第23話 竜の秘宝(後編)
「これが……竜の秘宝」
目の前に降りてきた枝の先に、視線が吸い込まれる。
老龍の背を覆う、神木と呼ぶに相応しい幹の太さ。見上げてもなお頂上が分からぬ高さと横に広く伸びた数々の枝と葉は、その神々しさを見る者に伝えてくれる。
ただ、とはいっても葉と枝は至って普通の大木である。
けれどその枝々の先に、見たことも聞いたこともない果実が実っていた。
(なんだこれは……)
言葉が出掛かり、なんとか止める。それくらい衝撃的な光景が、目の前には広がっていたからだ。
これはなんだ? そう思い、目の前の果実をじっと見つめる。
形や大きさはまるでリンゴだが、断じてリンゴなどではない。
丸く拳大よりもふた周りほど大きなその実は、微かな空気の揺れに合わせて、表面を僅かに波打たせていた。
無重力で水がどうなるかご存じだろうか? 表面張力により、丸く纏まって宙に浮かぶ。まさにそれだ。
水がリンゴの形に留まっている。そうとしか表現できない球体が、枝の先にひとつ実っていた。
『私は、単純に水の実と言っておるよ。時折やってきた小鳥が啄んでいく、そんな普通の果物じゃ」
老龍の台詞に、俺は賛同しかねると頭上の首を振った。
透き通る水の果実。こんなものが普通なわけがない。
触らなければ詳しくは分からないが、水風船のようなものではない。本当に水が実の形をとっている。
「科学など、無意味か」
魔法か魔力か、はたまた全く別の自然の神秘か。しかし、原理などはもはやどうでもよかった。
食いたい。凄く食いたい。だって美味そうだ。
「美味しそうですね」
思わず口からこぼれた本音に、シルフィンがぎょっと顔をこちらに向けた。「本当に食べるおつもりですか?」とでも言いたげな表情だ。
分からなくはない。こうも見事に目の前に出されては、躊躇したくもなるだろう。
だが、ここで食べなければ来た意味がない。
『なに、大丈夫だ。熟しきると破裂してしまうだけ、遠慮なく食せばいい』
「そうなんですか?」
察してくれた長老の言葉に、俺は再び小さく驚く。
なんとも不思議な植物だ。もしかしたら薄い膜にでも覆われているのかもしれない。それが、熟し切ると破けてしまう。
推測はともあれ、食べられるのならば頂きたいと、俺は長老に一礼する。
「ありがたく、いただきます」
手を合わせ、祈った。
それは、感謝だ。永き時間に対する謝辞の仕方など学んでいないが、これがいいと素直に思う。
故郷の慣習を誇らしく思いながら、俺は水の実へと手を伸ばした。
そして水の実に触れたとたん、今まで感じたことのない手触りが指を襲う。
「……これはッ」
水の実を持ち上げる。持ち上がる。リンゴ大の実が、手のひらの上で持ち上げられる。
だが、なんだこの感覚は。あまりの違和感に、俺は思わず傍らのシルフィンに口を開いた。
彼女もまた、目を見開いて自分の目の前に降りた水の実に触れている。
「シルフィン、どんな感じだ?」
「へ、変な感じです。水を触っている感覚なのに、なぜか持ち上げられます」
シルフィンの説明に、つい頬が緩んでしまう。つまり、俺も同意見だ。
なんと幻想的な食べ物なのだろうか。この世界の住人であるシルフィンですらが、その不思議さに首を捻ってしまっている。
「なにこれ。……水の魔法でもないじゃん」
左側では、リュカまでが眉を寄せて水の実を見つめていた。
リュカほどの魔法使いにとっても、異常なのだろう。俺には知る由もないが、彼女はどうやら水の魔法の存在を探っているようだった。
要はそれは、この世界の理屈ですら未知の神秘だということ。
「……面白い」
笑みがこぼれる。愉快だ。
俺は、手のひらに伝わる感覚に意識を集中させた。
シルフィンの言う通り、水に触れているとしか思えない感覚。なのに、水の実は崩れることなくリンゴの形を保っている。
超常現象なんてもんじゃない。頭の中の物理法則が乱れる感覚。不思議を通り越して、どこか恐怖すら覚える。
「面白い、面白いぞっ!」
これでこそファンタジーだ。上機嫌で叫んだ俺に、シルフィンとリュカが驚いたような視線を送る。だが、この高揚感は楽しまないとそれこそ嘘だ。
『齧れば食べられるだろうよ。毒はない。安心して食うといい』
長老に勧められ、俺は待ってましたと水の実を優しく握りしめた。
意外にも、力を込めれる。水を握るという、摩訶不思議な感覚。軽く引っ張ると、ぷつりと枝から実が外れた。
確かに『水を掴む』手応え。面白い。枝から外れてもなお、神秘は健在だ。
「それでは、お先に失礼」
リュカやシルフィンに先んじて、水の実を口に近づける。こればかりは譲れない。
口を開け、いざ水の実に歯を突き立てた。
じゅぷり
瑞々しいという表現すら生やさしい、液体に歯を入れるような感触。
驚くべきことに、齧った部分だけが口に入り、それ以外の実は破裂することもなく、嚙み切った形を残して実の形を保っていた。
不思議すぎる。水の実に浮かぶ自分の歯形に、俺はマジマジと歯形のついた実を見つめた。
そして、口の中。ついに水の実が舌の上で弾け、その味を口の中へと広げていく。
「こ、これはっ!?」
シルフィンとリュカが見つめる中、俺はごくんと水の実を飲み込んだ。
「んんぅ?」
口の中に広がった味に、思わず眉を寄せてしまう。そんな馬鹿なと思いながら、俺はもう一度水の実にかぶりついた。
……うん、普通だ。不味くもなく、特に美味くもない。
なんだろう、水で薄めたリンゴジュースとでも言うのだろうか。あれほど不思議だった触感も、口の中で弾けた後はただの水である。
ジュースとしても、特に美味いわけではない。薄めで喉の渇きを癒すには良さそうだが、それなら水でもいい感じだ。それに、ここの気温のせいかやけにぬるい。
「あんまり美味しくない」
ぼそりと俺の口から漏れた言葉に、シルフィンがぎょっとした視線を送ってきた。リュカも口をあんぐりと開けていて、自分自身言ってしまったと手の中の水の実を見つめる。
でも、仕方がない。あれだけ期待させておいて、肩すかしもいいところだ。
『はははっ! 美味くないかっ! なんとも愉快なキャクジンよのうっ!』
リュカとシルフィンの二人が長老の顔を窺おうとした矢先、老龍は心底楽しそうに声を出した。
口の周りの土を剥がしながら、長老は愉快そうに笑い声をあげる。
『実を付けるようになって……千年ほどか。美味くないと言われたのは、初めてだ』
初めてという言葉を嬉しそうに口にしながら、長老はぶるるると鼻を鳴らす。
『じゃが、少々悔しいな。ふふ、悔しいなどと。永く生きてみるものよ』
言いながら、背の大樹がざわついた。枝が揺れ、そのざわめきが茂った葉の奥へと伝わっていく。
『まだ若いと言ったであろう。笑わせてもらった礼じゃ、受け取るがいい』
言葉と共に、一本の枝が俺の目の前へと降りてくる。
「これは……」
その先には、ひとつの水の実。
だが、先ほどまでのものとは違っていた。それも、見た目からしてだ。
視線を向ける俺に、老龍は説明のために声を揺らした。
『時折な、熟し切っても腐り落ちないものがある。腐ることなく、何年も何年も、枝の先で風を受ける。……それは、そうじゃな。二百年ほどか』
その年月に、急速に喉が渇いた。
「……凄い」
見ただけで、分かる。
うっすらと、ウィスキーのような透明な樽色。
そしてなにより、手のひらに収まるほどの、大きさ。
リンゴほどの大きさだった実ではない。ちょうどピンポン球くらいの、手で隠せそうな小ささだ。
色と大きさという単純な変化は、俺に水の実に起こった事象を伝えてきてくれていた。
凝縮。熟成。いや、そのような科学の言葉は、やはり無意味なのかもしれない。
それを知る方法はただひとつ。食べることだけ。
「いただきます」
皆が見守る中、俺はなんの躊躇も持たずに、その水の実に齧りついた。
二〇〇年
口の中に広がったのは、そんな気が遠くなるほどの年月だった。
「……美味い」
呟いた俺の顔を見て、シルフィンが驚愕に目を見開く。
それはきっと、俺が涙を流していたからだろう。
口の中に広がっていく味を噛みしめながら、歯形のついた水の実を見つめる。
ポートワイン。コニャック。頭の中を様々な酒が踊るが、比べるのも躊躇われた。
凝縮された、果実の甘み。リンゴが近いか。しかし、やはりそういうところではない。
噛む度に、口の中で水の実の欠片が弾ける。その弾けた実が、更に小さな欠片となり、また歯に触れた瞬間に口の中で弾けていく。
水と果実の、狭間。
魔法でもない、神秘の味。その秘密が、少しだけ分かった気がした。
きっとこの実が閉じこめているものは、時間なのだ。
魔力でも、科学でも、水分などでもない。純粋な、時間。
気づけば、残った実は全て腹の中に収まっていた。
「ありがとうございます。素晴らしい、味でした」
生きてたかだか百数年。未だ瞬きの間しか生きていない身で、最大限の感謝を込める。
二〇〇年の味を舌の上に残しながら、俺は満足だと微笑んだ。
・・・ ・・・ ・・・
水の実
原産:竜の森
補足:オスーディア大陸を浮遊している竜の森の世界樹に実る果実。水がリンゴ状に留まっているような見た目をしている。物理法則を完全に無視しており、魔法でも説明が付かない。
数百年の時を経たものは竜の秘宝と呼ばれ、口にした者は十人にも満たない。世界樹に最初に実った水の実がどうなったのかは、動かざる老龍だけが知るところである。




