第08話 幻想市場
「えっ? 市場にですか?」
朝、珍しく早く起きた俺をシルフィンが驚いたように見つめる。
彼女は背中からカゴを下げ、今から買い出しに向かうところだった。
「ああ、興味があってな。ニルスが近いから、海鮮もあると聞く。俺も見ておきたい」
スーツ姿の俺を、シルフィンはじっと見つめた。微かに漏れる「また面倒なことを」と言っている表情を無視して、俺は彼女へと歩み寄る。
「構いませんけど、混んでますよ?」
「ふふ、重々承知だ。活気のない市場など、意味がないからな」
人混みが苦手な俺を気遣って、シルフィンが一応念を押す。そんなに心配しなくても、俺だって子供ではない。
たまには異形の活気に触れるのもいいだろう。
◆ ◆ ◆
「帰りたくなってきたな」
「……怒りますよ?」
ぼそっと呟いたつもりだが、シルフィンに睨まれた。
まさか、これほどだとは。築地の市場もかくやという人の多さである。
貿易居留地。そんな土地の朝市は、まるで別の国に来たかのようだ。
昔行ったアジアンマーケットがこんな感じだったなと、俺は辺りに目を配る。
角、尻尾、鱗。ときには翼にクチバシまで。
人間の人混みながら耐えれないこともないが、これはちょっとキツい。
けれど、俺の目は市場に並ぶ品々に釘付けだった。
「おいおい、なんだこれは。凄いぞ」
ちょうど目に留まった、大根のような野菜を指さす。
見た目はまんま大根だ。その代わり、でかい。150cmはあるんじゃないだろうか。ゴボウのように長細くもなく、大根がそのまま大きくなった感じだ。
「なにって、デェコンですよ。この前作ったスープに入ってたと思いますが」
「あれがか? こんなに大きかったのか」
道理で何日も大根料理が続いたはずだ。驚きはしたが、二人暮らしにはちょっと買いにくい食材である。
考えてみれば、この世界の大規模な市場を見るのは初めてだ。
目に映るものが基本新鮮で、思わず胸がわくわくしてくる。
「おいシルフィン、あっちにピンク色の鶏がっ!?」
「そりゃあ、ピンクもいるでしょう。鶏なんですから」
つれないシルフィンの説明に、俺はぎょっと目を開けた。よくよく見れば、ピンクの鶏の横には緑色や青色の鶏が売られている。縁日のカラーひよこが成長したみたいだ。
呆れたというよりは不思議そうなシルフィンの顔からして、この世界の鶏はカラフルなのが普通らしい。食欲が湧くのか減るのかよく分からない鶏肉を見つめながら、俺は間抜けに口を開く。
「もしかして旦那さま、あまり市場に来たことがないのですか?」
「言われてみれば、そうだな。バートに会う以前はパンや塩のスープしか食ってなかったし」
あの頃は大変だった。右も左も分からない異世界で、生きるのに必死だった。市場で食べ物を買う金すらなかったのだ。
わざと目を背けていたせいか、おかげさまで今は新鮮な気分で市場を観覧出来ている。
振り向けば、なぜか目を見開いたシルフィンがこちらを見てきていた。
「どうした?」
「い、いえ。その……ちょっと驚いて」
言葉を濁すシルフィンに首を傾げる。驚くところなどあったろうか。
まぁ、別にどう思われようが構いやしない。俺は次に目に付いた食材を指さしていく。
「シルフィン、あれは!? なんか馬鹿でかい豚がっ!?」
「ああ、あれはギトルですね。ほら、ああやってお腹に溜まった油を売ってるんですよ」
視線の先では、肉屋の主人がぶくぶくに肥えた豚のような生き物にナイフを突き立てていた。突いたそばから、ぴゅーっと油が飛び出している。それを瓶に詰めて客に渡している様を見て、俺はうへぇと顔をしかめた。
「なんだありゃあ。気持ち悪いな」
「でも、優秀な家畜ですよ。油専用ですけど。というか、昨日の唐揚げはギトル油で揚げましたし」
うわぁ、なんてことだ。確かに美味かったが、あの不細工な面から取れた油だと思うと食欲が落ちる。
「エルダニアは元々、ギトル油と小麦の生産で大きくなった街ですからね。魔力発電が普及する以前も、エルダニアだけは油の街灯で夜が明るかったらしいですよ」
「ほぅ。よく知っているな」
そういえば、王都に比べて古い電灯が多い気がした。あれは昔に使っていた街灯を、電気用に改造したものだったからか。歴史を感じる無骨な見た目で、俺は好きだ。
「ふふふ。こう見えてもわたし、高等学校を卒業して……」
「おいシルフィン! あれは!? あの蛇と鳥が混ざった奴はっ!?」
ゆさゆさとシルフィンを揺する。なんだあの奇妙な生き物は。まるでバジリスクまんまではないか。
しかし、返ってこない回答に俺はおやとシルフィンを見つめる。
「ん、どうした? 知らないのか」
「……いえ、別に」
いいですよーだと、シルフィンが唇を尖らせる。なにか気に障ることでもしてしまったのだろうか。いや、してない。記憶にないからな。
シルフィンも己の勘違いに気が付いたのか、ため息をして口を開いた。
「あれは、バジリスクですね。美味しいですけど高いですよ」
「やはり」
まんまだ。こうもまんまだと逆に興味が失せる。いってしまえば、蛇と鶏なわけだし。
「やっぱりあれだな、多少のオリジナリティは欲しいところだな」
「はぁ、左様ですか」
とりあえず打たれた相づちに頷きながら、しかし俺はいつか食ってやろうと心に決めた。少々凶暴そうだし、彼女のカゴでは持って帰りにくい。
「それよりも旦那さま、魚屋があっちにありますが」
「おお、そうだった。海鮮を見に来たんだった」
あまりに楽しくて忘れていた。本日の目的は魚介である。
珍しい魚でもあれば、是非とも購入したいところだ。
「海が近いのはいいことだな。王都でも新鮮な海鮮はなかなか」
「そうですね。これも一種の役得でしょうか」
微笑むシルフィンに、俺はうんうんと頷いた。わざわざ引っ越しまでして仕事をしているのだ。土地の味くらいは楽しんでもいいだろう。
「早起きしてみるもんだな」
素直に軽やかになった足を魚屋に向けながら、俺はどことなしに呟いていく。
もしかしたら俺は、随分と勘違いをしていたのかもしれない。
目を凝らしてみれば、案外と幻想は近い場所に溢れていた。




