第01話 秘密(1)
「ふんふんふーん」
その日、シルフィンは鼻歌を口ずさみながら王都の街を歩いていた。
空を見上げれば日はまだ高く、通常ならば屋敷の掃除や夕食の買い出しに追われている時間帯だ。
『今日は外で食べるから、なんならもう上がっていいぞ』
雇い主にそう言われたのが数刻前。どうも食事の予定があるようで、夕食の支度はしなくともよさそうだ。
予期せぬ休息を言い渡されて、嬉しいが少々困ったようにメイドは流れていく白い雲を眺めた。
予定もなければ会うような友人もいない。考えてみれば仕事以外のことに思いを向けるのはいつかたぶりか。
機嫌は上向きだが、なにをすればいいかさっぱりだ。食事でもと思ったが、女一人で入れるような店もあまり知らない。
(んー、私も旦那さまのこと言えませんねぇ)
仕事人間かつ食べることにしか興味のないご主人様に呆れていたが、食い道楽という趣味がある分自分よりもマシかもしれない。趣味はなんですかと言われれば、今は家庭菜園に料理の研究……言ってしまえば全て仕事だ。
(うーん、こんなんだから浮いた話もないんでしょうか)
なんだかんだで、みんな上手くやっている。旧知のメイド仲間の幾人かは執事や出入りの業者の人と付き合っているし、中にはお屋敷の嫡男を誑かした強者も。
かといって出会いもないしと思ったところで、気難しそうな雇い主の顔が思い浮かんだ。
(……いや、ないない)
どきりとすることもあるにはあるが、なにせアレだ。女性の身体よりも、文字通り瑞々しい果実の方に興味を向ける男なんぞごめん被る。
「手芸屋にでも生きましょうか……っと、すみません!」
雲の動きに上の空だった。曲がり角で人とぶつかってしまい、慌ててシルフィンが声をあげる。
フード付きのローブを被った女の人。「きゃ」っと小さく声が聞こえ、尻餅を付いてしまった女性に向かってシルフィンが手を差し伸べる。
「だ、大丈夫ですかっ!? すみません、ボーッとしてて!」
自分に突き飛ばされるほどの線の細さ。申し訳なさそうに差し出された右腕に、少女はびくりと身を震わせた。
そのときだ、少女の頭に掛かっていたローブのフードが、風に吹かれてぺろりとめくれる。
「あっ」
「へ?」
慌てて少女がフードに手を伸ばすが既に遅い。
露わになった顔を見て、シルフィンはぎょっと目を見開いた。
「……え?」
「あわわっ、す、すみません! 人違いです!」
必死に両手で隠そうとする少女の顔を、シルフィンはマジマジと見つめた。そんな馬鹿なと思ったが、記憶の糸を手繰り寄せて唖然として口を開ける。
「ひ、姫さま?」
びくりと少女の身体が震えた。恐る恐るのぞき込んでくる瞳を見て、シルフィンは確信する。
誕生会。ホウオウドリの卵をあろうことか自分たちは誰に向かって差し出したのか。
セシリア姫。見間違うはずもない。この国の王位第一継承者だ。
「あれ……貴女は、確か……」
目と目があった。セシリアの目が記憶を探るようにシルフィンを見つめる。当日はドレス。しかし特徴的な青髪と仏頂面は見覚えがありーー。
メイドとお姫様は城下町の街角で互いの顔を見つめ合った。
◆ ◆ ◆
「って! どうして姫さまがッ!?」
「あ、ダメですッ! シーッ!」
しばし見つめ合った後、叫ぶシルフィンにセシリアが飛びついた。口を押さえられ、シルフィンがもごもごと続きを喋る。
真剣な表情で見つめてくるセシリアに、慌ててシルフィンも口を噤んだ。
「す、すみません。あの、その……なんで姫さまが」
「ここは危険です。詳しい話は、落ち着いた後で」
緊張する以前に頭が追いついていないシルフィンの手をセシリアが握りしめた。ぐいと引っ張られ、断ることもできずにシルフィンはセシリアについて行く。
街の裏路地を突き進んでいくセシリアの背中を見て、シルフィンはちらりと後ろを振り返った。
危険。まさか邪な輩に追われているのだろうかと唾を飲み込む。
柔らかな姫の手を握りしめながら、シルフィンは涙目で駆ける王女について行った。
◆ ◆ ◆
「に、逃げてきたぁ!?」
数分後、二人は王都の広場のベンチで息を付いていた。
あっけらかんと語られた姫様の言葉に、シルフィンはただただ愕然としてセシリアを見つめる。
「そうなのです! 見てください、この晴れやかな陽気! 賑やかな広場! なんて素晴らしい!」
にこやかな顔で両手を広げるセシリアは嬉しそうだ。きょろきょろと辺りを見渡し、「くぅ〜!」と自由を噛みしめる。
「一度、王都の広場に来てみたかったのです! なんて平和で素敵なところでしょう! ほら見てシルフィンさん、あの幸せそうな民草の方々を!」
「そ、そうでございますね」
きゃいきゃいとハシャぐセシリアとは裏腹に、シルフィンは脂汗を滲ませていた。なにせ自分の隣にいるのは自国の姫君で、しかもどうやら無断でこの場にいるらしい。
(え? どういうこと? 姫さまがなんで……というか私、もしかしなくてもマズいんじゃ……)
悪漢に追われているわけではないと分かり安堵したが、よくよく考えれば一息ついている場合ではない。要は追っているのは護衛か執事で、ヘタをすれば王室近衛隊が巡回している可能性すらある。
この状況。端から見れば、王女をかどかわした平民以外の何者でもない。
「でもよかったですわ! まさか知り合いの方に出会えるなんて! これも聖鳥のお導きでしょうか!」
「そ、そうですね」
どうしよう。それだけがシルフィンの頭を巡る。常識的に考えれば自警団に連れて行くべきだが、それは隣の姫様が望んでいない。
(もし、姫様のご機嫌を損ねたら……)
ぶるりと背筋が震えた。自分だけではない、主人とその友人の顔が浮かんで消える。
涙目でセシリアを見つめると、セシリアがきょとんと首を傾げた。そして気づいたように、どんと胸を手で叩く。
「ご安心ください! シルフィンさんにご迷惑はかけませんわ! 少し遊んだら、こっそり城に帰ります」
「は、はぁ。それなら」
要はちょっとした火遊びがしたいということだろう。それくらいなら大丈夫かとシルフィンは空を見上げた。相変わらず暢気な雲が浮かんでいて、姫様に気づかれないように内心息を吐く。
「その、なんでまた脱走なんか」
「そう! それです! 聞いてくださいシルフィンさん!」
ぴしりとセシリアが指を立てる。一国の姫が自分の名前を呼んでいることに数奇な運命を感じながら、シルフィンはセシリアの白い肌を見やった。
「お稽古にお勉強! 毎日毎日ガミガミガミガミ。食事中ですらやれ背筋がやれ指使いがと、気の休まる暇などありません! わたくしだって、たまには童のように遊びたいのです!」
「な、なるほど」
ありがちな話だとシルフィンは苦笑した。とはいえ、貴族どころではない、大国の王族だ。軽く言っているが、そのお稽古もお勉強も、平民の自分には想像を絶するものであるのだろう。
おそらく結婚相手すら政治で決められてしまう、そんな身分の高貴な少女。シルフィンは少しだけ同情しつつセシリアの愚痴に耳を傾けた。
(ま、まぁ一日くらいなら)
羽を伸ばす日があってもいいのではないか。そんなことを思ってしまって、シルフィンは自分でも信じられないと息を吐く。
厄介事は極力避ける性格だが、厄介の塊のような主人に仕えているからだろうか、乗りかかった船だとシルフィンは覚悟を決めた。
「よし!」
勢いよく立ち上がったシルフィンに、びくりとセシリアが目を向ける。腰に手を当てて仁王立ち披露しながら、シルフィンはベンチに座る姫様を見下ろした。
「わかりました姫さま。遊びましょう。このシルフィンめにお任せください!」




