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眼鏡を忘れた時の衝撃といったらない。もう終わったと思う。サイフを忘れた時の衝撃といったらない。空腹とのどの渇きとの勝負である。両方忘れた時の衝撃といったらない。もう、授業休んで一度家に取りに帰りたくなる。そのまま家を出たくなくなる。筆記用具を忘れた時の嬉しさといったらない。優しい友人がペンを貸してくれる。筆者は今日も忘れ物をしたようだ。イイハナシにまとめようにも、忘れ物はいかん。だめだぞ。
「よう来た」
妖狐は、待っていたと言外に含みながら、ナキを迎えた。
本殿の手前、石段に座す妖狐。白の衣が闇夜に浮いている。
狸が華子宅に訪れて四日目の晩である。
黒い羽を舞わせながら、ナキは境内に着地。
妖狐の前に立つ。
久々に飛ぶと、気持ちの良いものではある。
しかし、これからの用事のことを考えると、そうも言ってられない。
怒気を含んだ低い声で、妖狐に声を掛ける。
「どういうことだ」
「何がだ」
「とぼけるな。華子さんのことだ。気を付けろってのは、華子さんを警戒しろって話だろ」
「わかっておったか」
平常である妖狐の声に、ナキは眉を顰める。
「まあ、座れ」
妖狐が促すと、ナキは進まない様子で妖狐の横に座した。
石段の表面が、尻を冷やす。
今日は華子チョイス、カーキ色の綿100%生地のズボンである。
これが、薄い。
こんな冬とも言える季節に履くものではない。
ふと隣を見ると、白のワンピースに身を包んだ女がいた。
ノースリーブのワンピース。
足元はかかとのあるサンダル。
他に飾った物はなく、実にシンプルかつ派手である。
何が問題というのは、これまた冬の格好ではない。
そして、隣にいるのは人間の女ではない。
ナキは溜息を吐く。
「妖狐……」
「見覚えは」
あるに決まっている。
妖狐が化けた女の顔は、華子に似ている。
声も女声であり、声質がどことなく華子のようだ。
だが、華子のような幼さはない。
程良く整った顔に、すらりと伸びる手足。肌色は白過ぎず、濃すぎず、程良い小麦色。
結われていない黒髪は、風が吹く度にふわりと舞う。
華子が少し年をいったら、このような容姿になるかもしれない。
しかし本人ではない。
妖狐である。
それを忘れてはいけない。
「なんのつもりだ」
「あの娘と似ているか。それとも、三世紀前の小童に似ているか」
「どういうことだ」
「あの娘、小童の子孫だな」
「本当か」
「うむ。嘘を吐く理由もない」
「じゃあ、あの人里にいた者は、こちらに居転したのか」
「そういうことか。あるいは、あの小童だけか」
「お前はここの土地神じゃないのか」
「一人の娘のことまで把握するが、我の仕事ではない」
興奮状態にあったナキは、それもそうだな、と自分を落ちつかせた。
しかし、不思議なこともあるものだ。
引き籠る以前、最後に会った者と同じ血と、目覚めてすぐに出会うとは。
「さて、問題はここからだ」
「む」
「この小童の血、どうやら、我らが見えるらしい」
「いや、そらそうだろ。普通に話してるし」
「そうではない。忘れたか。我らはヒトに見えぬよう、姿を消すことができる」
「そうなのか?」
「常人では見えぬはずの我らであるが、なぜかあの小童の血は、そうではない」
妖狐は怪しい笑みを浮かべる。
とはいえ、常時笑っているようなやつだ。
それがどういう意味を含んでの笑みか、古い付き合いであるナキにも分からない。
古い付き合い、と思ったが、そうでもない。
引き籠る以前は、ここまで頻繁に顔を合わせていなかった。
毎日顔を合わせていても、この狐の笑う理由は理解できないだろう。
「じゃあ、華子さんはこいつらも見えてるのか」
ナキは手の平を上に向けた。
彼の手の平の上部には、小さな白の毛玉がある。
ふわふわと浮き、今にも風に飛ばされそうである。
天狗や妖狐ほど力のあるモノではない。
しかし、その毛玉は妖怪である。
意思を持たない、ただ存在するだけの妖怪。
これが人間社会にどのような影響を与えているのか、などという問いは、無意味で無駄な事である。
それほど、さり気ない存在で、神とは程遠い地位の妖怪である。
「恐らくな。だが、血は薄まるものだ。確実にとは言えぬ」
思い返してみれば、華子はこれらを煩わしそうにしていた様子はなかった。
見えているとすれば、狐や狸の類のみだろうか。
と思えば、天狗が見え、周り妖怪が見えない理由が説明できる。
根本の、見えているか否かについては、本人のみが知ることだが。
「それで、なぜ華子さんを警戒する必要がある」
「まだ寝ぼけておるのか、はて」
「あ?」
「まぁよいわ。どうせあの小童もヒトも、祓う力も創る力も失くしてしまっているだろう」
妖狐は呟く。
ナキは疑問符を頭上に浮かべるだけである。
妖狐との会話の本論が見えず、反論のしようもない。
「しかし、そのかっこうはなんだ」
ナキは妖狐の全身を眺める。
美人とまでは言わないが、それなりの整った顔立ちの女である。
季節にそぐわない服装であることのせいか、浮いている。
通りがかりのヒトがこの姿を見れば、いったいどうかしたのかと思うだろう。
「さて」
妖狐は惚けた様子で答える。
しらばくれるのは妖狐の特技か。誤魔化すのが妖狐の特技か。
ナキは浅く溜息をした。
「飲め。時が満ちれば、あの娘の話をしてやろう」
妖狐に勧められ、ナキは渋々猪口を受け取った。
濁酒が注がれる。