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筆者は決意したのだ。タイムマシンに乗り、天狗が現れた時代へ旅立った。空に閃光が! 「ドーン」という音に驚きを隠しきれないまま、筆者は口を開いたまま、呆然と空を眺めていた。天狗である。本物だ。誰か偉人が亡くなったのか、天変地異の前触れか、幼児が病気なのか、おめでたなのか。筆者は天狗に駆け寄った。倒れる天狗。危険を顧みず、それに近づく筆者。天狗からは煙があがっている。「大丈夫か」「大丈夫だ、問題ない」。ブイサインを返す天狗。苛立ったので、取り敢えず蹴っておく。それから、その天狗の姿を見かけたのは、ある山中を歩いていたときであった。これは…跟けるしかない!
ナキは非常に困っていた。
人の子が懐いてしまった。
人の子はナキに抱きつき、こう言うのだ。
「うちな、ナキのお嫁さんなるわ」
ナキは非常に困った。
なぜなら、彼は天狗だから。
彼是、一刻ほど前である。
ナキは山中を散歩していた。
久々の外出であった。
冬の風が頬に当たる。冷える身体を包むように、ナキは両二の腕を持つ。
本当は、祠の奥で休んでいたかった。
しかし、そうもいかない、用事ができてしまったのだ。
人間様に呼ばれてしまった。
山神たるもの、人がいてこそ存在できる身。
お呼ばれされたからには、行かねばならぬ。
“山神”と言ったものの、天狗という存在は、まあ不思議なものである。
神という人間もいれば、物の怪と呼び、避ける人間もいる。
善か悪かといわれると、どうにも首を傾げる存在。
生き物であるかも定かではない。
ただ、腹は減るらしい。
さて、話は戻る。
自分の名を呼ぶ人間の様子を見に、祠を出た。
どうやら、自分の名を呼んだのは童子らしい。
童子は社の前で泣いていた。
華奢な身体は、ちゃんと仕事ができるのかと尋ねたいほどである。
華奢というより、痩せ細った、と表現した方が正しいかもしれない。
「おれを呼んだのはお前か」
上から目線の、低い声。見下した目は童子を睨み付けているようである。
別に、そういうつもりはないのだが。
「ああ、来てくださった。うれしゅうございます、ナキさま」
「用件を述べよ。おれは頗る眠い」
ナキの登場に感動していた童子は、心底驚いていた。
天狗も寝るのだ。
「迷子になってしまいました」
なんということか。
迷子になったからと、呼び出されてしまった。
さっさと童子を人里に帰し、自分も帰宅して飯食って寝よう。ナキは今後の予定を組んだ。
「お前の里はいずこに」
問うと、童子は谷を指して「あの辺りです」と言った。
苦手な里であった。
あそこの住人は、どうも気性が荒い。
空腹に耐えかね、里に下りると、彼らは石を投げてきた。
飢饉であったこともあるだろうが、そこまで露骨に追い出そうとしなくても。
ナキは以降、あの里に下りることを避けている。
まさか、このような形で再度訪れることがあろうとは。
「よろしい。目を瞑りなさい」
童子が目を瞑ったことを確認。
ナキは童子を抱え、里まで飛んだ。
久々に飛ぶと、気持ちのいいものである。
引き籠り生活が長すぎたようだ。
食料は山の動物が持ってきてくれるため、生きるに困らない。
堕落した生活を送っていた。
ナキは童子を里の入り口で降ろした。
目を開けるよう言うと、童子は素早く、目を全開させた。
大きな目がこちらを見つめている。
ナキはたじろぎ、目を逸らす。
視線は止まない。
「なんだ」
我慢できず、こちらから声を掛けた。
すると、童子は言ったのだ。
「うちな、ナキのお嫁さんなるわ!」
どういうことだろう。
厄日なのか。今まで堕ちた生活を送っていたことに、天災がやってきたのか。
天狗そのものが天災であるはずなのに、どういうことだろう。
この里の人間は、どうもこの天狗を困らせてくれるらしい。
敬語もどこかへ行ってしまった。
「ああ、その。反応に困るから、そういうことは」
「天狗様がうちに来られたら、母上もお喜びになる!」
童子と思っていた人の子は、どうやら女であったことが今更発覚した。
さておき、事情が呑み込めない。
「どういうことだ」
「天狗様が家にいると、その家は裕福になるのです。昔からの言い伝えです」
座敷童かなにかと勘違いをしているのではないだろうか。
だが、座敷童は家の守り神であり、裕福にする神というわけではない。
この里だけに伝わる話だろうか。
そんなことはどうでもいいのである。
ナキはそろそろ、空腹と眠気のダブルアタックに倒れそうなのだ。
帰ってもよいだろうか。
「うちの家は貧乏でな、畑はよう荒らされる、男手はおらん、女兄弟ばっか。母上も床に伏せ……」
彼女は顔を伏せ、鼻をすすりはじめた。
泣いている。
女の泣き声は苦手である。
ナキは彼女の頭の上に、手を乗せた。
すると、瞬時に彼女の手がナキの手首を掴んだ。
油断していたこともあり、引っ込める暇もなかった。
「というわけで、どうかナキ様、天狗様。うちの家に来てくれん?」
嘘泣きであったらしい。
大体の人間は、泣けば顔が赤くなるものだが、この娘の顔は先程と変わっていない。
元気で、明るい笑顔が、こちらを見つめている。
とはいえ、言っていたことは事実らしく、やせ細った手足は、見ていて折れそうで怖い。
なんとかしてやりたいと、ナキの良心は訴えている。
だが、こちらも非常事態なのだ。
「すまない」
ナキは、彼女の顔を見ずに、小声で言った。
謝罪の言葉は、彼女に届いていただろうか。
確認する余裕もない。
ナキは、人の子を置いて、山へ帰った。
また、飯食って寝たら、来るから。
なんて、自分勝手なことを発言することはなかった。「また来る」とも言えなかった。
言えば良かった、と後悔したのは、祠で遅めの朝食を摂っていた時であった。