第01話 ドラゴンのステーキ
屋敷の窓から見える風景に、特に意味もなく溜め息を吐いた。
そのせいだろう。窓ガラスに白く靄が掛かっていく。
白くなったガラスの表面を、俺はそっと手のひらで拭った。
消えていたはずの風景が、再び俺の前へと姿を現す。
石と木で出来た、見ず知らずな人々の暮らす街並み。今も、忙しなく道を行く街人が視線の先に確認できる。
「……はぁ」
再びの溜め息。一年前だ。あの日から、何度溜め息を吐けばいいか分からない。
異世界。
そんな言葉を、ご存じだろうか。意味はそのまま、異なる別の世界ということ。
意味不明なそんな世界に、俺は訳も分からずにやってきた。
なんともあっけない最期だった。駅の階段で、足を滑らせて。それだけで、積み上げてきた人生の全てがパァだ。皆さんも雨上がりの足下には十分に注意をしてほしい。
そして、本当ならそのまま死ぬはずだった俺は何故か、いつのまにやらこの世界のお世話になっていたというわけだ。
神の気まぐれか、はたまた奇跡などとでも言うのだろうか。簡単に言えば、第二の人生の始まりだった。
「……はぁ」
溜め息も出るというもの。命が助かっただけいいじゃないかとか、そういう問題ではない。
窓の外を見る度に、俺はあの日の雨のような憂鬱な気持ちに駆られるのだ。
そんな眉を寄せていた俺の背後から、規則的なノックの音が響きわたった。俺は窓から背後に振り返り、入っていいと口を開く。
「失礼します。……旦那さま、コーチャが入りました」
扉を開けて入ってきた女性に、俺は愛想良く笑いかけた。俺の笑顔を無視して、彼女は黙々とテーブルの上にティーセットを並べていく。
「ありがとう、シルフィン。……うむ、いい香りだ。君の煎れる紅茶はいつも美味しいね」
置かれたティーカップを手に取ると、俺はわざとらしく声を上げた。その声に振り向きもせず、シルフィンはテーブルの上で空になっているカップを盆に乗せる。
「ありがとうございます。……では、屋根裏の掃除が残っておりますので」
変わらない表情。ちらりとシルフィンを見やるが、特に反応もなく彼女は俺に背を向ける。軽く額縁の角度を直してから、シルフィンはいつも通りに部屋から出ていった。
「あ、はい。頑張って」
いろいろと言いたくなる言葉を飲み込んで、俺は既に聞く者のいなくなった呟きを、一人きりの部屋に響かせる。
彼女はシルフィン。いわゆるメイドさんという奴だ。俺がご主人様のはずだが、見ての通り愛想は良くない。
顔で選ぶべきではなかったと、俺は紅茶の水面に溜め息をこぼす。こんな窮屈な思いをするのなら、あのベテラン風のおばちゃんにしておけばよかった。
人事とは得てして大事なものよと、俺は紅茶のカップに口を付けていく。
◆ ◆ ◆
「旦那さま。確認ですが、今晩のお食事は本当によろしいので?」
数時間後、扉の前で佇むシルフィンを横目に、俺は姿見の前の自分を見つめていた。
「そうだな、今日は外で食べるよ。どうも東通りにいい店が出来たらしいし」
部屋の隅の衣紋掛けから、この間仕立てて貰ったコートを掴む。上着を羽織りだした俺に、シルフィンが少しだけ眉を寄せた。
「……いってらっしゃいませ」
シルフィンの無機質な声が部屋に反響し、俺はぴたりと動きを止める。表情といい、彼女にしては珍しく何か言いた気だ。
「どうかしたか?」
「いえ。……失礼します」
恭しく礼をして背中を向けるシルフィンのスカートの裾が、ふわりと舞い上がる。姿勢正しいメイド服の少女に、俺は思わず声をかけた。
夕食の用意がないならば、本日の彼女の業務は終了のはずだ。
「あ、シルフィン。どうかな? 今晩は一緒にディナーでも」
襟元を正しながら、特徴的な水色の髪に問いかける。耳の先をぴんと尖らせたエルフの少女は、小さく横顔を流し見せながら唇を開いた。
「勤務外ですので」
少しだけ意地悪そうに微笑みながら、シルフィンは音もなく扉の向こうへと消えていく。
取り残された独り身の男は、残念そうに窓の外に目を送るのだった。
◆ ◆ ◆
石畳の上を、革靴の足音が歩いていく。
すっかり肌寒くなってきた空気を吸い込みながら、俺は街中の喧噪をただただ意味もなく聞いていた。
店の呼び込みに、走り去る子供たちの笑い声。街には活気が溢れていて、俺が知る日本の音々と何も変わらない。
いや。もしかしたら、地元の寂れた商店街に比べれば、こちらの方がよっぽど人間らしい営みを行っているかもしれなかった。
「……寒いな」
ぼそりと呟いた声は、ただ街の騒々しさに溶けていく。肌寒くなったとはいえ、まだまだ息が白くなるほどではない。
すっかり日が落ちた夜の下で、俺はぼんやりと頭上の光を見つめた。
そこには、煌々と輝く電灯の光。街の隅々にまで張り巡らされた電柱と電線は、文明の灯火を街に余すことなく与えてくれている。
魔力発電と、いうらしい。
魔法。随分とファンタジーな響きだ。俺もこの世界に来たばかりの頃は、その響きに少なからず胸が躍った。
しかし、街中に張られた電線。都市と都市を繋ぐ魔動鉄道。そして、それらの利権を巡る貴族達の政治闘争。
地球と何も変わらない。庶民は生きる糧を日々の仕事と束の間の娯楽に求め、上流階級の住人は動かす金の大きさを自慢し合う。
幻想なんて何処にも存在しないんだということに気がついてからは、それこそ何も変わらなかった。
一年後には、富と地位を手にしていた。無論、運が良かったといえばその通り。
「腹減ったな……」
ぼそりと呟いて、俺は鳴り響く腹の音をコートの中にしまい込んだ。目当ての通りまでは、まだ歩く。
「あっ、すいません」
ぼうっとしていたら、道行く御仁と肩がぶつかってしまった。慌てて頭を下げるが、向こうも失礼と帽子を下ろす。
深々と皺が刻まれた、柔らかな表情の青色の顔。帽子の下に見えた二本の角に目をやって、俺は再び行き先を見据えた。
異形の者達が歩く街。どうしようもない居心地の悪さを感じつつ、俺は歩く速度を少し早めた。
◆ ◆ ◆
異世界に来ても腹は減る。
それなりの味が楽しめるという事実は、この世界で唯一、俺に静かな安心を与えてくれる。
「……混んでるな」
周りを見渡せば、どうやら席は全て埋まっているようだ。開店したばかりというのもあるだろうが、人気店というのは本当らしい。
待たずに座れたことにほっとして、俺は木製の椅子にゆっくりと体重をあずけた。
手元に寄せたメニューに、ひと際大きな文字が目立つ。無論、これが今回のターゲットだ。
文明に劣る異世界で、美味いものにありつけるのか? そんな疑問が、皆さんお有りだろう。この世界に来たばかりの頃は、俺も絶望の海に沈んだものだ。
硬く、カビの生えたパン。しなびた野菜。生魚なんて勿論ない。
地球では、それなりのものを食べてきたつもりだ。日本は食の豊かな、実に良い国である。
そんな世界で育った俺が、何故この世界でも生きていけているのか。
単純な話だ。
「ドラゴンのステーキを。それに、果実酒をグラスで。パンも二つほど貰おうか」
「かしこまりました」
俺の声に、若いウェイターが深々と頷く。実に礼儀正しい若者だ。鱗の光る尻尾を生やしていることには、目を瞑ってやろうじゃないか。
俺はゆっくりと、店の空気を吸い込んだ。香ばしい、肉の焼ける匂い。いやが上にも腹の音が増す。
……さて、もうお分かりだろう。異世界で生きて行くには、どうすればいいか。
金だ。
「ふふ、ドラゴンの肉か。流石にわくわくしてしまうな」
先に到着した果実酒をウェイターから受け取りながら、俺はグラスの中身を眺める。
中の果実酒が、赤く電灯の光に照らされている。この何気ない光景も、庶民では手に入らない。
なにせ、ガラス製品は高級品だ。庶民では陶器のカップが関の山。ほとんどは、木製のグラスに見えもしない中身を注いでいる。
俺は、金と地位をこの世界で手に入れた。現代ビジネスの知識が想像以上に有効だったことを考えると、大学時代の教授と会社の上司には感謝せねばなるまい。
正直、この地位に至るまでの話を詳しく語る気などは更々ない。ただ、運も俺に味方したのだということは、この世界で知り合った、数少ない異形の友人たちの名誉のために言っておこう。
「……美味い」
ひとくち含み、喉に通す。ワインよりも、少しだけ葡萄ジュースに近いかもしれない。酸味も強くなく、ほどよい甘さとアルコールが口に広がっていく。
先ほど俺は美味いと呟いたが、これはなにも「この世界の酒は美味い」というわけではない。場末の酒場で飲む果実酒など、腐っているかも分からぬほどの酸味の強さだ。
再び、俺は透き通る赤い液体を見つめる。濁っている部分など、何処にもない。
このグラスの中身。これを二杯も飲めば、シルフィンの日給は楽に超える。
「……ふふ」
笑みをこぼす。こうでもしないと、やってられない。
食べたら、シルフィンに菓子でも買って帰ってやろうかと思いながら、俺はグラスをことりと置いた。
「ドラゴンのステーキです」
溜め息を吐く前に、ウェイターの声が耳に届く。間に合ったから、溜め息を吐くのはまた今度だ。
やってきた鉄板に、しばしの安堵を向けなければいけない。
◆ ◆ ◆
「……ほう」
まず出てきたのは、そんな言葉だ。
焼けた鉄板の上に置かれた肉。冷まさないための工夫は地球と同じ。
違うとすれば、まさにその鉄板に置かれた肉だった。
まず、大きい。三〇〇グラムは優に超えるだろう。そして、その形。
これには、思わず俺も頬が緩んだ。
楕円を描く肉の縁の中央に、小さな白い丸。骨だ。骨の周りを、ドラゴンの肉が覆っている。
ステーキの厚さは二センチといったところか。円の直径は二〇センチはありそうだ。
漫画の世界のような肉の登場に、俺の心がふつふつと震える。これだ。この感覚のおかげで、俺はかろうじて生きていける。
「ちょっと、君。聞きたいんだが、この肉の部位はドラゴンの尻尾かな?」
思わず、通りがかったウェイターを呼び止めてしまった。俺の質問に、ウェイターが丁寧に口を開く。
「いえ、指の肉でございます」
「指の肉っ?」
ウェイターの返答に俺はぎょっと目を見開いた。皿に目を戻し、驚いた表情で固まる。
「はい。よく動く場所のため、肉質も良く人気の部位です。尻尾もあるにはありますが、七人前からのご提供になってしまいますが……」
「い、いや。大丈夫だ。ありがとう。ちょっと気になっただけでね」
礼を言い、ウェイターが去った後で俺は感心したようにステーキを見つめる。直径20cmに届こうかという肉。これがまさか、指の肉の輪切りだとは。だとすれば、尻尾が七人前というのも頷けた。
「素晴らしい。これ一枚で、シルフィンの日給三日分なだけはある」
これこそが、俺の求めているものだ。日本では、地球では決してお目にかかれない食材。これらを食べるときは、流石の俺も心を震わせてしまう。
「……ふふ、いいぞ。緊張してしまうじゃないか」
ステーキにナイフを入れる。途端、ナイフの刃を弾き返してきそうなほどの弾力が指に伝わってきた。
さすがはドラゴンと言ったところか。この筋肉質な肉質。噛みしめるのが楽しみである。
「ではでは。頂きましょうかね」
それでも、無防備な料理と化したドラゴンにナイフを受け止める術はない。ひとくち大に切られた肉を、俺は慎重に口の中へと運んだ。
「……はむ」
口に入れ、歯を立てる。初めに訪れたのは塩のしょっぱさ。これはいい。広がるペッパーと香草の香りも、特に不満なものはない。
問題は肉だ。咀嚼し、俺はゆっくりとドラゴンの肉を噛みしめた。
硬い。
「ふむ。……ふむ」
くちゃくちゃと、必死になって噛みしめていく。
やはり、硬い。
なんだこれ。すごく硬い。美味いとか不味い以前に、めちゃくちゃ硬い。
「ふ、ふむぅ」
思わず鼻から息が抜けた。ナイフはなんとか通ったが、歯で噛みきろうとすればもの凄い労力だ。
まるで、牛肉の繊維を何重にも層にしたかのような。
「……ッ、はぁっ!」
ようやく飲み込めた。なんだこれは。一切れ食っただけで顎の疲労感がハンパないぞ。
それに、少し臭い。鹿肉や羊肉などのジビエとも違う、独特な臭み。最初は香草に誤魔化されていたが、何度も噛むと臭ってきた。
なんだろう。味わったことのない風味だ。これがドラゴンの臭みか。
正直、あんまり美味しくない。
「しまったな……」
しくじった。ファンタジーな感じに騙された。こんなもの、こんなに食べられるわけがない。オードブルで少しだけなら珍味で済むかもしれないが、メインディッシュだとただの硬くて臭い肉だ。
「うーん」
試しにもう一切れ食べてみる。今度は、ソースが掛かってる部分を。
「……ふんふん」
なるほど。ソースと一緒なら幾分かはマシだ。フルーティなソースが肉の臭みをいい具合に消してくれている。味自体は、美味いと言って差し支えない。
集中して噛みしめてみれば、確かに癖になる味ではありそうだ。しかし、噛めば噛むほど肉の味が口に広がり、ソースが無くなった口内を再び独特の臭いが主張しだす。
そして、相変わらず硬い。
「んっ……はぁ」
やはり一切れ食べるのに多大なる体力を消耗する。回復イベントともいえる食事で、なぜにこんなにもHPを削られねばならんのか。
一度落ち着いてグラスを口に運ぶ。
まずいだけとは言わないが、とてもじゃないが手放しで誉められる料理ではない。どうやらこの世界でも、希少性というものは人々の評価の目を曇らせるようだ。
そう思い、おもむろに店の中を見渡した。今日ここに集った客の何割が、自分の舌を騙して「美味い」と動かしているのだろう。
「……あっ」
しかし、目の前に広がっている光景に、俺は小さく声を上げた。
そこには、美味そうに肉を頬張る獣人と、眉を寄せ何か言いたげなエルフの婦人。
そのとき、理解する。
ここは、日本ではない。地球ですらない、別の世界。
「なるほど」
肉を喰らう牙を持つ狼の獣人と、耳以外は人間と同じ見目麗しいエルフの淑女。
思えば、俺にこの店を薦めた自称食通の得意客は、鱗の光るリザードマンだった。
「今度からは、エルフに人気の店にせねばな」
納得いったように呟いて、グラスの残りを飲み干した。酒の味は、合格だ。
「さて、どうしたものか」
優に二人前近くは残っているドラゴンの肉を前にして、俺は一向に動く気配のない食指をテーブルの上に立たせながら、エルフの婦人と同じように眉を中央に寄せたのだった。