第31話 テイオウ貝の酒蒸し
「ふぅ……ちょっと買いすぎましたかね」
両手いっぱいに提げられた買い物カゴを見やって、シルフィンはにこりと笑った。
特段珍しい食材があったわけではないが、今日の朝市の収穫は中々に満足だ。新鮮な野菜に、質の良い肉。夕飯のレシピを考えながら、エルフのメイドは買い忘れがないかチェックする。
「そういえば、香辛料が切れてましたね」
ふと、台所の調味棚が思い浮かんだ。塩の横に並んだミルの中身が残り少ないことを思い出して、シルフィンはくるりと身体を反転させる。
なくても作れないことはないが、せっかく良い肉が手に入ったのだ。雇い主には、どうせなら美味しいものを食べて欲しい。
この間から進めている、町おこしの計画。詳しいことはさっぱりだが、忙しそうなのは一目で分かる。なんだか疲れているようだし、雇われメイドとしては主人の体調管理も職務の一つだ。
「ついでに明日の分も少し買ってから……ッ!?」
日持ちをする食材でも。そんなことを考えた瞬間に、シルフィンの目が見開かれた。あまりの突然に驚いて固まるが、至極平然とした声がシルフィンの耳に届けられる。
「あら、貴女は。カツラギ様のところの……」
大きな一つ目に見下ろされ、シルフィンは唖然とした顔で手に持った買い物カゴを震わせるのだった。
◆ ◆ ◆
「えっと、その……」
手元に光る銀食器を見つめながら、シルフィンはわけが分からないままに声を絞り出した。
掠れたような声を聞き流し、対面に座るシャロンがグラスをくいと口に付ける。
「遠慮せず、好きなものを頼んでくださいませ。……果実酒はお嫌いでしたか?」
「い、いいい、いえッ! だ、大好きでひゅッ!」
首を傾げたシャロンに、ぶんぶんとシルフィンが首を振る。それに「それはよかった」と微笑んで、シャロンはグラスの中身を軽く揺らした。
(な、なんでこんなことにーーッ!?)
優しげな微笑みに、シルフィンは泣き出しそうになってしまう。なんとか両手の震えを抑えつけながら、メイドはちらりと周りを覗いた。
ピカピカに磨かれた床石に、いくらするかも分からない調度品の数々。目の前の名前も知らぬ小魚が載っている白い皿も、割れば彼女の月給は飛ぶだろう。
そしてなにより、個室である。控えた三つ首の従者を除けば、女二人きりのディナータイムだ。
『いかがです? 少し早いですが、一緒に夕食でも』
断れるはずもなかった。「なぜ私と?」という疑問が幾百回も浮かんだが、四大貴族のご当主様からの誘いを一介のメイドが断れるはずがない。
そう、自分はただのメイドなのだ。
「お口に合えばいいのですが。いえ、ここの店はうちの家が出資しておりまして」
「だ、大丈夫でひッ! た、たたた、大変美味しッ、美味しゅうございまひゅッ!!」
呂律が回らない。はっきりいって味なんか分からないと思いながら、シルフィンは小魚をカチカチとナイフで切り分けた。
そんなシルフィンの様子を楽しそうに眺めながら、シャロンはぐいとグラスを飲み干す。当然のように空いたグラスを宙に向けると、セバスタンが無言のままに次を注いだ。
「店の者が入ると、気軽に脚を崩すこともままなりません」
言いながら、シャロンは深く椅子の背に体重を預ける。テーブルの下で彼女が脚を組んだのが対面にも伝わって、シルフィンは少し面食らったように彼女を見つめた。
「その……た、大変ですね」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいです」
失礼になりはしないだろうか。そんな不安と共に向けた呟きは、けれど笑顔と一緒に歓迎される。
シャロンがひょいと指で小魚を掴んだのを目撃して、手前のメイドはぎょっと目を見開いた。
「お嬢様、あまりからかわれては」
「いいではないですか。驚く顔が見られましたし」
笑いながらソースの付いた指を舐めるシャロンを、傍らのセバスタンが窘める。ただ彼も主人の気苦労を知っているのか、それ以上は言わずに後ろに控えた。
抱いていた印象とどうも違う一つ目のご当主様を、シルフィンは驚きながらもどこか腑に落ちていた。
なぜ自分なんかが食事に誘われたのだと疑問に思ったが、要は誰でもよかったのだろう。ただ、彼女の身分では、おいそれと食事相手も見つからない。
「そういえば、カツラギ様はお元気ですか?」
「え? あ、はいッ」
ふいに聞かれ、「それは重畳」とシャロンはセバスタンに振り向いた。
メインディッシュを持ってくるように言われ、三つ首の従者が承知しましたと腰を折る。
「楽しみですね」
にこやかに細められた一つ目で見つめられ、シルフィンはコクコクと頷いた。
◆ ◆ ◆
「あら、美味しそうじゃないですか」
言葉の割には平坦なシャロンの声を、シルフィンはどこか遠くに聞いていた。
「そ、そうですね」
再びなんとかそれだけを絞り出し、シルフィンは目の前の料理を見つめる。
たらりと、汗が額を流れていった。
「テイオウ貝の果実酒蒸しです。バターはエルダニア産だそうで」
「ふふ、ポイント高いですわ。そういう媚びの売り方、わたくし大好きです」
セバスタンの説明に、シャロンが軽口で応える。王都で自領の名前が出てきて、お嬢様の機嫌が僅かに上がった。
だが、対面のメイドはそうもいかない。眼前に鎮座する巨大な物体を、乾いていく口を感じながら見つめていた。
テイオウ貝。聞いたことがある。確か、宝飾品にも使われる貴重な貝だ。
その貝柱は絶世の美味だと噂されるが、本当に食べているところなんて見たことも聞いたこともない。
テーブルを半分埋めるほどの巨大な貝が二つ。なにやら色とりどりの食材が添えられた貝柱を見つめ、シルフィンの背に脂汗が浮かんだ。
胸に隠した指輪を思い出す。以前、主人と食べたジュエルクラブ。正直、目の前のこれはそれと比較にならないほどのーー。
「しかし、テイオウ貝とは。気が利いているというか、なんというか」
そう言いながら、シャロンがセバスタンに右手を向けた。言われ、セバスタンはシャロンのハンドバッグを恭しく手渡す。
ゴソゴソとバッグの中身を探るシャロンを、シルフィンは不思議そうな顔で眺めた。
「ふふ、すみません。最近、ちょっと凝ってまして」
はにかんで、シャロンはハンドバッグからガラス製の容器を取り出した。どうもミルのような形状で、中になにか光るものが入っている。
その丸く輝く中身を見て、シルフィンがびくりと身体を跳ねさせた。
「お肌にいいんですよ。美しさを保つのは、女性の義務です」
「えと、その……それ」
愕然と、シルフィンはシャロンの手元を見つめる。白く輝く中身。あれはどう見ても、なんというかあれであって。
「これですか? テイオウ貝の真珠ですけど……ふふ、すごい偶然ですね」
ぶっちゃけ見間違いであってくれ。そう願っていたシルフィンの想い虚しく、シャロンはささやかな日常の世間話のように愉快げに笑った。
そして、シャロンの手が容器を掴む。なんとなくそんな気はしていたが、そんな馬鹿なとシルフィンは目を剥いた。
「こうやって料理にかけて食べると、翌日にはお肌つるつるなんですよ」
ガリガリと、音を立てて大振りの真珠が粉になっていく。あまりにもな光景にシルフィンはもう少しで気を失ってしまうところだった。
もはや、削られていく真珠を自分の給料に置き換える気力すら湧かない。
「はい、シルフィンさんもどうぞ」
そして、にこやかな笑顔と共にミルの容器が彼女の元にも差し出される。
流れようとする汗すら止まり、シルフィンは懇願するようにシャロンを見つめる。
けれど、「……?」と不思議そうに微笑んでくる四大貴族のご当主様に、メイドは恭しく頭を垂れて美容にいいという白い調味料を受け取るのだった。
◆ ◆ ◆
「美味しいでふ……」
なんだか泣きたくなってきたシルフィンは、それでも舌に感じる美味しさに救われていた。
ナイフで簡単に切れるものの、しっかりとした貝柱の弾力。噛みしめる度に、とんでもない旨味が口の中でじゅわりと広がる。
バターも凄い。なんというか風味が豊かで、上手く感想にできない自分に嫌気がさしながらも、シルフィンはシャロンに喜びを伝えた。
「それはよかったですわ。ふふ、王都でもこれだけの味が楽しめるとなると……魔導鉄道もロプスに恩恵だけを与えてくれるわけでもなさそうですね」
口調とは裏腹に楽しそうなシャロンをシルフィンは見やる。自分のような者と食事をして、本当に楽しいのだろうかと不思議に思った。
身分というより、世界が違う。自分の雇い主も相当なものだが、彼女との住んでいる場所の隔たりはそれ以上だ。
「あの、シャロン様はその……リュカさんとお知り合いなんですよね?」
なにか言わなければ。そんな考えが思わず口を滑らす。言った後でしまったとシルフィンの身体が強ばるが、恐る恐る覗いたシルフィンは意外な表情で唇を尖らせていた。
そんな表情もするんだと、シルフィンはシャロンを見つめる。
「親友……でしたわ。ほんと、なんでこんなことになったのやら」
一気に飲み干して、空になったグラスへ忌々しげにシャロンは目を向ける。
「とはいっても、リュカさんが大学に行くまでです。彼女は飛び級でしたから、一緒に過ごしたのはほんの二年ほど。……言ってしまえば、彼女にとっては大学での生活のほうが遙かに長い思い出なわけです」
悔しさを隠しもせずに、シャロンは自嘲気味に笑った。
「高等学校を卒業してから、家を守るために仕事しかしてこなかったわたくしには、友人と呼べる思い出は彼女たちだけです。……お察しの通り、八つ当たりなんですわ。恋人も友人も仕事も、彼女は全て持ってますから」
シャロンの言葉が、ズキンとシルフィンの胸に刺さった。なんだか自分のことを言われているようで、住む世界が違う人の話なのに他人事とは思えない。
「えっとその……シャロンさんは、恋人とかは」
「シルフィンさん」
ぐにゅりと、シャロンの握っていた銀食器が変形した。握りしめた指の形に、まるで粘土のようにぐにゃりと歪む。自分の手に握ったナイフの硬さに、シルフィンはぞっと背筋を凍らせた。
「いいですかシルフィンさん? 女性の価値は、そんなものでは決まりません。恋人とか結婚とかモテるとか、否定はしませんが殿方だけが女の幸せではないのです」
「そ、そうでひゅよね……」
あらいけないと、笑顔のままにシャロンの指が変形したナイフを摘む。 タネも仕掛けもありはしない。なんの抵抗もなく真っ直ぐに戻っていくように見えた。有無を言わせぬ迫力に、上擦りながらもなんとかシルフィンは返事をする。
「貴女の仕事も立派なものです。使えている主人は男性ですが、そこは重要ではありません。ほんと、恋人を大学に連れて行ったりだの、恋人と一緒に起業するだの、あまつさえ破廉恥な格好で恋人以外の男友達と飲み騒ぐだの……これっぽっちも羨ましくありませんし、なんとも思っておりません」
「で、ですよねー。わ、わかりまひゅ」
失言した自分を殴りたい。生きた心地がしないまま、シルフィンは震えそうになる脚を必死になって指で摘んだ。
「お嬢様、そろそろお時間が」
「あら、もうそんな時間ですか?」
シルフィンの窮地を、三つ首の従者が救い出す。
セバスタンが取り出した懐中時計を見て、残念そうにシャロンが呟いた。
「仕方ありませんね。デザートは、また今度ということに」
ごめんなさいと謝るシャロンに、シルフィンがぶんぶんと首を振る。
そんなシルフィンに微笑んで、シャロンはふと動きを止めた。
「セバスタン。紙とペンを」
「畏まりました」
言われ、セバスタンは懐から小さなメモ用紙とペンを取り出す。受け取ったシャロンは、さらさらと紙に何かを書き始めた。
「楽しかったですわ。……久しぶりに、学生時代の昼休みを思い出しました」
そう微笑んで、シャロンはメモをシルフィンに手渡した。受け取り、恐る恐るシルフィンがそれを見つめる。
「なにか困ったことがあれば、言ってくださいまし。ふふ、今日のお礼は、またいずれ」
立ち上がり、シャロンの一つ目が細まった。
颯爽と立ち去っていくシャロンの背中を見送りながら、シルフィンは今一度手の中にあるメモ用紙へと目を落とす。
「……ど、どうしよう」
渡された通信機の番号を見つめながら、なぜか買ったお肉の鮮度が気になり始めて、シルフィンは自分も帰宅を急ごうと椅子から立ち上がるのだった。




