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今日は健康診断の日だった。順番待ちをしていると、後ろの男性二人が何かを話していた。盗み聞きをしようというわけではなかったのだが、何もすることのなかった筆者の耳に、その声ははっきりと入ってきてしまった。どうやら、カラオケだと三十分に一度はトイレ行くよな、といった話のようだ。メロンソーダばっか飲んでるから糖分多い。そんな内容だった。なんか吹いた。筆者も、今度カラオケに行く時は、メロンソーダを頼んでみようと思った。もう、無理矢理な前書きで本当に申し訳ない。後悔はしていない。
ヒガサは東国の出身である。
カチカチ山のような昔話にあるように、狸というものは、人を化かす存在であった。
実際に人を化かすものもおれば、確信犯のものもいる。
ヒガサはどちらでもない。
ただ、そこで山の木々に囲まれているだけの、人に害のない、獣であった。
それどころか、仲間である狸達を、諫めている。
同じ狸には煙たがられていたようだ。
どう思われようが、人を化かすという行為は、良くないことだと何度も諭した。
飯なら山が与えてくれる。
もしものときは、地蔵に供えてある饅頭でも食ったらいい。
人を化かすことはなんのメリットもない。
暇つぶしなら他にもあるだろう。
そこで大人しく従う狸どもではない。
ヒガサも重々承知しているが、制止の声を止めない。
ヒガサの声を聞いたのは、いつも狸ではなく、他の動物たちであった。
鹿。熊。魚。虫。植物。
彼らは、ヒガサの言葉を聞いた。
ヒガサに同意し、支持をした。
山は、ヒガサ以外の狸が異色に見えるほど、一つの思念に染まった。
誰もが、泣かなくてもよい、怒らなくてもよい、心地よい環境をつくる。
それが、この山に住むもの達の理想であり、現実にすべきこととなった。
理想が現実となるのも、時間の問題である。
ヒガサ以外の狸が、人を化かすことを止めるか、この山から去るか。
そこを残すのみであったからだ。
同胞であり、かつての友を失くすことは、ヒガサにとって簡単ではなかった。
ヒガサは、確信犯であった友に問うた。
なぜ、人を化かすのか。
無粋な質問であった。
気づいたの口にした後であった。
後悔、とは文字の通りである。
「化かしたくて化かしてるとでも? 人里に下りたら勘違いされたんだよ」
思った通りの回答である。
そこで、人里に下りなければいい、とは言えない。
ヒガサは口を閉ざし、俯いた。
言葉に詰まった。
もう、何も言えない。
「そんな顔をするな。言いたい事はわかる。だが、相容れぬも日常だ。考えても見ろ。ヒトは山に上り、私たちを撃ってくる。逃げることができても、出血で死んでしまう。だのに、そんなヒトを受け入れろ? 人里に下りるな?」
「すまない。だが……」
「理想は、所詮理想だ。全ての生き物が同様の考えを持っていると思うなよ」
ヒガサは、目の前の同胞から視線を逸らした。
それから、同胞たちは隣の山へと集団で移動してしまった。
狸がいないと、山というのはこうも静かであったろうか。
ヒガサは何かが欠けた心を持ったまま、数日を過ごした。
人里も、山も静かである。
平穏。その言葉がよく合う。
たまに人が山に上り、動物を狩ることがある。
人は、その命に、神に感謝し、食している。
人が、獣に恐れることがない。狸の化かしに恐れることはない。
これが、理想の。
疑問に思う。
何度、山に残った仲間に諭そうと、自分の心はどこか晴れない。
ヒガサは、曇った顔をしていた。
もちろん仲間には見せない。
独りの時だけである。
暗い顔など見せては、仲間に不安を与えてしまう。
そんな中、声がしたのだ。
「ヒガサ、ヒガサ」
自分の名を呼ぶ声。
初めて聞く声であった。
辺りを見回すが、声の主は見つからない。
「ヒガサ、うるさいんだ、ヒガサ」
「煩い? 私がか」
「違うよ、ヒガサ。小童だ。小童がいる。煩いんだ。辛いんだ。西の方にいる。黙らせてよ」
「いよいよ抽象的だな……。西の方だな。わかった。行ってこよう」
声の主は、恐らく山彦だろう。
形の無い声。
彼らは形を持たない。
それでも、意思を持っている。
山に住む山彦の平穏は、この山の平穏を意味する。
ヒガサは信じ、山を飛び出した。
それから何百年も東奔西走した。
◆
「待て、止まれ。おかしいだろ。人を探していたんじゃないのか? せめて五十年で見つけないと人は死ぬぞ」
華子は、ヒガサの語りに口を挟んだ。
ヒガサは笑顔で返す。
「そうだな。だが、それでも山彦は黙らせろと言って煩くてな」
「は?」
「人によって考え方は異なるが、輪廻、というものを知っているか、華子殿」
「輪廻?」
「生物の魂は循環している、ということさ。死ねば魂はどこへ行くのか。その答えとも言えるな」
「魂なんてあるのか?」
「考え方はそれぞれだ。だが、山彦は何かを感じているらしい。山彦が黙らせてほしいのは、実際に喉を震わせて叫んでいるヒトではない。何とも言えない声で叫ぶ魂だ」
◆
旅の間は、暗い顔を仮面で覆った。
笑顔の仮面。
張り付いたそれは、あるものから気持ち悪いとさえ言われた。
それでも、外すことはできない。
外してはいけない。
ヒガサは走った。
時折山彦の声が聞こえる。
黙らせて、という声だ。
ヒガサの故郷の山できこえた声ではない。
恐らく、この辺りの全ての山が、小童の声を聞いているのだろう。
日を重ねるごとに焦りは増す。
本当に、見つけ出すことができるのか。
だが、諦めてはいけない。
直に寿命も過ぎ、猫ならば猫又にでもなろう年齢になった。
それでもヒガサは若々しいままであった。
神の加護か、元から自分は異常だったのか。
何にしろ、山を動き回るヒガサには、都合がよかった。
◆
「そして、この国へ足を踏み入れた。情報収集の基本は人里。その後に神社巡りだ」
「なるほど。お前はあそこで畑を漁っていたわけじゃないんだな」
「華子殿!?」
思わず声が裏返った。
勘違いされているようだ。
ヒガサは焦る。
慕っている女子に、悪い印象を持たれては、さすがのこの狸も辛い。
「天狗殿、華子殿に説明してくれなかったのか?」
「あ? ああ。別にいっかなぁと」
したり顔で答える天狗。
ヒガサは苦笑いを返すしかなかった。
◆
それから目当ての人物を見つけるまで、そう時間はかからなかった。
何しろ、目当ての人物と目を合わせていたからだ。
妖狐の社に赴き、事情を説明した後のことだ。
それから二、三日後の夜、山にある木の窪みで体を休ませていると、山彦が言ったのだ。
「天狗だよ。彼と一緒にいた小童だ。ヒガサ、起きて、ヒガサ。あの小童が煩いんだ」
◆
「なるほど。で、それから山彦はどうなった」
「これが、まだ煩くて、少々困っている」
「原因は分からないのか」
「原因解明のためにも、華子殿の傍にいたい」
華子は溜息をついた。
どうしたものか。
人助けは嫌いじゃないが、相手がこの狸となると、見返りを求めたくなる。
狸に求める見返り? 皮でも剥いでやろうか。
「それより、なんでそれだけ饒舌に事を話せるのに、黙ってた」
「華子殿を私たちの事情に巻き込みたくなかった」
「……そうか」
華子は呟くように返した。
しばらく間が開いた。
その間、ヒガサは華子を見ていた。
妖狐の隣の天狗の隣。
座標も心も遠いようだ。
華子はやっと、口を開いた。
「仕方ないな」
諦めにも近い口調である。
どう解釈すべきか。
「それは、華子殿の傍にいてもいいということだろうか」
華子は小さく頷いた。
納得はしていないようだ。
華子の反応に、ヒガサは罪悪感を覚えた。
「ありがとう、華子殿。改めてよろしく頼む」