぜそうなってしまうのだろうと悩んでいると、その間に彼の視線はさ迷い、やがて目の前のグラスに落ち着きました。
ひとりごとでも呟くように、淡々と口を開きます。
「あの時…小屋の中で、大量の魔術書や魔術用の万年筆を見つけた」
「…あれも、そろそろ片付けなくてはいけませんね」
「どの本も綴じ紐が役に立たなくなるほど読み込まれていて、万年筆に至っては先が無くなるまで磨り減って…血が染み付いていたよ」
彼はそこで言葉を切って、私の目を見据えました。
「最初に俺は、魔術を誰に習ったんだと聞いたな」
「…ええ」
「君は…自力で、ここまで扱えるようになったのだな」
その言葉にゆっくり目を閉じます。
瞼の裏に思い出す光景は、いつも鮮明で光り輝いているのです。
「…初めて、魔術を見た時は…子供の頃でしたが、世の中にこんな素敵なものがあるのだと…夢を見ているような気持ちになったことを良く覚えていますよ」
光る妖精が踊る、そんな単純な幻影術式でしたけれど、未だに忘れられない程に私の心に深く入り込みました。
魔術に必要なものは魔方陣とほんの少しの魔力、そして術を発動させる為の詠唱。
たったそれだけで私の心は空へと舞いーーそしてすぐに大地へと叩き落とされました。
「魔術師と言えば男。女がなった前例はない。女が少しでも魔術を扱えば魔女だと迫害を受ける」
「……」
「女であるというだけで、本の1冊…ペンの1本買えないのですよ」
「……」
私が少し暗い話をすれば、彼は真面目な方ですから、眉間に皺を寄せて黙ってしまいました。
その様子にくすりと笑って、胸を張って彼に体を向けます。
「でも大丈夫です!生憎それで諦める私ではありません!買えないならゴミ漁りをするまで!」
「ご、ゴミ…?」
「ええ!男子のいる家が出したゴミを片っ端から漁って魔術用万年筆や魔術書を手に入れました!しかも本屋で働くようになってからより捗りましたね。隙を見て転写したり、誰の家のゴミを漁れば良いのかチェックできたので」
その辺りは金はあるのに飽きっぽいミーハーセシリオの家がいちばん狙い目でしたね。
ちなみにライバルは野良犬でした。
「たまに可愛いクマちゃんパンツとか発見してしまいましたけど、それも反撃材料として使えましたし、」
「ビビアナ」
そうしてせっかく私が明るく努めているというのに、この人は笑みのひとつもこぼさないで真摯な瞳を私に向けるのです。
「魔女などと…責めてしまって悪かった」
ああほら。
この国の常識では私が異質ですから、貴方の方が正しいのに、そういうところがどうしようもなく、
「初めて…謝られましたよ」
逃げるように彼の顔から視線をはずして、ふらふらと頼りない光を放つランプに落とします。
「私の夢は…宮廷魔導士になることなんです」
最高の技術と知識を兼ね備えた、全ての魔術師が目指す頂き。
けれど私がそれを叶えるには、あまりにも壁が高すぎる。
「…今のままでは、宮廷魔導士試験を受けるどころか、受験資格に当たる魔術学校にだって通えない」
「……」
「でも、側室なら陛下と直接話す機会が頂ける。寵愛を受けられれば宮廷魔導士になるのだって不可能じゃないかもしれない」
「ビビアナ…まさか君は、その為に側室に…」
そう言いかける彼に、私は顔を上げて微笑みを返します。
「そう上手くいくかは…」
「陛下に献上される日取りが決まりました」
驚いて目を見開いた貴方の表情は、いちばん最初に会話をした時を思い出しますね。
ええ、その時からこの出会いに別れがあることは分かりきっていました。
だから私はとっさに湧いた気持ちに蓋をして、おどけた顔をして彼にぴたりと身を寄せるのです。
「ほら、未来の寵姫ですよ。手を出すなら今だと思いません?」
「今は真面目な話をしていると思ったんだが…。君の…そういうところが、だな…」
呆れながらこちらを見た彼と目が合って、その近さに思わず胸がどきりと鳴りました。
群青の瞳の中に煌めく星々が映りこんでいて、それがあまりにも綺麗だったものですから、私。
「……」
「ん…」
名残惜しいとは思いながらもゆっくりと離れると、温かい息が顔に当たりました。
驚いて目を見開いている彼から視線を外し、照れ隠しの為に子供じみた噂話を口にします。
「初の口づけは甘い味がするなんてどなたか仰っていましたけど…」
そんなことはありませんね。
そう続けようとして、追いかけるように向かってきた唇に口を塞がれました。
「!」
触れるだけのキスを数回。
それで終わりかと思い息を吐いた瞬間に、もう一度、今度は深く。
無骨で優しい、この人らしい口づけ。
「はあ、」
「…っ、ビビアナ」
息のかかるほど近い距離。
激しい熱情を抱くその瞳に射抜かれて、びくりと体が反応します。
彼は瞼を閉じ、絞り出すように声を発しました。
「ビビアナ。嫁には…行くな」
その言葉を聞いた瞬間、ぎゅうと心臓が締められるような感覚に襲われます。
貴方が自身の道楽や欲求の為だけにこのような行為をしないことを、私は百も承知で。
数ヵ月前にはなかった選択肢が現れて、その先に待つ幸せな未来にくらくらするほどの渇望を抱いて、それでも唾と共にそれを飲み込むのです。
震える口を開けなんとか明るい声色を作ります。
「わ、私のことが惜しくなってしまいました?残念ですね!私は陛下のもの、」
「君の夢が、叶うことはないからだ」
言い放たれた残酷な言葉に、思わず息が止まりました。
彼は苦しそうに眉間に皺を寄せて、それでも力強く口を開きました。
「国王が君の話を聞くはずがない」
「た、確かに今の陛下はあまり評判は良くありませんけど…でも、やっと夢が掴めそうなんです…私にはこの手段しかないから」
「君がそれこそ血の滲むような努力していることは知っている!だから…だからこそ、そんな方法は止めろと言っているんだ」
「そ、そんな方法って…」
自分でも声が震えているのが分かります。
いつもの通り笑い飛ばしたいのに、頭が急速に冷えて心が真っ暗に。
「おんな、だから…」
これが良くない方法?真っ当ではない方法?
そんなこと、私がいちばん良く知っている。
「女だから…女だからと!この世界が私の夢を否定するのに!女であることを利用して何が悪いんですか!!」
「ビビアナ…」
「会ったこともない人の后になんてなりたくない!好きでもない人に抱かれたいわけないでしょう!?」
両の拳を、彼の胸へと叩きつけます。
全力でやったのに、ほんの少しも動くことのないその胸板が逞しくて羨ましくて、涙が溢れてきました。
「でもっ…、私にはこの方法しかない…ないんですよ!一体っ…どうしたら、誰が!出発点にも立てない私の夢を、叶えてくれるって言うんですか…!」
「……」
一瞬、彼の大きな手のひらは空中を彷徨ってーー私に触れることなく、下に落ちていきました。
「叶わない夢は、持っていても辛いだけだ」
まるで心臓に直接氷を当てられたような、途方もなく冷たい声。
涙もぴたりと止まりました。
「…貴方も皆と、同じことを言うのですね」
彼から手を離して静かに立ち上がります。
「私、初めては貴方が良いと、本気で…そう思っていたんですよ」
たったそれだけ言い捨てて、私は彼の顔を見ないように踵を返して歩き出しました。
(そんな台詞、もう聞き飽きましたよ)
そう、諦めろなんて、もう何とも思わない言葉です。
何百回も何千回も耳にタコができるぐらい聞かされてきましたから。
だから胸を襲う痛みが今までにないほど強いなんて、気のせいに違いありません。
「アナ…。むこうでも元気でやるのよ」
良く晴れた早朝。
門出に相応しい天気の下で、私は王宮行きの馬車に乗っています。
「ありがとうございます、ドミンゴ。貴方もお元気で」
窓から差し出された花束を受け取ると、彼はその濃い顔立ちをくしゃりとさせました。
今までのお礼ついでにとハンカチを差し出します。
それを受け取って回転した彼の背からは、鼻を噛んでいるとは思えない獣の咆哮のような凄まじい音が響き渡りました。
その光景に目尻の涙を拭いながら笑っていると、するりと私に近づく影がひとつ。
「何ですか。嫌味ならすでにさんざん頂きましたよ」
セシリオです。
最後に積もり積もった皮肉でも言いに来たのかと警戒しかけますが、その妙に真剣な顔に意識を持っていかれ油断しました。
突然ぐいと髪の毛を一束掴まれ、そちらに引っ張られます。
「ちょ、」
「諦めるなよ」
ぼそりとたった一言、それだけ言って彼は手を離しました。
それと入れ替わるように窓から差し出されたのは一冊の本。
毛皮のカバーがかけられていますが、この厚みと重さには覚えがあります。
(この本…中身…!)
そう、ごく最近、熱望したけれど女の私では買えなかったあの魔術書。
「セシリオ…!貴方…ずっと知って…」
顔を上げた時には、彼はこちらに背を向けて手を振っていました。
それがほんの少しだけ格好良く見えて、セシリオのくせになんて思いながら唇を噛んで、力強く宣言します。
「勿論です!」
がたんと馬車が動き出しました。
村のみんなが見えなくなるまで窓から手を振って、そして朝日を浴びて輝く山に目を移します。
あの山は私の秘密の場所があったところ。
あの夜を境に、彼は居なくなりました。
痕跡を綺麗に消して、まるで最初から誰もいなかったように。
「結局…性交は、してくださいませんでしたね…」
茶化してそう呟きますが、ほんの少しも笑えなくて本に額をくっつけて目を閉じました。
ええ、瞼の裏に思い出す光景はいつだって憎らしいほど鮮明で、とびきり輝いているのです。
「……」
貴方にも、いえ貴方だからこそ私、諦めるなとそう背中を押して欲しかったのだと思います。