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最終話 人を想うこころ

 目を覚ました時にはベッドの上に居た。様々なチューブや配線が自分の身体に繋がっていて、なにをされているのかよくわからなかった。

 お盆時期のUターンラッシュ、居眠り運転のトラックが後方から突っ込んできて乗用車二十台を巻き込む大事故であったと聞かされたのは、目を覚ましてから一週間経ってからであった。

 毎日の様にお見舞いに訪れる叔父に、父と母に会いたいと言うのだが、もう少し元気になってからとはぐらかされた。

 父と母がその交通事故で亡くなったと知ったのは入院から一か月半、退院する時であった。薄々感づいてはいたが、実際に聞かされるまで信じたくはなかった。

自宅には帰らずそのまま叔父の家に行くと荷物は既に整理されており、自分のベッドに飛び込むと葉子は一晩中泣き明かした。

 叔父はとても献身的であった。落ち込む葉子の為に毎日早起きして朝ご飯を作り、会社を終えると真っ直ぐ帰宅し夕飯を作ってくれた。父兄参加の学校行事にも必ず顔を出してくれた。自分の殻に閉じ籠る葉子の為に懸命に尽くしてくれたのだ。その甲斐あってか、中学に上がる頃には葉子も叔父に心を開き、普通の生活を送れるようになった。しかし、あれ以来葉子は涙を見せなくなった。


 ガリガリに痩せ細り、骨と皮だけになった叔父の頭をそっと撫でてやる。抗がん剤治療の副作用で頭髪はもう残っていなかった。クリスマスに編んで上げたニット帽を叔父はとても喜んだ。頭がスースーするから助かると、ずうっと被り続けていたのでところどころ解れていた。

 叔父にはもうほとんど意識がなかった。医者や看護師が呼びかけてもなにも反応がないのだが、葉子が手を握ってやる時だけは弱々しく握り返してくれた。

 叔父は自分が癌になった時に真っ先に心配したのは葉子のことであった。自分が死んだら天涯孤独の身になってしまう葉子の事だけが気がかりだと、「彼氏でも作って連れて来てくれれば安心できるんだが」と毎日の様に言い、葉子はそれを「はいはいそのうちね」と返すのが日課になっていた。


 意識を失う前に叔父が一度だけ、ぽつりと零したことがある。


「葉子、泣いてもいいんだよ」


 叔父は知っていたのだ。葉子が辛い時にこそ決して涙を流さずに我慢していることを、それはもしかしたら自分に心配させまいと迷惑をかけまいとしていると思ったのかもしれない。叔父は自分の所為で葉子は泣けなくなったのだと、そう思わせてしまったことを葉子は酷く後悔し心苦しかった。


 結局葉子は、叔父が亡くなったことに対しても涙を流せなかった。




 どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。葉子は目を覚ますとぼんやりした頭で天井を見つめた。なにかとても悲しい夢を見ていた様な感じがするのだが覚えていなかった。

 モヤモヤしながら身体を起こすとスマホの画面を点ける。時刻は1時12分であった。暫く画面を見つめるのだが葉子は飛び上がった。男性が現れると書いてあった1時半までもうあと20分もないではないか。30分前には日本橋橋梁で待ち伏せしようと思っていたのにすっかり寝過ごしてしまったと葉子は慌てて部屋を出た。

 一階ロビーまで来た所で手紙を部屋に置いてきてしまったことを思い出してエレベーターへと戻る。


「もぉぉぉ、なにやってんのよぉぉぉ」


 エレベーターの表示は最上階の7階で止まったまま、一向に動く気配がない。痺れを切らした葉子は五階の自分の部屋まで階段を駆け上がり、部屋に飛び込むと手紙を手にしてまた一階へと戻るのであった。

 日本橋駅に着いた時に橋梁を確認しておいてよかった。まさか寝落ちしてしまうなんて思ってもいなかったので、これで場所を確認していなかったら完全に間に合わなかっただろう。

 葉子は息を切らしながら深夜の日本橋を走った。時間はギリギリだった。とは言っても1時半ピッタリではなくても、男性を見つければいいのだから少しくらい遅れても大丈夫だろうと思ったところで葉子はふと考える。

 深夜の1時過ぎだとはいえ、もし井上庄之助以外の人が居たらどうしよう? 柴田絹江の残したメッセージには、井上庄之助なる人物の特徴はなにも書いていなかった。その場に何人かの男性が居たらどうすればいい。全員に声を掛けなければならないのか? とにもかくにも、今は間に合わなくては意味がないと葉子は日本橋の街を走った。



「ハアっ、ハアっ、なんとか、間に合った」


 息を切らしながら膝に手を突きスマホの画面を確認した葉子は、なんとか時間に間にあったことに安堵するのも束の間、そのスマホに着信が入る。こんな時間に誰かと思うが、画面を見て葉子は溜息を吐いた。


 それは樹からであった。しつこいことこの上ない。こんなにも未練がましい男だとは思わなかった。どうしてここまで、どうして……。

 葉子はボタンを押そうとしてやめる。そのままスマホはずっと振動し続けた。


 樹はそこまで葉子のことを好きだったのだろうか。付き合っている間は、そんな風にはちっとも見えなかった。たまに会っても趣味のバイクの話ばかり。サークルで行ったツーリング、どこどこに行ったとか、撮った写真なんかを見せられて、今度は一緒に行こうと言われても一度も実現しなかった。

 それは葉子の時間が合わなかったから、いや合わせようともしなかったから。大学の講義が終わればアルバイトに明け暮れ、週一日の休みも疲れ果てた身体を休める為に使った。樹と一緒に居られる時間は大学での授業中と休み時間、そしてバイトが終わった後にたまにお互いの家に行き来するくらいだ。恋人らしいことなど何一つしてこなかったような気がする。

 それでも樹は、ずっと自分と一緒に居てくれた。こんなことがあった、あんなことがあったと、葉子が気のない返事をしても話し続けた。自分に興味を持って貰う為に、葉子にもっと自分のことを見て貰う為に。

 あの日の別れ話、それが樹の嘘だと知った時、葉子は馬鹿にされたと思った。そんな人のことを試すようなことをして最低の行為だと思った。

 樹はずっとそんな気持ちだったのかもしれない。何に対しても醒めた態度しか示さない葉子に、ずっと試されているのだと感じていたのかもしれない。樹はずっと葉子に対して献身的であったのにだ。


「あぁ、馬鹿にしていたのは私だったんだ」


 葉子は呟くと自嘲気味に短く笑った。そうやって他人の心を踏み躙っておきながら自分の方が被害者の様な顔をして、なんとも恥知らずな女なのだろうと思った。


 葉子はそこで初めて気が付く、泣けないのではない、泣かないのではない。涙が溢れてくるほどの人間関係を、他人との心の触れ合いを自分はしてこなかったのだ。

 それは叔父に対してもそうだったのだ。叔父には感謝している、本当の父親のように思っている。それでも葉子は叔父が末期癌だと知った時、また最愛の人を失う恐れから、どこかでこう思うようにしていたのだ。「結局この人も他人なのだ」と、いずれは自分を残し去ってしまう他人なんだと。


 五分程鳴り続けてスマホの振動は止まった。葉子はそれでいいと思った。自分の様な人の皮を被った感情のないただの抜け殻のような女に、樹は振り回されてはならないと思った。


 叶わない想いなら、届かない想いなら、いっそのことそんな想い失くしてしまった方が良いとそう思った。



 気が付けば時間は1時50分、予定の時間を20分も過ぎていた。辺りはシンと静まり返り人影もなかった。

その時、温かい風が吹き抜けたような気がした。


「桜……」


 桜の花びらが舞ったような気がして葉子はそう呟く。そして、それに誘われるように送った視線の先、道路を挟んだ反対側に一人の男性を見つける。


 長身で細身の、自分とそれほど年齢に差がないように見えるその男性は、立ちすくんだままじっと遠くを見つめていた。

 葉子はいつの間にか走り出していた。車道を横断して反対側へと渡って行く。パタパタと駆けて来る葉子の足音に気が付いたのか男性が振り向くと、葉子は自分の鼓動が大きく高鳴ったのを感じた。


 涙を流す男性は、悲しげに見えるのに、とても幸せそうな。そんな、温かい涙。


「あ、あの、井上庄之助さんですか?」


 葉子が問いかけると男性は驚いた表情になり答えた。


「ど、どうして?」

「あ、あの、その、驚かないで聞いて欲しいんですけど」

「どうしてその呼び方を? 庄之助って、あなた、絹江さんのことを知っているんですか?」


 男性の言葉に今度は葉子が驚く、間違いなくこの人が井上庄之助であると、そして柴田絹江の言っていたことは本当のことなのだと。


 男性の本当の名は「井上庄助」、庄之助とは絹江が何度言っても直してくれなかった呼び方らしかった。

 葉子は庄助に順を追って説明した。葉子の話に庄助は黙って耳を傾け、話している間ずっと真剣な眼差しをしていた。


 そして、葉子の差し出した手紙を手にすると寂しげに微笑んだ。


 丁寧に封筒を開けると、庄助は中の手紙に目を通す。葉子はそれをじっと黙って読み終えるのを待つ。


「ありがとう時田さん。こんな、うっ……うぅ……こんなに嬉しいことは……僕は、絹江さんに……絹江さんのことを……あぁぁぁ」


 庄助はその場に蹲り声をあげて泣いた。


 その姿を見つめている内に、いつしか葉子も自分の胸の内に溢れ出てくる感情を抑えきれなくなっていた。


 気が付けば頬を伝う熱い涙が、拭っても拭ってもとめどなく溢れてくる涙に葉子は、人の想いを、誰かが誰かを想いつづけることが、こんなにも切なく苦しいものだと、そしてこんなにも感動をくれるものなのだと思った。


 そして、ようやく葉子は絹江の心が理解できたような気がして、封筒の宛名の後に書かれた一文を思い返す。




―― 井上庄之助様へ


            お慕い申して幾星霜 


                       柴田絹江 ――


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