第21話 竜の秘宝(前編)
目の前に現れた光景は、にわかには信じられないものだった。
まず、俺は視線の先の事象を表す単語を知らない。
森? 土地? 島? どれも違う気がする。
唯一、子供の頃に見た映画の名前だけが、妙にしっくりきた。
「信じられん」
呟いたのは、素直な気持ち。速くなる鼓動に落ち着けと指令を送りつつ、なんとか言葉にしようと頭を動かす。
「……浮いてる、な」
けれど、ようやく絞り出した言葉は、陳腐とすら言えないようなものだった。
浮いている。森が、土地が、島が浮いている。
どれくらいの大きさなのか、巨大すぎて脳の処理が追いつかない。
一度目を離して地面を見下ろせば、かなりの高度だ。それを考えるに、目の前の物体の大きさは、下手をすればオスーディアの街を越えるかもしれない。
「あ、あれは、オスーディアでは珍しいものではないんですか?」
聞かずにはいられなかった。俺の質問に、リュカが愉快そうに牙を見せる。
「んなわけないよ。浮遊する森。精霊の加護のおかげだとか、土地の中に魔力の塊が眠ってるだとか言われてるけどね、実際のところは何で浮いてるのかは分かってないんだ。大陸全土を見渡しても珍しい、文字通りの聖域だよ」
自慢げに胸を張るリュカの説明を聞きながら、俺は呆然と島に目を戻す。
なんて世界だ。身体が無意識に震えてしまう。
「異世界か……面白い」
来た甲斐があるというもの。笑みが自然とこぼれてしまう俺を横目でみやって、リュカはふーんと目を細めた。
「さぁ、着陸だ。ノブくん、頼むぜー」
リュカがノーブリュードの頭をぺしっと叩き、赤龍の翼が「あいわかった」と大きく動く。
ゆっくりと降下していくノーブリュードの背中の上で、俺は隠しきれない鼓動の渦を感じていた。
◆ ◆ ◆
「ということは、君はあれを見ていなかったのかね?」
深く緑色に包まれている森の中で、俺は隣を歩くメイドに信じられないと顔を向けた。
「あれ、とは? ゴンドラの中で屈んでいたので、外は見ていません」
当然のように言い放つシルフィンに、前を行くリュカが笑い声を上げる。木々をなぎ倒しながら進むノーブリュードの背を叩きながら、我慢ができないと腹を抱えた。
まぁ、足下の地面が空に浮かんでいることを知れば、シルフィンがどんな取り乱し方をするか分からない。先ほどまで地面に頬ずりしていた彼女の様子を思いだし、俺はそれ以上の追求を止めた。
「……というか、大丈夫なんですか? めっちゃくちゃ木を倒してますけど」
それよりも、俺は先頭で森を破壊している赤龍をハラハラしながら見つめる。聞くところによればここは聖域で、だとすれば色々とまずい気がする。
「なんで? ノブくん大きいから、こうしないと進めないじゃん」
そんな俺の心配を余所に、リュカが不思議そうに首を傾げた。俺が心配している理由が分からないようだ。
「その、森林破壊というか。聖域なんですよね?」
「そうだよ。大丈夫大丈夫、長老は縄張りとか気にしないから」
リュカが口を開けて返してくれるが、やはりどこかズレている。シルフィンを見ても、彼女もきょとんと俺の顔を見上げてきていた。
そのとき、ふと気づく。
俺も含め、彼女たちは自然なのだ。自然と人ではない。人もまだ、この世界では自然の一部。
ノーブリュードが突き進むこの道は、ただの獣道なのだ。
「……すごいな」
思わず笑ってしまう。ドラゴンが作った獣道。それを今、自分は一歩ずつ進んでいる。
「旦那さま、楽しそうですね」
隣を歩くシルフィンが、俺の表情を見て笑みを浮かべた。それでもなお表情に乏しい彼女の顔を、俺は気分良く振り返る。
「ああ。腹が減るというものだ」
腹をさすり、空を見上げた。木々の間から差し込む木漏れ日は、まだ日が高いことを示してくれている。
それでも、最後に食事を口にしたのは朝に出かける前だ。いいかげん、燃料切れで身体が悲鳴を上げてくる頃合いだろう。
「竜の秘宝って奴は、腹は膨れますかね?」
前を行くリュカに聞いてみる。それに再び笑い声を上げて、リュカは腰に下げた布袋を放ってきた。
受け取り、中身を見てしかめそうになる顔面の筋肉をなんとか堪える。
「それでも食べてな。美味いぜー」
リュカの表情から察するに、どうやら竜の秘宝で腹が満たされるかは難しいようだ。気持ちはありがたいがと、俺は布袋の中身を取り出す。
「干し肉か」
カチカチに固まった肉片を右手に、俺は苦い経験を思い出した。リュカの尻尾と角を見て、嫌な予感が俺を襲う。
せっかくの好意だ。無碍にはできない。俺はゆっくりと、干し肉を口に運んで噛みしめた。
「……硬い」
呟く俺に、くすりとシルフィンが笑ってしまう。主人を笑うメイドを見やって、俺は渋い顔で眉を寄せた。
「旦那様、小さくですよ」
そう言って、シルフィンが布袋に手を伸ばす。いつかの車内と同じように、彼女は干し肉を持ち上げた。
不思議な話だ。鉄の線路の上を走る、魔導鉄道。そしてドラゴンの作った獣道。文明と自然の狭間で、彼女だけが変わらぬ笑顔を向けている。
「ああ、そうだったな」
彼女の言葉を思いだし、彼女と一緒に干し肉に指をかけた。
小さく千切り、口の中へ。あのときのアドバイスも、今日の森の中ならば悪くない。
暖かいなにかを感じながら、俺は指に力を込めた。
「か、硬たッ!?」
どれだけ力を入れようとビクともしない干し肉に、彼女と一緒に目を見開いたのは、それから数秒後のことだった――。
◆ ◆ ◆
「おっ、そろそろであるぞ」
ノーブリュードの声が聞こえ、なぎ倒した木の先に大きな空間が広がった。
地面を踏みしめる感覚が、少し変わる。土肌が見えていた森の土が、その空間だけ柔らかな苔で覆われていた。
「……ほぉ」
苔を踏むと、靴底の下が淡く光る。ヒカリ苔のようなものだろうか。まだ日があるから微量に見えるが、夜に来れば綺麗そうだ。
目の前を見つめ、そのまま顔を上へと向ける。
我々の前には、巨木が聳えたっていた。
「でかいな」
目を細め、巨木の頂上に焦点を合わせようとする。だが、頭上に広がる巨大な枝葉は、木漏れ日を微かに届けてはいるものの、その全貌を確認するのは不可能なようだ。
幹もでかい。直径は、およそ5メートル。いや、それ以上かもしれない。少なくとも、初めてお目にかかる太さだ。
それだけでも驚愕してしかるべきだが、けれど俺の視線は幹の根本に吸い込まれた。
『……キャクジンか』
脳に直接語りかけてくるような、そんな声。
竜の森の奥で、巨木に身を潰されている老いた龍が、俺たちを澄んだ瞳で見つめてきていた。




