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わさびが目に染みる

作者: 北大路京介
掲載日:2026/04/25

街外れの小さなお店、『鮨処・かつや』の夜は、清潔な静寂に包まれています。カウンターは白木の香りが立ち昇るほど磨き上げられ、付け台の上には一分の隙もなく道具が整えられていました。


親方の克也は、大きく豊かな声と、太陽のような笑顔で客を魅了する伝説の職人です。その隣で、影のように立ち、黙々と仕込みをこなすのが弟子の剛志でした。剛志はかつて別の道を志して挫折し、冬の寒空の下で立ち尽くしていたところを、克也に拾われた男です。


ある夜、店を閉めた後の厨房で、剛志は一人、震える手でシャリを握っていました。目標とする克也の背中はあまりに遠く、自分の指先はまだ、米の一粒一粒と会話することができません。日々の生活の苦しさや、未来への不安が、不器用な指先に重くのしかかります。


私には、この道しかないのに。


そう呟いた剛志の目から、一滴の涙がまな板に落ちました。


そこに、忘れ物を取りに戻った克也が、足音もなく現れました。克也は剛志が握り損ねたシャリをじっと見つめると、厳しい顔で口を開きました。


「剛志、米が泣いているぞ。そんなに力任せに抱きしめたら、米が息をつけない。素材の命を殺して、何が職人だ」


克也はそう言うと、冷蔵庫から丁寧に布で包まれた本わさびを取り出しました。それは、信州の清らかな冷水で育った、最高級の逸品です。克也は鮫皮のおろし器を使い、円を描くように、優しく優しくわさびを下ろしていきました。


「いいか。素材を敬え。そうすれば、素材がお前を助けてくれる」


克也は、剛志が握り損ねたシャリを一度解くと、魔法のような手つきで握り直しました。指先が踊るたびに、シャリの中に適度な空気が含まれ、ネタと一体化していきます。出来上がった一貫は、まるで生きているかのように付け台の上で凛としていました。


「食ってみろ。今日のお前へのまかないだ」


剛志は促されるまま、その一貫を口に運びました。


次の瞬間、鼻を抜ける鮮烈な香りと、口の中でハラリと解ける米の甘みが、剛志の全身を駆け巡りました。それは、厳しさの奥にある師匠の巨大な慈しみそのものでした。自分を信じて待ってくれている人がいる。その事実が、剛志の凍てついた心を溶かしていきます。


剛志の目から、今度は熱い涙が次々と溢れ出しました。


それを見た克也は、わざとらしく自分の鼻をこすり、照れくさそうに笑いました。


「おいおい、そんなに面をぐしゃぐしゃにして。ちいと、わさびを入れすぎちまったかな?」


剛志は、溢れる涙を拳で拭い、精一杯の声で答えました。


「……はい。鼻に、ツーンときて……止まりません」


「ならいい。男が泣いていいのは、一生に三度、最高の仕事に出会った時だけだ。明日はもっとマシなもんを握れよ。さあ、帰って寝ろ」


克也はそう言って、剛志の肩をポンと一度だけ叩き、店の奥へと消えていきました。


一人残された厨房で、剛志は深く一礼しました。夜明け前の市場で、また新しい一日が始まります。彼の胸には今、わさびの香りのような、清々しい希望が満ちていました。

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― 新着の感想 ―
わさびと涙の一場面が物語の中で上手に描かれています。 物語の閉じ方も素敵です。
親方の優しさにあっぱれです。 読み終わったあと、にぎりが食べたくなりました(╹◡╹)
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