お馬さんはお休みだけど
初めてその場所へ行こうとしたときの戸惑いをいまも忘れていない。マップを見つつ、気持ちが立ち往生だった。目的地は東京競馬場。いくらさがしても「東京競馬場前」と名のつく駅はなかった。
ようやく見つけたのは、ちろっと枝毛みたいにわかれた端に「府中競馬正門前」の文字。ここで合っているのかと半信半疑で短い電車に乗りかえた。もう、十数年も前のこと。
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久しぶりの景色。一人ではない。来年、幼稚園で年中組になる息子が、私の手の先にいる。開催日でないこの日、府中競馬正門前駅は、若かったあのときに浴びせられた喧騒が嘘のように静まり返っていて、ひと際むなしい。
駅前の急な坂を下る。視線の先には、嫌でも巨大な建物が目に入る。こらえきれず息子は、小さく飛び跳ねる。私も顔がにやける。
しかし、そうそう上手くも行かない。ケヤキの並木を抜けた先にある巨大な鉄の門は、その口を固く結んでいる。
「お馬さんは?」
やや不満顔の息子を抱きかかえ、なぐさめに柵の隙間から、なかを覗かせてみる。あたり前に馬はいない。
「今日は、お馬さん、お休みなんだ」
私が言うと、息子は、
「つまんない」
短く返してきただけ。明らかに興味を失って、私の腕から降りようとする。熱狂のない競馬場は、息子にとって、ただたださびしい空間でしかない。息子だけではない。大人の私だって。それに今年は午年だ。なのに馬に会えないって。来ないほうがよかったか。いや、そんなことはない。後悔のような、思いが深すぎるような。
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馬がいないのならと、帰りのほうに気持ちと足が向かった。歩けば気持ちがいくらか紛れるか、との淡い期待から、東府中駅まで歩いてみた。デスクワークがメイン。情けないが足は嘘をつかない。たいして歩いていないのに足が重く、そして痛い。なぜ歩こうなんて思ったか。数分前の自分が恨めしい。じきに、息子に抜かれてしまうな。もうとっくに、なのかもしれない。
「ここ入ってみるか?」
「やったあ」
おいしそうなにおいとその雰囲気に誘われ、駅前の喫茶店に体と気持ちを、いっとき預ける。
ナポリタンとクリームソーダ。いつもならメニューも見ずコーヒー。しかし今日は、私も息子と一緒に緑色の飲みものにしてみた。目にはできなかったが、競馬場の芝が私の幼い気持ちをくすぐったようだ。
鮮やかな緑の服に、白い顔、赤い帽子。目で楽しむ私の横で、息子はさっそく舌で楽しんでいる。
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店を出て、駅を目指す。
「ぎゅいーん」
「おい、あぶないぞ」
「だいじょうーぶ」
息子は私の手を離れ、前を駆けていく。まったく、と思い、そのまま元気にどこまでも走っていけ、と思う。冷たい風を切るその姿は、まるで小さい競走馬のようにも見えた。期待してしまう。大きくなっていく姿を。気ままに野を駆け、草を食み、背負うものは多くなくていい。のびのび育ってくれたら、それだけで―
そんな息子の将来に、胸が大きく跳ねた。




