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もう四月も終わりであるが、今回のお話は卯月中旬のこと。新学期がはじまり、そわそわした雰囲気が消えつつある時期。花が咲き乱れ、炬燵で丸くなっていた猫も日の元で眠る季節。筆者は今日も自転車で汗だくになりながら通学路を駆け抜ける。「おれ…実は、生でタヌキ見たことねぇんだ…」などと、元ネタ不明の一言と共に、本日の物語の幕が開く。
桜の花が舞っている。
満開の時季は過ぎた。
あとは散るのみである。
春である。
パンジー、チューリップ、蒲公英、桜といった春の代名詞が、あちらこちらで花を咲かせている。
カミツレやオオイヌノフグリなど、秋にも咲く花が、この季節も開花させている。
「春だな」
ナキは、花咲く庭に、見るともなしに視線を向けている。
白い蝶が、どこかに留まることなく、庭を右往左往している。
疲れないのだろうか。
「春だな」
ナキの隣に座するヒガサは、同じ言葉を返した。
そして、良いことを思いついたと言わんばかりに、笑顔になる。
「華子殿が帰宅したら花見に行かないか、天狗殿」
「は?」
「ちょうど見ごろだからな。この辺りで桜の綺麗な場所はないか」
「ふざけてるんですか、ムジナ殿」
「いいや? そんなことはないぞ。そうだ、妖狐も誘ってみてはどうだろう」
ナキは苦笑した。
返す言葉を考えるのも面倒である。
淹れてもらったばかりの緑茶をすすり、心を落ち着かせる。
どうも、この狸と一緒にいると、口が悪くなる。
この緑茶を淹れたのは、華子の母親である。
今日は仕事が休みということで、家にいるのだそうだ。
ヒトの行動パターンが昔と異なっており、未だ戸惑うことがある。
華子の母親も、二日連続で休むこともあれば、一週間ずっと仕事をしていることもある。
華子は土曜日、日曜日と家にいる。
しかし、彼女の両親は、土曜日も日曜日も関係無いらしい。
華子の眠りを邪魔しないように、静かに出かける。
「……そうだな」
ナキは呟いた。
「ん? どうした」
「花見だよ。いいんじゃないか。華子さんの両親もつれて」
「それは良い考えだ」
ナキの提案に、ヒガサは笑顔で答えた。
しかし、ナキの案もヒガサの同意も空しく終わった。
皆で花見に行こう、と華子の母に提案すると、無理だと言われてしまった。
どうやら、次に華子の両親が同時に休むのは、五月に入ってかららしい。
それでは、もう桜の花は散っている。
華子の母は、ナキたちだけで花見に行くよう勧めてくれた。
それでは意味がない。
華子の両親と会話をすることが目的なのだから、いなければ意味がない。
花見でなくてもいいのではないか。
とは思うものの、やはり情緒と言うものをだな。
ナキが考えを巡らせていると、隣の狸が思わぬ言葉を発した。
「では、来年だな」
お前はいつまでここにいるつもりだ。
思うが、口には出せ無かった。
ナキ自身、自分がいつまでここにいるのか分からなかったためである。
そもそも、なぜここにいるのだったか。
どうせ、ここは自分の祠でも、ましてや世話になっている社でもない。
華子さんは、食べ物を与えてくれた恩人であるが、共にいる必要はない。
考えると、子供が自分の存在意義を考え始めているかのように、どうでもいい疑問が次々浮かんでくる。
それを一言で収めよう。
「まぁ、いっか」
「ん? どうした、天狗殿」
「いいや。なんでもないよ、ムジナ殿」
「そうか」
ムジナは、相変わらず太陽にも負けず劣らずの笑顔を、こちらに向けてきた。
同族嫌悪感からくる苛立つ感情を抑えつつ、ナキは冷めた緑茶をすすった。
「ムジナ殿、お前、里には帰らなくてもいいのか」
「……あ、ああ」
ヒガサは微妙な答えを返した。
返答を濁そうがどうしようが、彼の勝手である。
答える気がないのであれば、強く問い詰める必要もないだろう。
ナキは黙った。ただ庭を眺め、季節を感じる。
ヒガサも何も言わない。俯いたまま、口を開かない。
リビングから、テレビからの音声が聞こえてくるだけである。
「分かってはいるんだ」
ヒガサは開口した。
「でも……」
「逃げたんだな」
ナキの一言に、ヒガサは黙った。
肯定の意である。
認めたくないため、口には出せない。
この男にしては珍しい反応である。
ナキは、ヒガサはもっとサバサバしている狸だと思っていた。
所詮は狸か、などと内心溜息を吐く。
「山彦がまだ煩いのは本当だ。姿が見えないのが厄介でな、きちんと話ができない。隠れるのなら、私は探そう。でも、彼らは形を持たない。声だけが頼りだ」
ヒガサは、空になった湯のみを両手で持った。
右手で持ち、左手に持ち替え、また右手に持つ。
「今は、山彦が安静に暮らせるように、とここにいるつもりだ」
手を止め、湯のみを傍に置いた。
視線を庭に向ける。見るともなしに投げられた視線は、非常に遠くに飛んで行った。
「しかし……。しかし、不安ではあるのだ」
何が、とは問わない。
己の故郷のことだろう。
同胞は今どうしているだろうか。仲間は。友は。
ヒトの生活の変化により、ヒガサたち動物の暮らしにも変化が表れた。
野生の動物は、ヒトにより生産された生ごみを食する。
ヒトの運転する車に轢かれるなんて、日常茶飯事である。
昔とは違う現世で、自分の故郷も“今”を送っている。
気にならないはずがない。
「途中で帰ることはなかったのか」
ナキはヒガサに問う。
ヒガサは口角を上げる。
「もちろん、何度か帰ったさ。やはり心配だからな。……余計なお世話だったかもしれんが」
「というのは」
「何度戻っても異常は無かった。田舎だからな。ヒトの手が入ることなんて、間伐時ぐらいだったろうな。本当に、どこよりも平和な山だったよ」
「一度、戻ったらどうだ。見たら安心するだろ。すぐに帰ってくればいい」
「……華子殿に相談してみるよ。よろしく頼んだばかりだからな」
「面倒臭い性格だな」
「そうかァ?」
「そうさ。ま、精々頑張れよ」
「ありがとう」