第02話 バフィラスの世界樹(後編)
見えてきた景色に俊一郎は目を輝かした。
大きく伸びる枝葉はまるで空を包む雲のように広がっていて、あまりに巨大すぎる姿は脳が見間違いかと錯覚を起こしてしまいそうだ。
太く荘厳な幹からは港の世界樹同様、バルコニーや窓などの人の営みが見て取れるが、その雄大さは先のそれとは比較にならない大きさであった。
「これがバフィラスの世界樹か」
さすがの俊一郎も感激して顔を上げる。傍らで「ほえー」と感嘆してるシルフィンも、頭上に広がる枝葉を唖然とした表情で見上げていた。
ここまで連れてきてくれたムジャに別れを告げ、「ご苦労さん」と頭を撫でる。
仕事を終えた毛むくじゃらは、来た道をのそりと自分で戻っていった。
「可愛い家が並んでますね」
「そうだな」
世界樹の根元に土で造った家々の街が並ぶ。蟻塚を大きくしたようなそれは、土塊の壁を日に照らさせながら世界樹を城とする城下町を作っていた。
「ここバフィラスは一等級蟲蜜の産地でな。領主のバフィラス家は昔からサキュバールと親交が深いんだ。本場の蟲蜜作りを見ておこうと思ってね」
「ああ、それで」
メモを取り出しながら俊一郎が街を見回す。市場で蟲蜜の相場に触れたが、ここバフィラスの一等級品はものが違う。砂糖とまではいかないまでも、通常の蟲蜜と比べるとそれこそ十数倍という値段で取引される代物だ。
それが海を渡れば更に十倍ほどに値が上がるというのだから、商売人からしなくても興味をそそられて当然だろう。
「蜜蜂の養蜂は至難の業で、まだオスーディアではどこも成功してないからな。一番乗りすれば一つ目のお嬢さまも悔しがるぞ」
金の匂いを嗅ぎつけながら、シシシと俊一郎が笑う。「またそんなこと言って」と呆れながら、しかしメイドは荷物を背に世界樹の城へと足を向けるのだった。
◆ ◆ ◆
絶句していた。
世界樹を見たときと比べても、計り知れないほどの衝撃を感じながら、俊一郎は唖然と目の前を見つめていた。
世界樹の葉の中に造られたドーム状の空間。
通されたバルコニーに立ちながら、俊一郎は一瞬自分の目と鼻を疑った。
巨大な蟲蜜蜂の巣。
そうとしか表現できないものが目の前にぶら下がっている。
しかし、その「巨大」という表現が、果たして目の前のそれを正しく伝えられているのか俊一郎には疑問だった。
「これが……アキタリア」
思わず声が出る。直径数十メートルはある球状の蜂の巣だった。
周りを飛び交う蜜蜂がまるで黒いモヤのように動いている。けれどそれらのサイズはごくごく普通で、それが尚更に目の前の球体の異常さを伝えてくれる。
下に滴る蜜はもはやちょっとした滝のようだ。粘度を持った蟲蜜が、遠目からは細く紐のように垂れていると見えなくもない。
「ふふ、驚かれましたか」
かけられた声に振り返る。
ルビィ・バフィラス。この地の領主にしてこの世界樹の主たる蜂の亜人の麗人は、もはや見慣れた旅人の反応を愉快そうに眺めていた。
「いやあの……凄いですねっ。ここまで甘い香りが……」
感嘆する俊一郎の言葉にルビィがくすりと笑う。
城の中まで漂ってくる蟲蜜の香りは、もはやちょっとした暴力だ。慣れてなお、息をするだけで肺に甘い空気が入ってくる。
「サキュバール家の代理人さんにそう言っていただけると嬉しいですね。ふふ、バート様も初めて見たときは驚いてました」
巣が一望できる展望室。その豪奢な装飾に飾られた部屋でルビィは異国からの来訪者を歓迎した。
「しかし……これだけ大きな巣だと蜜の量も凄そうですね。いったい年間でどれくらいの量を出荷できるんですか?」
見上げながら俊一郎が質問する。それに「あら」とルビィが返した。
「いえ、この子は売り物ではないんですよ」
「え?」
淡々と言うルビィに、俊一郎が軽く驚く。
「その……サキュバールとの契約だけでも相当な量を輸出されてますよね?」
「ええ。この通り、来年もよろしくお願いいたします」
不思議そうな顔をする俊一郎と、ルビィがにこりと笑って羊皮紙を取り出した。
聞けば、この巨大な巣は神聖なもののようで、売り物の養蜂場はまた別の場所にあるらしい。
「なるほど。だとすれば、このこれだけの量を……少し勿体ない気もしますね」
「ふふ、その心配には及びません」
商売人の性か、流れ落ちていく蟲蜜を眺めていた俊一郎にルビィがくすりと笑みを浮かべた。
俊一郎が問い返す前に、澄んだ顔で巣を見つめる。
「そうですね。この季節でしたら……もしかしたら面白いものが見られるかもしれませんね」
「面白いもの?」
バルコニーの方へ顔を向けるルビィを見て、不思議そうに俊一郎は首を傾げた。
その瞬間、ドズンという地響きが鳴り響く。
「!? な、なんだ!? 地震!?」
いきなりの揺れに、俊一郎が声をあげる。
地響きはなおも鳴り続け、しかも揺れが段々と大きくなっている。
足音のように連続して鳴る揺れに、これは地震ではないと俊一郎が気づいた頃、ルビィはにこりと微笑んだ。
「ああ、ちょうどよいタイミングですね」
ルビィが呟き、その瞬間、バキバキと世界樹の枝が音を立てる。
「貴方はどうも、幸運を招く力があるようです」
その意味を問う前に、俊一郎は訪れた光景に我が目を疑う。
足音のように、ではない。
世界樹の枝葉を、巨大な爪が切り裂き広げる。
その毛皮は、全身がまるで夜空のような煌めきで覆われていた。
「く、熊……ッ!?」
枝を押し広げて、巨大なクマが姿を現す。
足音のようにではなく、足音そのものだったのだ。
目を疑うほどに巨大なバフィラスの世界樹と蟲蜜蜂の巣。その巣に匹敵するほどの大きさのツキノワグマが、切り裂いた枝の間から顔を覗かせていた。
胸に光る三日月型の模様は、まるで真珠のように美しく光り輝いている。
その巨体が、枝を押し広げながら前進してきた。巣に突撃し、ダイブするように腕を伸ばす。
「バフィラスの土地神です。ああやって、年に数度おやつを食べに来るんですよ」
「は、はぁ……おやつですか」
楽しそうに話すルビィの声を、俊一郎は引け腰で聞く。
目の前で、熊神が両手で蟲蜜を掴み上げた。そのまま、豪快に巣ごと蜜を口の中へと放り込む。
蜂達が騒ぎだし黒いモヤが噴き出すが、熊神はそんなことなどお構いないとでも言うように、巣の一部を片手で引きちぎると更に口の中へと運んでいった。
口元から溢れる蜜だけで、大小無数の蜜の滝が出来上がる。
「……シュンイチローさま、ちなみに養蜂の件は?」
「いやぁ……また今度にしようか」
見上げながら質問してくるシルフィンに、俊一郎は勘弁してくれと答えるのだった。
◆ ◆ ◆
「わぁ」
テーブルの上に置かれた甘い塊に、思わずシルフィンの声が漏れた。
「土地神さまの食べ残しで申し訳ありませんが、せっかくなので頂きましょうか」
「い、いいんですか?」
蜜をふんだんに吹くんだ巣の欠片。両手で持つくらいかなり大きなそれが、豪華な皿の上に贅沢に置かれている。
巣の欠片を「へぇ」と嬉しそうに見やる俊一郎の隣で、「はわわわ」とシルフィンが目を輝かせた。
「やったなシルフィン。土地神さまの御供えものだぞ、なかなか食えるものじゃない」
「うう~!」
感激して言葉になってないシルフィンをくすりと俊一郎が見つめる。
背後では、半壊している巣を直そうと蜜蜂たちが必死になって飛び回っていた。
「シュンイチローさま! 食べて! 食べていいですか!?」
「ああ、今回ばかりは先を譲ろう」
両手で欠片を持ったシルフィンを、俊一郎とルビィが楽しそうに見やる。
譲られた一口目の大役に、シルフィンは震える手で欠片を構えた。
「で、では……!」
ガプリと囓りつく。
中々の大きさを「豪快に行ったな」と思いながら、俊一郎はメイドの反応を窺った。
土地神も欲しがる世界樹の奇跡。さてお味はいかほどか。
「う、うううう~~!」
(な、泣いた!?)
感激のあまり涙を流すシルフィンに、思わず俊一郎もびっくりする。
甘党のメイドは、どうやら熊神並みにお気に召したようだった。
「まぁ、どうせなら豪快にいったほうがいいか」
さて自分もと、袖をめくり片手で欠片を掴む。
当然手がべちょりと汚れるが、そんなことはこの欠片の前では些細に過ぎる事だ。
「~~! くぅ~~ッ!」
齧り付き、広がる甘さに俊一郎は目を瞑った。
じゅわじゅわと、暴力的なまでの甘さの濁流が口だけでなく喉にまで流れてくる。
「甘くて美味いな!」
子供のような感想を言う俊一郎に、けれどシルフィンもこくこくと強く頷いた。
「巣の外壁がまたいい感じだ。ザラっとして、変わった食感のお菓子みたいだな」
物凄い甘さだが、不思議とすっと引いていく。全然後に残らない甘さは、いくら食べても胸自棄などは起こさないだろう。
巣の薄壁も、グミのようなソフトキャンディのような不思議な食感だ。液体ではなく固体なこの部分が、巣を丸ごと食べているという実感を与えてくれる。
「うう~、アキタリア来てよかったです~!」
シルフィンの感激が止まらない。
くすりと笑うルビィに気づき、俊一郎は頭を下げた。
「す、すみません。はしゃいで」
「いえ。喜んでもらえたようでなによりです」
もちゃもちゃと欠片を頬張っているシルフィンを嬉しそうに眺めながら、ルビィがくすくすと微笑む。
「どうですか、アキタリアは?」
聞かれ、俊一郎はちらりと穴が開いた世界樹に振り向いた。
熊神の姿は今はなく、けれど崩れた巣にその爪痕がはっきりと残っている。
「ええ、楽しませてもらってます」
来てよかった。メイドと同じ気持ちを抱きながら、俊一郎はニカリと笑顔を見せるのだった。




