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もう長月も半ばだというのに、葉月初頭の話を上げている。だが通常運転である。気にしてはいけない。そして著者の語彙のなさも気にしてはいけない。全てに寛容であることは人にとって難しく、全てに無関心であることもまた人にとって難しい。そうは思わないだろうか。筆者は思わないので、寛容になってくださいね、マル
蝉が鳴いている。
暑中見舞いを出そうと思い立った頃には、すでに残暑見舞いの時季になってしまっている。
夏休みに入ると、時間が過ぎるのが早い。
宿題にも手を付けられないまま、予定も組めないまま、八月を迎えてしまった。
この八月の暑さ、残暑と呼ぶにふさわしくないと思うのは、私だけだろうか。
華子はそう思いながら、冷えた麦茶を飲み込んだ。
「河童と天狗って何が違うと思う?」
ナキの突然の問いかけに、華子は「はぁ?」とヤンキーまがいの顔と声を返した。
そんなことを言っては、“ヤンキー”に失礼だろうが、今はそれどころではない。
「天狗はお前だろ。お前は河童じゃないんだろ」
「それでいいじゃない」と言わんばかりの返しに、ナキは少し涙が出そうになった。
感動の涙である。
しかし、今はそういう話がしたいのではない。
「興味無い?」
「どうかしたのか」
「今度、友人を紹介したい」
「それが河童なのか」
「うん。華子さんが会いたくないってなら、よしとくよ」
「そりゃ気になるが……」
「ほんと? じゃあ近々連れてくるから」
「盆中はやめてな。月末がええわ」
盆中であると、たまに父方の祖父母が来ることがある。
なぜか息子夫婦とその子共が実家に帰るのではなく、向こうがこちらに来る。
異様なイエであることは、二代前からだ。
華子は自分が変人であることを自負しているが、それは自分に限ったことでなく、家系の問題だとしている。
「あ゛ー。コーヒーうめぇわ」
そんな独り言を神社の本殿前の石段に座して呟く者は、この町には一人しかいない。
華子は飲み切った缶コーヒーを足元に置き、空を眺めた。
遠くに入道雲がある。
幼いころは、綿菓子のようだと言っていた。
あるいは、雲に乗ってどこかへ行きたいと言っていた。
それも夢物語であると悟ったのは、いつごろだろうか。
いつから夢を見なくなったのだろうか。
現実には、夢はまだ見ているのだが、それに気づかないから子供なのだ。
嫌な現実を見るなら、愚かな夢を見ていたいところだ。
「どうした」
華子の後ろから狐が寄ってきた。
華子は「げぇ」と露骨に嫌そうな顔をする。
茶色い毛。黒い足に耳に鼻。ごく普通の狐である。
だが、この狐は妖狐だ。
何百年とこの世に鎮座している。
普通の狐ではない。
もう異常だ、異常。
「おい。ここはお前の神社じゃないだろう」
華子は帰宅時に外で缶コーヒーを飲むことを日課としている。
以前までは妖狐のいる神社で飲んでいた。
かくかくしかじか、それが近寄りがたくなってしまった。
今日は別の神社の境内にいたはずだが。
妖狐は笑む。
とはいえ、獣の姿では笑んでいるかも判断し難い。
妖狐は狐の姿のまま、口を開いた。
「知り合いに会いにな」
どこから声を出しているのだろうか。
舌は? 喉の構造は?
そんな愚問は措いておく。
「ふーん。じゃあもう帰るのか。さっさと帰れ」
「我も嫌われたものよな」
「だが」と妖狐は続ける。
「これから会う。ぬしもどうだ」
「どう、てなんだ」
「会わぬか」
「どうせ狐だの狸だのに会うんだろ」
「会えばわかる」
狐は焦らす。
華子は妖狐の返事が気になって仕方ない。
もったいぶった言い方が、まるで、狐でも狸でもない相手に会うのだ、と言っているようである。
「んー」と華子は唸る。
妖狐は怪しい笑みを浮かべ、今の状況を楽しんでいるようだ。
あくまで獣の狐である。
笑んだように思えても、実は何の変化も無いのかもしれない。
冷静に考えれば、華子の“気のせい”なのだろうが、それどころではない。
「会わぬか」
「会う」
「うむ」
妖狐は満足気に頷く。
「ついてこい。奴はこっちだ」
言われるがまま小さな獣の後ろを歩く。
空き缶を捨てたいのだが、仕方ない。持っていくことにする。
神社入り口である鳥居を右手に歩を進める。
どうやら相手は境内にいるらしい。
そう判断できるのは、この神社は森に囲まれており、出入りするには鳥居をくぐるしかないためである。
森や山に入ると、たちまち自分の居場所がわからなくなる。
異界、とはよくいったものだ。
今から会う相手が、もし境内でなく森にいるなら、いくら狐が案内してくれるとはいえ遠慮したい。
むしろこの狐の案内だから嫌だ。
自分の家に帰れなくなるのではないかと思ってしまう。
「さあ、着いたぞ」
案外近かった。
華子が案内されたのは、神社の社務所であった。
拝殿の左側に位置した社務所である。
普段は誰もいないのだが、今日は誰かが居るらしい。
なんせ、玄関が開いている。
「おい神主」
妖狐が声を張ると、奥から人が出てきた。
華子宅にいるような天狗でも、化けた狐でも狸でもない。人間だ。
華子はそう疑わず、心内で安堵の溜息を吐いた。
「お待ちしておりましたよ。ささ、中へ」
「表でよい。それより、面白いものをつれてきた」
「おもしろいもの、ですか」
妖狐が鼻先を華子に向ける。
神主も首を華子に向ける。
少し驚いたような表情を見せるが、すぐに笑む。
「かわいらしいお嬢さんをお連れになりましたね」
華子が挨拶をしようと口を開く。
しかし、言葉が出る前に妖狐に遮られた。
「どうだ、おもしろいだろう」
「ええ。お話をお伺いいたしましょう」
顔を見合わせる神主と妖狐。
華子は頬を小さく膨らませた。