第17話 人魚の涙
クリオネという生き物を知っているだろうか?
体が透明で「流氷の天使」とも呼ばれる、水族館でも人気のアレだ。
「お、おおう……なるほど、こう来たか」
言われてみれば、さすがの自分もこれを食べたいという目線で見たことはないと、俊一郎は皿の上の天使を見つめた。
天使貝という名の、馬鹿でかいクリオネのムニエルがそこにあった。
「なんか可愛い形してますね!」
「う、うーん。そうだな……可愛い? のかどうなのか」
クリオネの原型を知らないシルフィンはともかく、俊一郎からすれば違和感この上ない。
彼が知るクリオネはせいぜいが小指ほどの大きさで、目の前のそれはイカの姿焼きもかくやという大きさだ。
可愛いというよりは、この大きさだと少し不気味で、けれど漂うバターの香りは鼻と胃袋を刺激してくれる。
「とりあえず食べるか」
「そうですね!」
光る銀食器を手に持って、俊一郎は天使貝のムニエルに刃を入れた。
弾力が手に伝わり、「ほぅ」と切れ端を口に運ぶ。
「おっ、美味い」
なるほどと頷いた。
「食感はイカに近いな。貝独特の旨味もある」
「美味しいでふね!」
アワビと近い上品な旨みだ。それをバターでふんだんに仕上げているのだから不味いわけはない。
凄まじいインパクトがあるかと言われると首を捻るが、十分に高級な味わいだと俊一郎は微笑んだ。
「あ、旦那さま。この赤いとこ美味しいです」
「ん? どれどれ……おっ、本当だ。こりゃ肝だな」
少しの苦みと、エビ味噌のような濃い風味が広がる。苦手な人も多そうだが、淡泊な素材の中ではいい味の代わり具合だ。
「お客さま。当店は初めてですか?」
ゆっくりとした時間を過ごしていると、店員に話しかけられた。
俊一郎とシルフィンに微笑みかけ、店員が小さなボードを前に出す。
「初めてのお客様にウェルカムドリンクをご提供させて頂いているのですが、いかがでしょう?」
「お、いいね。どうだシルフィン、君も飲むだろ?」
こくこくと頷くメイドを見て、快く俊一郎が注文する。
どうも店の名物らしく、俊一郎は手渡されたボードを興味深げに覗き込んだ。
「へぇ、人魚の涙だって。洒落てるな」
「あそこで歌ってる人のですかね?」
シルフィンが水のステージで歌っている人魚の歌姫を振り返った。「それはないだろ」と俊一郎は呆れるが、万一に備えても身構える。
「そういえば人魚の人は初めて見るな」
「あー、水がないと泳げませんからね。住むところ探すの大変らしいですよ」
「なるほど。歩けないもんな」
言われ俊一郎は歌姫の方を見つめる。腰から下は魚そのもので、確かに生活は不便そうだ。
あそこで歌っているということは、店まで出勤してきているということで、どうしているのだろうと現実的な疑問が浮かぶ。
「まぁ、なんにせよ。腹が減るいい曲だな」
「……そ、そうですか?」
美しい旋律に腹を撫でている自分の主人を見やりながら、シルフィンは呆れたように最後のひとくちを放り込むのだった。
◆
「お待たせいたしました」
そう言われ、目の前に出されたグラスには透明な果実酒が注がれていた。
(白ワイン。……確かにこの世界じゃ珍しいが)
あるにはあるが、果実酒といえば大体が赤く濁ったものだ。その点目の前のものはグラスの底まで透き通っていて、この世界ではそれだけでも価値がある。
要は「人魚の涙」というのはご大層なラベルの名前で、少々拍子抜けだなと俊一郎は肩を落とした。
(まぁ、サービスのウェルカムドリンクにそこまで期待しても仕方ないか)
上等な酒が飲めるだけでも御の字だ。そう思いグラスに手を伸ばすと、やんわりとソムリエにその手を遮られた。
「?」
不思議そうに俊一郎が顔を向けると、ソムリエはにこやかな顔で一本の小瓶を取り出す。
先がピペットになっている変わった形だ。それをゆっくりと、ソムリエはグラスの上に近づけた。
「人魚の涙でございます」
ぽとんと、一滴の液体がグラスに落ちる。
その瞬間、しゅわしゅわとした泡がグラスの中から立ち上りだした。
「おお!」
それだけではない。ゆっくりとゆっくりと、小さな透明な粒がグラスの底へ落ちていく。
どうも泡はその粒を中心に発生しているようで、底にたどり着くころには立派なシャンパンが完成していた。
「ようこそアトランティス号へ。涙は今日の記念にお持ち帰りください」
底に転がる小さな宝石。微笑むソムリエに、俊一郎は満足そうに微笑み返す。
見れば、メイドは嬉しそうな顔で透明な宝石を見つめていた。
「うん、味もいい。よかったなシルフィン。俺のもやろう」
「えっ!? いいんですか!?」
ぴこりと尖ったエルフ耳が揺れ動く。
当然だと頷く俊一郎に、シルフィンはピコピコと顔を華やかせた。
「見ろ。船内のジュエリーショップでピアスに加工してくれるみたいだぞ。至れり尽くせりだな」
「ぴ、ピアスですか? ……ど、どうしましょう」
渡された案内書を、ぴらぴらとシルフィンに見せつける。来る途中にあったあのジュエリーショップだ。
「ああ、エルフは耳を大事にするんだったな。いいじゃないか。この際開けてみたら」
「え、えええっ!?」
シルフィンがバッと両手で耳を隠した。反応に笑いながら、「冗談だ」と俊一郎が愉快そうに目を細める。
「い、言っていい冗談と悪い冗談があります!」
「悪い悪い。いやでも、似合うと思うけどな」
頬を染めるメイドに笑みを浮かべつつ、俊一郎はシルフィンを見やる。
照れた顔を誤魔化すように、シルフィンはぐっとグラスを呷った。
「もう! 旦那さまはいつもそうやって……!」
「あっ、おい」
ぐっとグラスを飲み干すシルフィンに、俊一郎が慌てて声をかける。
「君、人魚の涙」
「ぶふッ!!?」
噴き出すメイドをあちゃあと見つめつつ、まぁこれも思い出かと俊一郎は通りかかったウェイターに布巾を頼むのだった。




