第二章 せんそう
1
部屋の中は静まり返っていた。ラッセルは茶を出しはしたが腕組みをして壁にもたれ、二人のメイドは部屋の入り口付近に、箒を、まるでそれが壊れやすい家宝であるかのように大切に抱えて立つ。デニスは客人と向き合って座り、油断なく監視するような目付きで見つめていた。クリスとセロンが客間に入ると、使用人たちは一斉に彼女を振り向いて安堵した表情を見せる。
遅れて、優雅に紅茶を飲んでいた和装の客人も顔を上げた。
「——今更なんの用だ、淡島鷺水」
「遅いお帰りですね。待ちくたびれてしまいましたよ」
若衆のように前髪を残し、後ろで束ねた長い黒髪を前に垂らした髪型は、東洋人特有の幼さと、落ち着きすぎた声音も相まって年齢不詳の不気味さを漂わせている。縞の着流しに堂々と帯刀し、体はひどく細く頼りなげなのになぜかこちらを抜き差しならぬような心持ちにさせる。それは恐怖と言い換えてもいい。
「こちらのことに口出しされたくはない。……二年ぶりか? 淡島。こちらが落ち着くのを待っていたのか?」
クリスは使用人たちをねぎらって下がらせると、淡島と対峙した。流れるような所作でカップを置く淡島。それがまた東洋の武術を思わせてぞっとする。
「そんなところですね。——いやしかし、随分しっかりなされた。これならお父上の代わりに話を進めさせていただくことができそうです」
淡島は腕を組み、さも嬉しそうに含み笑いをした。
「それで、ご決断いただけました? 亡きお父上から、いえあるいは執事殿から、この話は聞いていらっしゃるんでしょう? あなたもまだ幼いですし、この家を売り払って辺境伯殿のところへ身を寄せては? 今日も郊外へ行かれてたんでしょう」
「黙れ、私はこの家を守りぬくと決めた。貴様なんぞに渡す気は毛頭ない!」
クリスは膝の上で拳を強く握りしめる。侮辱された。激しい怒りが彼女の全身を駆け巡っていた。
「そう興奮しないでくださいよ、クリスティアナ」
飄々と淡島はそれを受け流し、立ち上がって窓の外を眺めた。セロンがさり気なくその動きを警戒する。
小さい窓の外には壺庭がある。これとは別に屋敷には広めの庭園があるのだが、反してこちらはかなり小さくタイル張りで、わずかに花壇が一つ、そこに秋の花が控えめに咲いている。庭師のデニスが世話しているものだった。
「ああ菊ですか」
淡島は表情の読めない黒の瞳を細める。
「…… 、」
母国の言葉だったのか、淡島が何と言ったのかはわからなかった。
そこで、めったに主人の会話に割り込んでこないセロンが不意に声をあげた。
「——……無駄足ですよ、淡島。お引き取り願います」
その時だ。
クリスの頭の中に、過去の場面が再生された。
『今更いらっしゃったところで無駄だと』
『構わないんですよ、そんな事』
——クリスは自分を落ち着かせるためにひとつ大きく息を吸って、吐いた。呼吸が震えていた。
「…………淡島、聞きそびれていたことがある」
「なんでしょう?」
振り返った淡島の顔は逆光になっていて、その表情はうかがえない。
「最後に来たのは確か、母様が亡くなられた日だったな」
「——さて、どうでしたか」
「貴様は母様の部屋に行ったはずだ」
鼓動が早くなっていく。思わず畳みかけるようにクリスは言葉を重ねる。
「貴様が出ていった後、私が母様の元へ行くまでは誰も部屋に入っていない。ならば最後に母様にお会いしたのは貴様だということになる」
「そうなりますね」
淡島は刀の柄に触れていた左手をおろした。
「それならば、淡島……ッ」
「お嬢様、」
「貴様が、母様を殺したのではないのかッ! 母様を唆し、自刃するように仕向けたのは貴様ではないのか! どうなんだ、淡島! 答えろ!」
——言い放った言葉が空気を冷却させ、ほんの少し刺激を与えたら壊れてしまいそうなほどだった。蝋燭の火が居心地の悪さに身じろぎするように揺らめき、淡島の顔を一瞬照らしだした。瞼は閉じられていた。
不気味な空気の揺らぎは催眠術のように昔の記憶を呼び覚ます。
2
歌が聞こえる。
少し調子の外れた、少女の声だ。なにか嬉しいことでもあったのだろう、弾んだような響きは、先程から途切れることなく続いている。
今より少しばかりきれいな、かつてのキャヴェンディッシュ邸である。少女は小さな手に人形を抱えて、気持ち良さそうに歌っていた。
「——クリス? クリスティアナ、」
「なあに?」
落ち着いた女性の声がした。客間の扉を開けて、和装のサラ——クリスの母親が姿を見せる。長い黒髪を緩くまとめ、鶯色の小袖を優雅に着こなすその姿は、もう四十も目前であるが、その美しさを保っていた。
「父様が帰ってきたわよ」
「お父さまが? ほんとに?」
クリスは勢いよく立ち上がり、それから思い出したように人形をソファに座らせた。下を向くと顔にかかる現在よりも短い黒髪は、だが今と同じハーフアップだ。その横顔は幼いながらもすっきりと整っており、彼女の手を引く母親に面差しがよく似ていた。
「ええ、本当よ。——さ、クリス、お迎えに行きましょう」
「はあい」
小さなクリスはサラの手を握った。
——これは三年前、まだクリスが八歳の頃のことである。一七四七年、イギリスはオーストリア継承戦争においてフランスとの植民地戦争に踏み切り、軍備の増強を開始していた。
そんなこととはつゆ知らぬ幼いクリスは、だから帰宅した父、ロイが深刻な面持ちをしていることにも気付かなかった。
「お父さま、お帰りなさい!」
飛び込んだクリスの小さな体は、体格のいいロイの腕にしっかり抱きとめられた。鋭い目付き、まばらに生やした髭に、日焼けしてわずかに黒い肌は、貴族というより海の男と言った方があるいは近いかもしれない。
「ただいま、クリス。いい子にしてたか?」
「うん!」
「そうかそうか、偉いぞ」
ロイの大きな手で頭をくしゃっとなでられると、それだけでクリスは安心した。ロイはクリスを抱いたまま、妻の頬に軽く、触れるようなキスをした。
「サラ、ただいま」
「……何かあったの? ロイ」
「ああ、少しな。……ラルフは?」
「奥にいるわ」
ダイニングに入ると、大きな机でクリスの兄、ラルフが勉強をしていた。その横には金髪の青年——いや少年だろうか——、執事のセロンが座り、それを見守る。セロンは執事ではあるが、同時に子供二人の教育係もつとめていた。
ドアの開閉する音に二人は振り返り、ロイの姿を認めるとラルフは立ち上がって駆け寄った。
「父さん、お帰りなさい」
「ただいま。勉強か、偉いな」
セロンも立ち上がって深々と礼をする。「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ。——セロン、少し話がある」
「はい」
いつの間にか使用人たちが全員ダイニングに集っていた。皆、何かただならぬ空気を察知してやってきたらしい。双子メイドのエルシーとベス、料理人ラッセル、庭師のデニス……現在と違うのは、門番の片方がランフォードではなく、別の高齢の男だということだけである。
その中にあって十八歳と最も若いセロンは、神妙な顔つきで主人と向き合った。
「セロン、落ち着いて聞いてくれ。——……ジャイルズが、お前の父親が、召集された。ランドルフもだ」
召集とはもちろん、従軍することと同義である。しかしセロンは主人が心配するほどの動揺は見せなかった。それどころか必要以上に無感動ですらあった。
一つも表情を変えることなく、セロンは、「——そうですか」と空気を吐き出すように言った。
「父も兄も、騎士として戦争で死ねるなら本望でしょう。わざわざお知らせいただき、ありがとうございます」
軽く頭を下げるのとともに発せられたその言葉に、ロイはわずかに顔を曇らせた。
父の足にしがみつくようにして立っていたクリスは、そこで自らが大いに信頼している執事を見上げた。クリスがそれに気がついたのは彼女が幼いゆえの鋭さではなく、彼女自身が生来聡明だったからである。
「……セロン、淋しいの?」
「えっ……」
冷静沈着な執事が珍しく言葉を詰まらせたのは、それが核心を突いていたからだろうか。
「……そうかも分かりません。ただ、ここで私がこの事実を拒絶したら、二人とは二度と会えぬ気がして……、怖いのです」
滅多に見せぬ本音を告げた声は震えていた。その肩を、デニスがそっと叩いていた。
クリスは大きな緑の双鉾でセロンを見つめた。
「——第一、ジャイルズが徴兵されること自体、おかしなことなんだ。騎士が本来戦うために存在しているとはいえ、騎士階級は下級貴族の一のはずだろう? 貴族が従軍だなどと、馬鹿げている。……何を考えているのだろうな、あの男は……」
二人の子を寝かしつけ、サラが夫婦の寝室に戻ると、ベッドに浅く腰かけたロイが呟くようにそう言った。サラは夫に寄り添うように隣に座ると、「確かに、おかしな話ね。ほんとうに、メーヴィスがかわいそうだわ……ヴィンスも、それにセロンも……」
サラは気のいい友人一家のことを想った。
キャヴェンディッシュ家とラザフォード家は長く家族ぐるみで付き合いがあった。セロンの父、ジャイルズがロイの剣の師なのである。セロンが今こうしてキャヴェンディッシュ家に仕えているのも、両家の親交があっての話である。
「気落ちしているだろうな、メーヴィスは……」
「ええ……——ねえ、ロイ」
「どうした?」
サラは羽織っていたカーディガンの前を合わせるように握りしめた。
「私……怖いのよ。ジャイルズが召集されて……あなたもそうなるのじゃないかって」
「——サラ」
愛しい妻の名を呼ぶと、ロイはその細い肩にそっと触れた。
「安心しろ、俺はどこにも行きやしない。お前やラルフやクリスを捨てて、どこに俺の居場所がある? ——……だが、もし本当に召集命令が下れば、俺は行かねばならない。その時は——わかるな?」
「ええ、ええ、……もちろん」
泣きだしそうな声に微笑みを返すと、ロイは妻の体を強く抱きしめた。
——その言葉が現実となるであろうことにも、薄々ロイは感付いていたのかもしれない。
3
十日もしない内に、その男はやってきた。血相を変えたユージーンが部屋に飛び込んでくると、おもむろにロイは立ち上がった。
和装の淡島鷺水はソファに腰を下ろすと、不気味なほど穏やかな笑みを張りつけて頭を下げた。
「これはこれは、ご無沙汰しております子爵殿」
「ご無沙汰の方がよかったのだがな」
客間ではロイとラルフが淡島に応対し、ラッセルとデニス、セロンがそれぞれ控えている。扉の向こうではメイドが隙なく辺りを警戒し、それだけ、この淡島鷺水という男が危険だということを物語っていた。
「やれやれ嫌われたものですねえ……今日はまともな用事なんですよ?」
「普段はまともではないということか」
「おや。これはつい。言葉のあやですよ」
ロイは平然と言葉を返すが、隣に座ったラルフの顔からは完全に余裕が消えていた。淡島の持つオーラに気圧されてしまっているようだった。
「——とりあえず文書におこしましたのでお読みください。それでは私はこれで」
机の上に白い封筒を出すと、さっさと立ち上がり部屋を出ていく淡島。引き止めることもできずに茫然とそれを見送った後、ロイはふと我に返り、封筒を開けた。
ロイとラルフへの従軍命令であった。
「そんな……!」
書簡にさっと目を通したデニスが悲痛な声を上げた。同時に門番をつれてきたメイド二人が部屋に飛び込んできた。
「出征だなんて、」
「旦那様、私も行きます!」
老齢の門番がロイの前に膝をついて宣言した。全員、一瞬呆気にとられたが、誰よりも早く、もう一人の門番——ユージーンが、その横に同じように膝をついた。
「そんなら俺も連れてってください!」
「バート……ユージーン……」
ユージーンのこの時の相方、ハーバート・バスカヴィルは、六十を過ぎてなお衰えることを知らぬ肉体の、実直な男であった。先代当主ローランド、失踪したロイの父の一年後輩にあたり、家長がロイとなっても変わらず仕える最古参である。キャヴェンディッシュ家に出仕を始めてまだ日の浅いユージーンを可愛がり、よく面倒をみてくれる、ユージーンにとって敬愛すべき父親のような存在であった。
彼がハーバートと共に行きたいと言いだしたのは自然なことだった。だからこそハーバートは、ユージーンをやんわりと宥めて言った。
「ジーン、君は駄目だ。ここに残りなさい」
「なっ……なんでや……!」
衝撃に瞳を潤ませて、ユージーンはハーバートを見上げる。その癖のある黒髪を、齢を重ねた温かみのある手がなでた。
「君はまだ若い。戦争なんて下らないもので命を落としてはいけないんだ」
「それは……それは、戦争で死んだらあかんのはハーバートさんかて同じやないですか!」
「私は十分、長く生きた。それに、旦那様に一生ついて行くと誓ったから」
「そんなん俺やって、」
「……ジーン、いけない」
ユージーンの目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「——旦那様。あらためて、この私もお連れください」
「……すまない……」
ロイは悲しそうに目を伏せた。ユージーンがなおも食い下がろうとするのを、デニスが後ろから羽交い締めにしてなんとか押さえる。
「ユージーン、落ちつけ!」
「いやや、いややぁっ! なんでみんな、みんな戦争なんかに行かなあかんのや!」
「ユージーン!」
ラッセルが一喝した。その声に弾かれたようにビクンと動きを止めたユージーンは、そのまま膝からくずおれた。
「…………なんで……なんでや……」
声を上げた方のラッセルも、両手で顔を覆った。
言葉を発する者はいなかった。
——まさしくこれが、戦争であった。
「…………そう……本当に……来たのね」
「ああ」
クリスとともに自室に入っていたサラに、ロイが事の次第を説明すると、サラは静かにそう返した。覚悟はできていたようだった。
サラの部屋は日本風にしつらえてあり、十畳ほどの畳敷きに床の間、ふすまと障子、縁側を出ると枯山水の壺庭が広がる。陽は傾きかけ、部屋の中は薄暗い。壁ぎわに文机を置き、座布団を敷いて座ったサラの膝の上で、クリスが小さな寝息をたてていた。サラが起こそうとするのでそれを遮ってから、ロイは隣で膝を抱えるラルフの体を自分にもたれさせた。
「……俺はまだしも、どうしてラルフまで」
「それがあの男のやり方なのよ……そうやって、この家を途絶えさせようとしているんだわ。——どうしてそこまでこの家に執着するのかしら」
「——わからない。親父の古い友人だっていうのにな……その親父も、いなくなってしまった」
ロイは聡明そうな、彼の娘によく似たまなざしでサラの瞳を見つめた。その顔には憂いや焦りといったものはなく、代わりに、すっと心を決めたような潔さがあった。
「サラ。俺は行く」
「……ロイ……」
「ぼ、僕も」
弱々しいながらも宣言した声に、ロイは笑ってラルフの髪をかき回した。
「そうか、一緒に来てくれるか、ラルフ。嬉しいぞ」
ロイはラルフを両腕でぎゅっと抱きしめた。それから、わずかに淋しげな色を見せて、「……明日の朝には出発する。——気持ちの揺るがない内に」
「ええ」
ラルフを解放してから、ロイは立ち上がった。
「今夜は、みんなで寝ようか。なあ、サラ?」
「ええ、」
「——……じゃあ、もう少し仕事片付けてくるから」
ロイが書斎に消えると、ラルフは母の隣に座り直し、その腕につかまった。サラは幸せそうに眠るクリスの髪をなでていた。
その手に、一つ、二つ、涙が落ちた。
クリスが最後に見た父と兄、そして門番は、軍服をそつなく着こなした勇ましい立ち姿であった。ラルフは母に抱きしめられると恥ずかしそうに身をよじり、照れ隠しなのか妹の頭をなでた。ロイは玄関を出る前に愛する妻と抱擁し、それから娘を抱き上げた。
「よいしょ、……はは、クリスはどんどん大きくなるなあ」
「お父さま、早く帰ってきてね」
「ああ」
ロイはクリスと同じ深い緑の瞳で彼女を見つめた。
「……いいか、クリスティアナ。たとえどんなに辛く悲しいことがあっても、泣いていいのは三日の間だけだ。そのあとは、しっかりと現実を見据えて、何をすべきか深く考えること。その際に、自分ではなく、他人の利を極力心がけること。そうすれば、自然と正しい道が見えてくるはずだ」
「……お父さま?」
「ううん、クリスにはちょっと難しかったかな。でもな、意味がよくわからなくても、今父さんが言ったことだけは覚えておいてくれ。もし俺が、帰って来られなくても」
ロイはクリスを地面におろした。
「——二人とも、愛している」
三人は迎えにきていた馬車に乗り込んでいった。
ハーバートが屋敷に最敬礼をしていた姿が、クリスの目に焼きついている。もう、振り返らなかった。
4
三人がいなくなった館はどことなくがらんとしていて、部屋の隅の、光の当たらぬ影のところがやけに怖かった。クリスはぼんやりと窓から外を見ていることが増え、サラはもともとよく気のつく働き者であったのが、最近はますます、メイドたちの仕事がなくなるほど働くようになった。
当主がいなくなった後も淡島は頻繁にキャヴェンディッシュ家を訪れた。そのたびに母が応対し、日に日に疲れがたまっていくようだった。クリスはこの東洋人が嫌いだった。幼いクリスには淡島がなぜこうも母を訪ねるのかはわからなかったが、少なくともこの男はいけ好かない感じがして、胃の辺りがむかむかした。
とはいえ、それを除けば平和なものであった。ラッセルの料理はいつも通り美味しかったし、デニスも変わらず庭の手入れをしている。エルシーとベスは元気に挨拶をしてくれ、セロンは相変わらず優しかった。
ただ一人、ユージーンだけが少し淋しそうに見えた。
「セロン! セロン! 電報!」
ラッセルが電報を手にダイニングに駆け込んでくると、セロン、クリス、サラが同時に振り向いた。
急いで開いた文面には、たった一行、すぐに帰省するようにとの旨が打たれていた。
「……これは……」
「行きなさい、セロン」
緊急の報せが届いてなお動こうとしないセロンを叱咤するように、サラが声を上げた。わずかに細められた目がセロンを見つめていた。
「早く。手遅れになってはいけないわ」
「——はい」
セロンが帰ってきたのはすっかり夜もふけた頃であった。寝る支度をしていたクリスは玄関のドアが開閉した音を聞きつけてぱっと駆け出し、背の高い執事の腰の辺りにしがみついた。
「——お嬢様、」
「…………」
普段そのようなことをしないクリスに、セロンがどうしたらいいものか困っていると、すぐにサラが姿を見せた。「セロン、お帰りなさい。——クリス? 一体どうしたの」
クリスはおもむろにセロンから離れた。それから、何も言わずに走って出ていき、しばらくして子供部屋のドアが閉まる音がした。
「どうしたのかしらねえ、あの子」
「ええ——ただ今戻りました、奥様。それで、その……」
サラは振り向いてセロンを見つめた。
「言いたくなければ、無理に聞くことはしないわ」
「……お気遣い、ありがとうございます。——ですが奥様は私の家と懇意にしてくださっておりますから、この度のことも報告する義務がございます」
セロンはき、とサラを見返した。銀色の瞳の奥は、決して揺らいではいなかった。
「兄ランドルフは戦死。父ジャイルズは国家反逆の罪と負傷により、本国送還となりました」
「——……反逆……ですって……?」
「おそらく騎士の称号も剥奪されるでしょう」
サラは胸に手を当てた。顔から血の気が引いていく。それは確かに、セロンの家を心配しているからでもあったのだが、それ以上に夫のことが気がかりでならなかったのである。
「……そう……。辛いのに言ってくれてありがとう。疲れたでしょうセロン、もう休みなさい」
「ありがとうございます。では、失礼いたします。奥様もゆっくりお休みくださいませ」
キャヴェンディッシュ邸の中二階には使用人たちの自室が並んでいる。その内の一つの扉を開けると、セロンは電灯も点けずにゆっくりと窓に近づいた。
夜空には見事な満月が浮かび、薄い雲がたなびいていた。だがここは霧の都、月の光は水彩画に水をこぼしたように滲んで、ぼやけていた。
セロンは窓枠に手をかけた。そしてそのまま、膝をついた。
涙など、とうに枯れたものと思っていた。
その声は渇いた獣のようでもあった。
——冬が終わり、春が来て、夏に差しかかった頃、憲兵が屋敷の戸を叩いた。一年中雨の多いロンドンはその日も黒い雲がたれこめ、昼前だというのに夜のように闇が濃かった。
「奥様、憲兵が来とります」
「ありがとう、私が出るわ。……ユージーン、みんなを集めておいてちょうだい」
クリスはかわいらしいフランス人形を抱えてソファに座り、母の姿を見ていた。
「奥様でいらっしゃいますね?」
「ええ、」
「訃報が届いております。ロイ・キャヴェンディッシュ殿、ラルフ・キャヴェンディッシュ殿、それにハーバート・バスカヴィル殿……ですね。遺品を回収しましたので、お受け取りください」
「——そう、ありがとう。どんな死に様だったか、お聞かせ願えないかしら」
「——……申し訳ありませんが、詳しいことは我々も存じません」
「そう」
「ではこれで。——心よりお悔やみ申し上げます」
屋敷の人間が全員集ったリビングにサラが戻ってくると、部屋の中はさらにしんと静まり返った。静寂の中で、サラが何か支柱を失ったように立ちくらんで傾いだ。
「奥様、」
慌ててデニスがその体を支える。サラの手には二着のコートと、小さな紙片でまとめられた髪束が握られていた。
「…………これは」
「——っ!」
サラが何も言わぬうちに、ユージーンはそれらから思い切り顔をそむけて部屋を出ていった。勢いよく閉められたドアが、一瞬部屋の空気を震動させた。
「ユージーン……」
全員、言わずともわかっていたのだ。押し黙り、あるいは俯き、まるで人生のように重い沈黙に耐えていた。
ただ一人クリスだけが、わかっているのかいないのか、きょろきょろと使用人たちを見渡し、それから母に目を止めて、「お母さま? どうしたの?」
「——クリス、ごめんなさい」
サラは愛しい娘を、手にしたものもそのままに強く抱きしめた。
「クリス……父さまも兄さまも、もう帰ってこないの。ハーバートも……」
「どうして……? お父さまはすぐ帰ってくるっておっしゃったわ」
「クリス、」
「どうして、どうして」
クリスの大きな瞳から雫がぽろぽろとこぼれた。
「本当にごめんなさい……私では駄目なのよ……」
娘を抱きしめる母の体は、驚くほどに痩せてしまっていた。
「——愛してるわ、クリス」
サラは泣きじゃくるクリスを解放し、すいと立ち上がった。そして誰に声をかけることもなく部屋を出ていった。
襖が閉まった。
ユージーンは一人、門の外に立っていた。何も考えていなかった。考えたくなかった。誰もいない左側に目を転じ、重たすぎる現実に押し潰されてしまったようにしゃがみこんだ。
その時だ。
「失礼、ユージーン・ウェスカー殿——奥方様はおられますか?」
見上げた先に淡島鷺水が立っていた。
5
淡島は我が物顔で邸内を歩く。リビングの戸を開けたとき、泣き腫らした目でクリスが自分を睨みつけたことにも気が付いていたのだが、あえて無視した。
その進路に、セロンが立ちふさがった。「——今更いらっしゃったところで無駄だと」
「構わないんですよ、そんな事」
それを避け、サラの自室へと向かう。誰も、何も言わなかった。ただ憎悪だけが漂っていた。
襖が閉まった。
やがて淡島が襖を開けて出てきた。勝手に玄関へと向かいながら、「奥方様はしばらくお一人にしてほしいとのことです」とだけ言い残して、辞した。
——それは美しくも壮絶な死に様であった。
白く、決意を秘めたような表情を浮かべた顔を横に向け、うつ伏せに倒れた躯。その艶やかな黒髪はほつれてほどけ、純白の着物は、ここから見るかぎりではわずかに朱に染まっているのがわかる程度である。閉じられた瞳は、もう、クリスを見つめることはない。
見つけたのはクリスティアナ当人であった。いくら待っても自室から出てこない母を不審に思ったのだ。
母は、自害していた。
屋敷はがらんどうになった。
人形が一つ、床に転がっていた。
6
——罵声を浴びせられた淡島は、だがそれでもやはり目を閉じて平然としていた。あるいは微動だにしなかった、と言った方が正しいかもしれない。眉一つ動かさなかったのである。
クリスは肩で息をしていた。呼吸を整えるのにこれほど苦労したことはなかった。
静寂に、やや高い淡島の声が、いたずらに小石を流れに投じるように響いた。
「——やはりあなたは私を誤解されていますね」
「この期に及んで貴様……、ふざけるのも大概にしろ!」
クリスの鋭い声が、バチンと静電気のように走った。
「……でないと……今にも貴様を撃ち殺してしまいそうだ……!」
二年の間に増幅された彼女の中の憎しみが、一気に噴出していた。クリスはコートの前を強く握って気持ちを落ちつけようとしていたが、そこには愛用の装飾銃が収められているのである。
淡島は悲しそうにかぶりを振った。
「仕方ありませんね……今まで気のせいかと思って黙っていたんですが。けれどここであれこれ言い訳の言葉を並べたところで信用して下さらないでしょうし……」
そこまで言って淡島はクリスにしっかりと向き合った。わずかに気圧されてクリスは一歩さがってしまう。
淡島は、一つ、息をついた。
「クリスティアナ。日本に来てみませんか」
「——…………は、」
クリスは唐突すぎる淡島の言葉にぽかんと口を開けた。いくら何でも、この場面で口にする提案とは思えない。
「ああふざけて言ってるわけじゃありませんよ、私は大真面目です」
「いや、待て、日本は確か今、国を閉じているはずだが……海禁とか、なんとか」
「鎖国ですか、まあこれは後の呼び名ですが。しかしまあ、探せば抜け道はいくつもあるんですよ」
淡島はすまし顔だ。そんなところもクリスの癪に触るのだが、今は腹を立てることも忘れている。
「第一なぜ私が日本なんかに行かねばならない」
「まあまあ」
芝居がかった動きで客間の中をゆっくりと歩く淡島。呆気にとられたクリスはすでに、先程までの怒りをすっかり忘却してしまっていた。これが淡島の処世術とでも言えるのかもしれない。
「私も日本に帰るのは久し振りですからねえ……昔使ってた道もあるにはあるんですが、とにかく、ですね」
「な、なんだ」
淡島はクリスにぐっと顔を近付けた。思わず首をすくめるクリス。当主とはいえ、やはりまだ経験が足りない。
「資金・食糧等々、そちら持ちでお願いします」
「貴様、調子のいいことを……!」
「クリスティアナ、怒るのはなしですよ。まずは私がどういう人間で何を目的としているのかを、日本へ来てその目で見極めてから、その結果私を殺すべきと判断したら、どうぞ殺してください」
正論だ。
クリスは出かかっていた言葉をぐっと飲み込んで黙った。
「……ありがとうございます。さて船ですが、あなたが用いている貿易船と同じくオランダのものを使用していますので、アムステルダムまでおいでください。オランダは西欧における唯一の日本の通商国ですからね」
「——私はまだ、行くとはひとことも言っていない」
「いいえ、あなたは来ますよ。必ず」
淡島は微笑んだ。まるで、未来を見透かしているかのようであった。
「それでは、明日の夕刻、波止場近くのバーでお待ちしてます」
「…………本当に食えないな、あの男。なぜ私が極東まで長い日数をかけて行かねばならないんだ?」
食堂にはディナーの名残香が漂っている。淡島の姿はすでにない。クリスは食事を終え、ゆったりとソファに腰かけていた。使用人たちはそれぞれ片付けに追われ、そばにいるのはセロン一人だ。
「どうなさいますか、お嬢様」
「うん……私はやはりあの男は信用できなくてな……」
「罠でございましょうか」
「そうかもわからん。いずれにしろ、嫌ならば行かなければいい話だ」
「——……俺は、そうは思いませんが」
デニスだった。仕事道具の手入れを終えたのか、オイルで汚れた手を拭いている。
クリスは気怠そうにデニスを見上げてわずかに笑った。
「ふふ、珍しいな。どうした、デニス? 回し者か?」
「そうではないですが、」
「いや、冗談だ。——で、どうしてそう思う? 聞かせてくれ」
デニスはうながされてクリスの向かいに座った。
「はい。——あの日本人、流暢に英語を話すので忘れがちですが、ここイギリスでは異邦人です。当初は苦労することも多かったでしょう。つてもなく、孤独で——あるいは今も、」
「…………ずいぶん弁護するな」
「ええ。それは、俺も淡島と似たような立場にあったからです」
それが何を意味するのか、クリスにはわからなかった。デニスは、クリスが生まれた時にはすでにキャヴェンディッシュ家で庭師をしていたからである。
クリスの好奇心が頭をもたげた。
「どういうことだ?」
「お嬢様のお生まれになる前……いや、まだ旦那様は結婚もなさっていなかった頃でした。身寄りもなく孤児だった俺は、旦那様に拾っていただいたのです」
デニスが庶民の出であることはクリスも知っていた。だが孤児であったとは聞いたことがない。
「そう……なのか」
「はい。それまでの俺はどこへ行っても邪魔者扱い、ろくに教育も受けていなかったから字すら読めませんでした。——学がないというのは、想像以上に孤独を増幅させるものなんですよ」
デニスは少し視線を下げた。
「……旦那様がなぜ俺を拾ってくださったのかはわかりません。きっと気まぐれだったんでしょう。それでも、誰かに理解されることがこんなに幸せなことだとは思いませんでした」
「デニス、」
「俺は淡島にも少なからず似たような気持ちがあるのではと思うんです。はじめイギリスへ来た時はきっと英語すらわからなかったのでしょう。だからどうしても完全に憎むことができない……」
そこでデニスは、照れ隠しなのか、顔を上げてはにかんだ。
「——……申し訳ありません。出すぎた真似をしました」
「いや、お前の話を聞いて心が決まった。私は行くよ。……辛いことを思い出させてしまってすまなかった。ありがとう」
デニスの正直な告白が、クリスの心の中からわずかに黒いものを取り除いていた。再び彼女は正しい選択ができるようになったのだ。
それは、深く考え、自分ではなく、他人の利を考慮した選択であった。
翌朝、クリスは馬車と連絡船を乗り継いでオランダへと向かった。