向こう側にある世界2
向こう側にある世界
チャイムがおされた。僕は玄関に行き、ドアについているのぞき穴から外を見た。
スーツを着た女性が立っていた。礼儀正しく両手でアタッシュケースをもっている。からだの前で手を交差させ、右手でケースの取っ手を持ち、左手はそれを隠すように指をピシリと伸ばして添えられている。おそらく保険のセールスだろう。アタッシュケースに企業ロゴが刻まれている。
彼女は若かった。二十代前半に見える。背すじをのばし、ほほえんでいる。見知らぬ男の家を一人で訪問し、可能なら部屋に二人きりでこもって親しげに話をしなければならない。その恐怖心を押し隠して客がドアを開くのを待っている。
※「妖しさ」を演出するにしても下品。読者を引きつけるトラップが「僕が彼女をレイプする予感」ではどうしようもない。
唐突に二度めのチャイムがおされた。
―――だれもいない空間に音が響く
僕は半年前に大学を休学した。今はずっとネットゲームをやっている。「東京アンダーライフⅣ」というゲームだ。夜のゆりかもめから世田谷区の小道までもが再現された世界で、約百万人のユーザーと三百万のプログラムされた人々が生活している。僕はその中でタクシー運転手として働いていた。
ゲームの中の僕は勤勉で、社会に適応している。朝から夕方まで働いて、夜は数多くの友人とあそぶ。あらゆるギャンブル、性サービスなど、稼いだお金の半分はそれら遊興費につかわれた。残りの半分は人生を豊かにするためのアイテムに費やした。家具をそろえて家を豪華にした。リビングの床には乗用車を包めるほどの巨大な赤い絨毯が敷かれている。ほかにもクルーザーを買って改造したり、ワインを地下室に保存したりして、お金は資産を増やせそうな趣味に換えられている。ゲームの中では人々は、将来の破産や突然の死を身に迫っておそれることがないため、目的のはっきりしない貯蓄は存在しない。
――はい
チェーンロックを外してドアを大きく開けると、彼女がのぞき穴から見たときと同じ笑顔をして立っていた。面と向かうと、意外と柄の大きな体つきであることがわかった。身長は僕と同じくらいだろう。香水の匂いと、スーツにしみ込んだ外の匂いとが混じり合って、彼女の周囲に重くとどまっている。
彼女の笑顔が何かしら不自然になった。きっと客と向かい合ったことで、緊張が高まって隠しきれなくなったのだろう。
「こんにちは、保険のセールスをやらせてもらっています。もしお時間がお有りでしたら中でお話させていただきたいのですが」
僕は彼女の商品についてもうすこし詳しい説明を要求した。
「わたくしどもは主に単身者さま用の保険をとりあつかっております。これからさき生涯に渡りましてさまざまな事故、災害、トラブルがおありでしょう。昨日までは幸せだったのに、ある日とつぜん車に撥ねられて背骨を骨折するかもしれません。どなたさまの日常の下にもかならず暗い川が流れているのです。この保険はその川で溺れないためのセーフティーネットの役割を果たします」
僕は黙ってうなずいた。彼女のうるんだ真剣な目を見ていると頭の一部が停滞してしまうようだ。
――あがってください
ゲームの中で、僕には一人の友人がいた。