ウ
今日は喧嘩の日。十月も終わり。明日は霜月の初日。冷え込む日。炬燵を出すには早すぎだろうか。彼女の家にはもう炬燵布団が出ている。電源もばっちりである。新年おめでとうございます、も二週間遅れな時期にお届けする、二ヶ月以上前のお話。今日も華子は中二全開。しかし彼女はもう受験生。季節は早くに移りけり。
「トリックオアトリート!」
十月の終わり。
どこぞの文化に、「ハロウィン」なるものがある。
昨年は知らずに過してしまった。が。今年は違う。
ナキは華子に両手を出し、お菓子を乞うた。
「なんだ。手首を切ってほしいのか」
「なにそれ怖い。やめて」
華子の発言に、ナキは血の気が引いたのを感じた。
さっさとセーターの袖に手を隠し、今日はハロウィンであることを伝える。
「ハロウィン? ああ。そういえば、希衣からお菓子もらったんだ」
「本当。少し頂戴」
ナキは再度、手の平を華子に向けた。
今度はセーターで地肌を隠している。
隠せばよいというものでもないのだが。華子は溜息を返した。
「そうだな。お前がパンプキンパイ作ってくれたら、ちょっと分けてあげる」
ナキは目を丸くした。
条件付きとはいえ、思ったよりは素直だ。
何か悪い物でも食べたのだろうか。
だが、十代前半とは分からない年頃である。
きっかけがあれば性格なんてころころ変わる。
きっと素直になってきているのだろう。いいことだ。
「よし、取引だ」
ナキは脳内でパンプキンパイの材料を検索。
以前、華子の父親のパソコンで調べた時は――。
薄力粉、無塩バター、卵、グラニュー糖、塩、カボチャ、サワークリーム、シナモンパウダー、そして水を用いた気がする。
ナキは買う物リストを脳内に作成した。
水は買った方がいいのか、浄水器で十分か。少し悩みどころである。
希衣から何をもらったのかは聞いていないが、まぁいい。
華子のために、パイを作ろうじゃないか。
ナキはサイフを片手に、立ち上がる。
いつもの美味しいご飯のお礼も兼ねて。
いつも華子が世話になっている希衣にお礼を兼ねて。
「いってきます」
ナキは勢いよく家を飛び出した。
その様子に、華子は首を傾げた。
あいつは何をそんなに張り切っているのだろうか。
膝の上の狸を撫でながら、華子は茶をすすった。
さて、この狸。
お気づきの方もおられるだろう。
ヒガサだ。
つい先日、この地に戻ってきた。
気づいたら華子の膝上に乗るようになったのだが、これが重い。
しかし、暖かい。
ちょっとした葛藤に悩まされながらも、華子は、ヒガサがここにいることを許している。
内心、餌代がと思っている所はあるが。
「そういえば、まだきいてなかったな」
華子は湯呑を炬燵机に戻した。
狸は華子の声に反応し、徐に瞼を持ち上げた。
華子の膝を名残惜しむように四肢を伸ばし、炬燵の反対側へと回った。
「んー」という唸り声を上げる。
華子が瞬きをすると、狸は人型へと変化していた。
まさに一瞬である。
思わず、何度も瞬きをしてしまった。
こいつらの、この手品。いつかタネを見破りたい。
華子はそう思っているが、口には出さない。
ましてや、狐などに口を滑らせた日にゃ、何を言われたもんか分からない。
黙するが吉だ。
「華子殿には話すべきだろうとは思っていたが、すまない」
「謝る必要はない」
華子は首を竦める。
ヒガサは破顔した。
「華子殿ならそう言ってくれると思ったよ」
がたいの良いこの男は、姿勢を正した。
神妙な顔つきで、開口する。
「さすがに何年も留守にすると不安でな。今更戻ったところで邪険に扱われることだと高を括っていたんだ」
ヒガサにどれほどのカリスマ性があるのか。
それが意図せず測られたことだろう。
実際どうであったかは聞かずとも想像は容易だ。
「山は私を受け入れてくれたよ。ただ昔と比べて、そうだな。人が減ったように感じた」
土地によっては人間が浸食していった地もあるだろう。
しかし、ヒガサの山は逆であった。
「間伐をしてくれる人間がいないと、森は荒れてしまう。我が儘だろう。海に近い山はどんどん削られる。そのことに私たちは悲しみに嘆くが、人間が山の木を間伐しなければ、それはそれで困ってしまう」
「仕方のないことだ」
華子の返答に、ヒガサは苦笑した。
ヒガサは自分の右手を見つめる。
皮の厚い手だ。
「無力だ」
ヒガサは呟く。
華子は眉間に皺を寄せた。
己に言い聞かせるように放った言葉は、華子の機嫌を悪くさせた。
「身内で片せばええんか」
「なんだって」
「山に住むやつが山の世話をすればいいって問題ちゃうやろ」
「だからといって私たちが人間と交渉ができるって?」
「知らんわ」
投げ槍。
ヒガサは華子の返答に眉を寄せた。
視界を閉ざし、もう一度華子を見返す。
ヒガサと目があった華子は、すぐにそっぽを向いた。
二つに結われた髪が揺れる。
「……すまない」
ヒガサは視線を右手に戻した。
何も掴めない手。
無駄な手。
だが、今は切り落とせない。
まだ使える手。
「華子殿、ぱんぷきんぱい、楽しみだな」
ヒガサは空気を変えるように、明るい口調で言葉を放った。
華子の返事はない。
そっぽを向いたまま、こちらを向く気配がない。
不貞腐れているようにしか見えない。
ヒガサは同じ調子で続ける。
「私はまた故郷へ帰るよ。山彦の願いを叶えるのは少し先になりそうだが、華子殿に迷惑はかけられない」
少し先になりそう。
ということは、ヒガサはまたここへ戻ってくるのだろう。
そうしたら、彼はどうするのだろうか。私の心臓を抉るのだろうか。
華子は観葉植物を見つめながら、遠くでそう感じた。
「ただいま」
しばらくして帰宅したナキは、リビングの空気に違和感を覚えた。
家を出る前に比べ、断然に重い。
重苦しい。
窓を空けてもいいだろうか。
「あの、お二人さん?」
炬燵机を挟んだ向かいに寝転ぶ、ヒガサと華子。
ヒガサがなぜか半袖なのが気になって仕方がない。
「しょうがないな。……起きるまでに作っちゃおうか」
ナキは材料の入ったビニル袋を持って、台所へ向かった。