飛べ! 飛ばねぇ豚ども
あの悪夢の中間テスト、そして一学期の期末テストを乗り越えて。いよいよ夏休みも目前となった七月某日――すっかりと通い慣れてしまった部室へと、私は風峯と並んで歩いていた。
「……んっ、そこ」
引き手に手をかけ、今まさに開こうとしていた扉の向こうから聞こえてきたのは……やたら色っぽい紫先輩の声だった。
「どうした、玲。何を固まってる?」
思わずぎょっとしてその場で固まっていた私の頭上から降ってきたのは、相も変わらず空気を読まない風峯の声。そしてあろうことか、ヤツはなんのためらいもなく引き手に手をかけた。
「ま、待って! 今はだ――」
私の必死の叫びも虚しく、目の前で開け放たれた扉。その向こうに広がっていたのは――
「はぁ……さすがゴッドハンド麗。私、もう麗以外のマッサージは受けつけられないわぁ」
長机を並べた上にどこからか調達してきたらしいマットレスを敷き、うつぶせで幸せそうにつぶやく紫先輩。そしてそんな彼女にマッサージをしている麗ちゃん先輩の姿だった。
思わず絶句、のち赤面する私を見て、風峯がニヤリと口角を上げた。あ、なんかすっごい馬鹿にされてる気がする。
「玲、お前ナニを想像してたんだ?」
ああ、やっぱり! くっそ、コイツわかってるくせにわざと聞いてきてるだろ!!
「な、何って……いいじゃん、別に! ほら、さっさと入ろうよ」
無理やり誤魔化し部室に入ろうとしたその時、私の前に第二の刺客が現れた。
「ねえねえ、僕も気になるなぁ。山田ちゃん、ナニを想像してたの? ねえ、詳細に教えて! 僕、山田ちゃんの口から、直接、聞きたいなぁ!!」
天使の皮を被った変態が大きな目をキラキラさせ、ふっくらしたほっぺたをピンクに染め、鼻息荒く私の目の前に迫ってきた。もうやだ。
「近づくな変態。玲が減る」
「おまえには言われたくないよ、ストーカー。僕は山田ちゃんと話してるの! お前があっち行けよ」
「玲は俺の嫁だ。男は近寄るな。特にお前みたいな変態は」
「減らないし嫁じゃないし! もういいから早く入れてよ!!」
私の言葉になぜか顔をそむけた風峯と悶える林くん。なんだよもう、気持ち悪いなぁ。
特に風峯、お前は何で耳まで真っ赤にして震えてるんだよ。あ、こっち見た。なんか言いたそうだな、おい。
「玲……それは俺と二人きりの時にだけ言ってくれ。いいか、他の男の前で軽々しく口にするんじゃないぞ」
「は? 意味わかんないんだけど」
そんなやり取りの合間、ふと私の耳に入ってきたのは軽い足音。たたたと軽快なそれは、あっという間に私たちのすぐそばまで来て――
「お姉さま!」
響いたのはハスキーボイス。直後、目の前を軽やかにすり抜けたのは、肩上できれいに切り揃えられたさらさらの黒髪。そして見上げた視界に入ってきたのは、お人形みたいにきれいな女の子の顔だった。
六花や黄龍院さんがビスクドールなら、この子は日本人形。紫先輩や風峯と同じ、和風の美人。
「げ! 白藤、ちゃん」
そんな和風美少女を見て奇声を上げたのは林くん。女でさえあれば、ゆりかごから墓場まで満遍なく罵られたい、あの林くんだった。
けれど白藤ちゃんと呼ばれた美少女は林くんをガン無視すると、まるで飼い主のもとへと駆け寄る子犬のように紫先輩のそばへ駆けていってしまった。
「林くん、あの子、知り合い?」
「うん、同じクラスの女子。白藤薫って子なんだけど……」
なんだか歯切れが悪い。いつもの林くんなら、性別が女でさえあれば誰彼構わず罵ってくれと突っ込んでいくのに。どうしたんだろ?
「お姉さま……やっと、やっとお会いできました!! ボクは一年の白藤薫って言います。演劇部所属で、今度やる劇のヒロイン役を勝ち取りました!」
半分寝ている紫先輩に白藤さんが一方的に話しかけてる。
「あの日、入学式の日、お姉さまを一目見てボク……もう、お姉さましかいないって思ったんです!」
突然の告白劇に、それも女の子から女の子への告白に私の度肝が抜かれた。当人である紫先輩は「あらあら」と半分寝たまま返事してるけど。
いいの? そんな日常会話みたいに流しちゃって大丈夫な話題なの、これ?
まあ、それはそれとして。白藤さん、入学式の日に一目惚れしたっていうんだったら、なんで今頃ここに来たんだろ?
「えーと、白藤さん」
相変わらず寝たままな紫先輩だったけど、ようやくなんとか顔だけは白藤さんの方へ向けた。
「白藤さんなんてそんな他人行儀な! もっと気軽に豚とか犬って呼んでください!!」
…………ん? 今、後半なんか変なこと言ってたような気がしたんだけど。
「じゃあ遠慮なく。ねえ、白豚。お前、家畜の分際で私に何を言っているのかしら?」
「はぅん! やっぱりボクの目に狂いはなかった!! お姉さま~」
目の前で繰り広げられる茶番劇に思わず林くんを見てしまった。いつもならあの位置にいるのは林くんだったから。
うつむき、両の拳を握りしめているその姿は本当にいつもの彼らしくなくて。大丈夫かなって思って声をかけようとしたその瞬間、林くんが顔を上げた。
「無理! 女の子同士のいちゃつき大好きだけど、白藤ちゃんだけはなんかわかんないけどやっぱり無理ーーー!!」
半泣きで叫ぶと、林くんは白藤さんと紫先輩の間に割り込んだ。キャンキャンと吠えあう林くんと白藤さんを横目に、紫先輩は再び麗ちゃん先輩のマッサージを堪能し始めた。なんだこれ、どういう状況? ていうかもしかしてこういう状況、先輩二人とも慣れっこなの?
「ねえ、風峯……これ、どうしたらいいんだろう?」
「かまうな」
一言で片づけられちゃった。まあそれが一番、なのかな? 私が何をしたところでろくなことにならなそうだし。
しかし白藤さん、あんな美少女なのになんて残念な中身なんだ。もったいないなぁ。中性的できれいな顔、さらさらの黒髪、すらりとした体型……すらりとした、体型?
「か、風峯! あの子、あの子!!」
そう、白藤さんすらっとした体型なんだよ! 私が言うのもなんだけど、胸部もものすごくすっきりしてるんだよ!!
興奮する私に風峯が怪訝そうな視線を投げてきた。
「あの子、白藤さん。風峯の好みなんじゃない?」
興奮のあまりつい白藤さんの胸を指さしてしてしまったけど、そこは勘弁してほしい。だってあの子、紛うことなき完全なる絶壁なんだもん! これ完璧に風峯のストライクゾーンでしょ!! もしかしなくても風峯から解放されるチャンスでしょ!!!
「ない。ありえない」
「……え? いやいやいや、よく見なよ! だってあの子ほら、めっちゃ風峯好みの体型じゃない!?」
必死におススメする私に返ってきたのは、なぜだかかわいそうな子を見るような風峯の上から目線。なんか腹立つな。
「玲。お前、俺が乳だけで人を判断するような男だと思っていたのか?」
「うん」
一言で即答してやったらなぜか顔をしかめられた。いや、私間違ってないでしょ。お前、私への最初の一言、忘れたとは言わせないぞ。
「もう、紫さまの豚は僕だけで十分だから帰ってよ!」
「なんでお前に命令されなきゃいけないんだよ! ボクに命令していいのはお姉さまだけなんだから!!」
林くんと白藤さん、まだじゃれあってたんだ。そこでふとよぎったのはさっきの疑問。
「白藤さんってさ、入学式の日に紫先輩に一目惚れしたんでしょ。じゃあ、なんで今までここ、来なかったの?」
私の方に顔を向けると、彼女は瞳を潤ませうつむいた。そしてすぐに勢いよく顔を上げると、スポットライトを浴びた舞台女優のように滔々と語り始める。
「あの日、抗えない運命がボクとお姉さまを引き裂いたんだ。きっとこれは、すべてボクとお姉さまが美しすぎたから!」
うん、意味が分かりません。ていうかこの子、ドMなの? ナルシストなの? 厨二なの? しかもボクっ子ってやつだよね? 属性が大混線してるよ!
「きっと神様はボクとお姉さまを見て、その完成された美しさに嫉妬したんだ! だからボクだけでも天に攫って、それを壊してしまおうと――」
ごめんなさい、本当に意味が分かりません。白藤さんはいったい何を言ってるんでしょうか。誰か通訳してください。というか先輩方、よくその状況でマッサージ続けてますね。本当にガン無視ですね。
「その子、入学式の帰りに一人で歌い踊りながら裏門の階段降りてて、そのまま足踏み外したのよ。よりにもよって、私の目の前で。仕方ないから私が救急車呼んであげたの」
「六花!」
いつのまに来ていたのか、私たちのすぐ後ろの廊下に六花が立っていた。