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ノンフィクションのプラトニックラブ

いよいよ社会人。

就職も決まり、働き始めた私。

さあ出発の時です。

これから起こる様々なことを、期待を胸い一杯にしてスタートしました。

そして、私のこいの行方は・・・

        第四巻

 恋・社会人

入社に当たり、

「よし」

「今日から社会人」

「なんでも取り組んで頑張るぞ」

と言う意気込みで入社しました。

まずは入社式を終えて新入社員教育。

『江田島青年の家』で、『総務教育』『技術教育』『倫理教育』および、リクレーション研修を受けました。

とても楽しい時間を過ごさせていただきました。中でも、『技術教育』は、入社後すぐに取り組むであろう、『非破壊検査』の基本でした。

また、江田島青年の家名物の『カッター訓練』これにも特別なメッセージがあったように覚えております。

カッターは八人乗りで、オールを持った漕ぎ手が前方から左右、交互にオールを出して漕いでいきます。

先頭に掛け声を出して漕ぎ手をまとめていく人の号令で、八人が息を合わせて漕いでいきます。

八人のまとまりが必要で、同じ調子でオールを漕いで行かないとオールがぶつかったり、人と人が接触したりで、船は目標に向かって真っ直ぐ、そしてより早く進むことができません。

『共同生活』『共同作業』の大切さを教えていただきました。

もう一つ記憶に残ったのが、新入社員同士で、自分以外の人の長所を上げていくと言う物。

自分のことは自分が一番よく分かっているつもりなのですが、実はそうではなく、相対する人から見たものが本当の自分であること。

確かに容姿にしても、鏡を見れば自分の姿を映し出すことができるのですが、実はその実態は、自分の上部だけしか見えていない。

人から見た自分、相手が自分をどう思うか、どう見ているか。

と言うことがとても大切なことです。

また、そのことを、自分に対して素直に言って貰える人を見つけることが重要です。

その言葉を自分が受け入れることによって、人は進化することができるものです。

ん~・・・倫理的なことも含まれているようですね。

そして、研修も終わり、現場配属。

私は、川本重工業・広島造船所・観音工場に入っている、当社、観音事業所に配属になりました。

一言に『非破壊検査』と言っても、色々な手法があります。

『放射線透過検査』

『超音波探傷検査』

『磁粉探傷検査』

『浸透探傷検査』

『渦流探傷検査』

『ひずみ』

等々あります。

私が配属になったのは、観音事業所の中でも、『放射線検査』を行っている、『中間X線検査室』でした。

当時のメンバーは、「東班長」・先輩にあたる「金山さん」・「村木さん」・「前田さん」・新入社員の「新井田さん」・「寺本さん」・そして、私の七名でした。

後は、二次判定業務専門で、川本重工から菱明へ派遣されていた、「関さん」

こちらの「関さん」により二次判定されたものが、初めて正式な判定結果であり、報告書に記載されるものでした。

まあ、見るもの、聞くもの、触るもの、全てが初めての物ばかり、毎日がお勉強。

でも、楽しかったです。

観音事業所の中には、別の放射線施設もありました。

『ライナック室』

『ベータートロン室』

『鋳鍛検査室』

そして、川本重工プラント建設にあった、『照射室』でした。

この職場がきっかけで、今の職制についているのかも。

最初が『放射線検査』から始まったのですが、使用していたのは、ガンマ線よりは主として、エックス線の方でした。

最初のうちは、撮影に慣れるために、撮影の合間を見ては、先輩から指導受けながら、テストピースや、実用的なものとして、腕時計、電気部品等々何かの撮影をしていました。

入社直後は、繁忙期でもなかったため、仕事の合間を見ては、練習や、基礎的な勉強もしていました。

今だから話せるのですが、あまりに時間がありすぎる。と言うか、時間を持て余すときには、四・五人が集まり、『リーチゲーム』

今でいえば、『ビンゴゲーム』のようなものをして、時間を潰したこともありました。

とは、言うものの、忙しくなってくると話はまったく変わってきます。

三交代ならぬ、二交代制を組んでの撮影作業。

ほんとに忙しい時は、夜勤でも、夕方四時ごろ出勤し、当日の撮影打合せと、現場確認から始まり、撮影に入るのは早くても定時後の、六時あたりからで、終了時間は未定。

当日の撮影予定が終わればよいのですが、終わらない場合、翌日の日勤作業者が出勤してくるギリギリまで撮影。

撮影が終われば現像室に入り、溜まった撮影済みのフィルムを現像。そこまですれば後の水洗と乾燥は日勤に任せて日報を書いて終わりとなるのですが、事務所に帰るのは、太陽が昇り、ギンギンに眩しい朝九時・十時でした。それから帰ってバタンキュー。

夕方まで熟睡。

が、しかし、客先都合で働いているため、要望があれば『徹夜』もアリアリ。

一番酷かったのは、三日間家に帰れませんでした。

今では、労基が厳しくて考えられませんが。

と、まあ、こんな感じだったのですが、私が所属していた事業所では、出張とかは殆どなく、工場内での勤務が多かったです。

でも、たまに外工事の話もあり、他の製作工場や、石油精製プラントにも出向いて撮影業務もしておりました。

しかし、まだまだ新人でド素人に毛が生えたようなものでした。なので先輩「海野」さんとタッグを組んで撮影していました。

先輩と言っても、この事業所では撮影を専門としている、外注業者の方がおられましたので、その方にも現場でのノーハウを教えてもらいました。

この方々、表だけではなく、裏のノーハウもいっぱい持っておられたので、色々伝授してもらいました。

お陰様で、私も撮影に関しては会社の中でも、一目置かれるようになっています。

撮影に関しては、この事業所内の全ての施設を回らせていただきましたので、対象物が何であろうと、撮影できないものはありません。

その後、入社二年目頃でした。

当社の客先であった、『三興プラント』へ出向していた先輩社員「根木」さんからお話が来て、

「海水の淡水化プラントを作成する上で、品質管理者の助手を探している」

との打診が、事業所の所長「村城」さんより私に打診がありました。

当時私も少しは積極性も出てきていたので、所長に

「はい」

「やってみます」

と、二つ返事で即答しました。

最初の内は、要領書等にしても全て英文だったで、今の時代とは違い、ネット検索もできなかったので、英和辞書片手に奮闘していました。

しかし、やってみるものでこれが病みつきになり、品質管理の仕事もするようになりました。

ここでの仕事内容は、プラント配管を発注している、配管工場での品質管理が主体となり、工場の品質管理担当の「牟田」さんのお力を借りながら、また、客先代行の元当社社員の「須野」さん、外資系保険会社社員「南野」さんの立会検査等受けながら、仕事を進めさせていただきました。

その内の、「南野」さんの会社がすごかったです。

保険会社と言っても、全世界を相手に仕事をされているため、ただ、会議・打ち合わせと言っても、すべて英語で実施されているそうでした。

私の英語力など、足元にも及ばないものでした。

この配管工場が、山口県下松市にありまして、私の実家から車で小一時間走った場所でしたので、広島からではなく、実家から母にお昼のお弁当を毎日作ってもらい、約半年間ほど通わせていただきました。

その頃、私は一般社員だったので、残業はもちろん付くし、宿泊手当も付きました。

この仕事をしている間は、実家から通っていたのですが、知人宅扱いにしてもらっていたので、手当も毎日付いていました。

ある日、預金通帳を見てビックリ。

預金残高がいつの間にか増えていて、七十万程度に増えていました。

これもみな、会社のおかげ、母のおかげで感謝しました。

住まいは、広島で、就職時に会社の社員寮へ入寮させてもらいました。

この寮へ入るため、予め自分の荷物を運ばなければならなかったので、岩国駅前でレンタカーを借りることに。

レンタカーと言っても、荷物を運ぶだけでしたので、普通トラックでしたが、大学の時から車にはしょっちゅう乗っていたので、運転は苦になりませんでした。

入寮するための荷物と言っても、新しく買いそろえたものもなく、大学時代に使っていた物をそのまま転用して節約しました。

レンタカーを借りて一旦実家へ戻り、荷物を積み込み、さあ、出発するぞと思った時、母から

「首タオルはやめなさい」

「みっともない」

と、言われました。

母は、『厳正』で、世間体も気にする方だったので。

そして、運搬し荷物を運び入れるのに挨拶したのが、寮母の「海野」さんと寮長の「山上」さん。

この寮長が凄い。

一目見ると

「この人、業界の人」

みたいな。

強面の方でした。

でも、話してみると外見とは違い、意外に優しくて、良いおじさんって感じでした。

また、ここで驚くべき事実が。

この寮、『庚午寮』と命名されているのですが、

『木造二階建て』

『共同便所』

『共同風呂』

当然、洗面所も共同。

おまけに、築五十年過ぎ。

いくら静かに歩いても、足を踏み出すたびに

「ギー」

「パキパキ」

床は抜けそう。

各部屋に鍵はあるものの、スライド鍵一つだけ。

もう見た感じ、

「何か出そう」・・・

この寮、以前は、『日本舗装』の社員寮だったとか。

お話は戻りますが、私たち、工場内勤務が殆どで、女子に出会う機会もなく、独身の方も多いのです。

でも、この派遣の仕事をしている間に出会った方が一人だけおられました。

その子のお名前は「須方玲子」さん。

元々、実家の近所にお住いのご家族だったのですが、ある日近くの電車の駅で、ばったり会って、世間話をしていて、「今度、お茶しに行こうか」と言う、お話になり、喫茶店でコーヒーを飲んだり、おしゃべりしたりしていました。

特に彼女と言うわけではなかったのですが、気軽におしゃべり出来て楽しく過ごしていました。

そんなある日、温泉旅行に行きたいねと言う、お話になり、

「予約しよっか」

と言った時、玲子さんは、

「ん~」

「変なことしないんならいいよ」

って言ってました。

「とりあえず予約するね」

と言って、予約。

が、しかし、この後、一つ目の派遣の仕事が終わって、一息ついたなと思っていたところ、観音事業所の方が忙しくなり、広島へ帰ることになり、お泊りデートは結局見送りになりました。

と、いう事で、何故かこの関係も自然消滅になりました。

観音事業所に戻ってからの事でしたが、『放射線検査』以外の検査もするようになっていました。

なので、ここで培った技術がその後の業務に役立つようになりました。

先程、述べましたように、観音事業所自体が、川本重工の中なので、女子に出会うなど皆無に等しいようなもの。

しかし、この頃から幼馴染の「川本」君と週末になれば、飲み屋街に出向き、朝まで飲み明かしていました。

酷いときには、朝まで飲んで、そのまま職場へ直行。

いやまあよく飲みました。

丁度この頃でしたが、社員が増えて、庚午寮が一杯になったので、近くのマンションの一室を会社が借り上げて、社員寮にしていて、

私と、先輩の「大見」さん、同期の「植田」君の三人で住んでました。

一年もしないうちに先輩の「大見」さんは退職されて、商工センターのお弁当屋さんに再就職されたそうです。

なので、「植田」君との二人暮らしでしたね。

ところが、この「植田」君、出張が多くて殆どマンションにはいませんでした。

この頃、私、週末はほとんど飲みに行ってたので、遊びに行ったりするのは、幼馴染の「川本」君と一緒に、スタンドの女の子を誘っては遊んでいました。

良く行っていたのが、

『男と女の子』

『ジュン』

『ピンクシューズ』

この三軒は常連でした。

『男と女の子』では、

「順子」さん「雅美」さん「夕子」さん

『ジュン』では、

「恭子」さん「理子」さん

『ピンクシューズ』では、

「節子」ママ「幸恵」さん

たちと、お店が終わってからも、アフターで遊んでました。

お誕生日には、プレゼントを貰ったりもしました。

一番仲良かったのが、『ジュン』の「理子」さん。

お店が終わってからとか、お休みの日とか、

よく遊びに行きました。

実は、と、言っても、みんな知っていましたが、『ジュン』の「理子」さんの事が好きで、告白もしました。

お店の関係以外でも、プライベートで遊んでいました。

また、時効だと思うので、今だから言えるのですが、『ジュン』の「恭子」さん「理子」さんが私の寮の部屋を訪れては、泊まっていってました。

特に週末土曜日ですかね。

でも、一戦は超えていませんでしたが。

また、就職してから二年目の春だったと記憶しているのですが、幼馴染の「川本」君といつもつるんで遊んでいた時、川本君から、

「実は俺、今『山田』さんと付き合ってるんだ」

「え」

と、少しびっくり

その『山田』さん、中学の同級生で、高校時代にお付き合いしたことがあったので。

しかし、もうその子への思いはなったので、喜んで祝福しました。

その後、私も一緒に飲みに行ったり、ドライブに行ったりとかしていました。

そんなある日、

「錦帯橋の方へ遊びに行くので一緒にどうですか」

とお誘いを受け、

「一人じゃ寂しいでしょうから、いい子がいるので紹介するよ」

と言われ、

「はい」

と二つ返事しました。

当日、紹介してもらい、一緒に遊びに行ったのが、お父さんが地元で鉄工所を経営されている「仲川恵子」さんでした。

せっかく一緒に行ったのだからと、みんなで記念写真なんか撮りました。

もちろん、ツーショット写真もですが。

で、もって、フィルム現像してみるとなかなかいい出来だったので、デッサンしてみました。

と、言うのも、私、気が向いたらですが、風景や人物のデッサンも趣味でしていました。

『水彩画』『油絵』と分けるのもあまり好きではなかったし、どちらかと言うと、真っ白な画用紙に、4B鉛筆一本でデッサンしていくのが好きでした。

たまにうまく書けると、右下にローマ字でサインを入れていました。

『仲川』さんのデッサンもうまくいったので、サインを入れて、渡した記憶があります。

その後は、特に連絡もしなかったので、それきりでした。

そんな、出会いの少ない職場だったのですが、私と同期の「狭山」君が、どこから見つけてきたのか、ある冬の日の事、

「YMCAの『リスマスパーティー』の券が手に入ったので、一緒に行きましょう」

と、誘ってきました。

私も、時間が一杯あったので、

「良いよ」

と、二つ返事で答えました。

当日、着ていく服も考えず、

「ま、いいか」

と思っているうち直ぐに当日がやってきました。

私としては、

「せっかく来たのだから、何かして帰らないと」

と、思い、立食パーティー中に、

「ん、いい子がいるぞ」

と思い、積極的に声を掛けることに、

「すみません」

「私、好村です」

「どうせ、私、一人で暇してるんで、連絡先とか教えてもらえませんか」

すると、その子は、

「はい、良いですよ」

「私も独りなんで」

と、答えていただき、連絡先を交換しました。

その後、舞台はダンスパーティーに移行。

私、大学の頃に、ディスコで踊っていたり、コンサートもしていたので、音感と運動神経には少しだけ自信があったので、彼女と向かい合って踊っていました。

すると、気が付いてみると、踊っているのは、何と私と、彼女の二人だけに。

 そして、いつの間にか、センターでスポットライトを浴びていました。

はい、この時の彼女が、私の妻「鍋川久子」さんでした。

パーティーも終わり帰り際に、ダメもとで誘ってみようと、

「今度、スタンドでクリスマスパーティーがあるんですが、行ってみませんか」

と、言ったところ、

「え」

「私が行っても大丈夫なんですか」

と言われたので、

「大丈夫」

「私の行きつけのスタンドなんで」

と返し、待ち合わせ場所を、

「三越前のライオン像のとこで、時間は、夕方六時とかどうですか」

との問いかけに、彼女は

「分かりました」

「宜しくお願いします」

の言葉で、その日は分かれました。

その数日後、聞いた話では、彼女も、私と同じく、友達に誘われて仕方ないからパーティーに出席したそうでした。

当日の事でした。

「まあ、来てもらえるかどうか分からないけど」

と、思いつつ、三越前のライオン像に向かいました。

そして、彼女を見つけると、自分自身ちょっとびっくりしましたが、

「こんにちは」

と声を掛け合い、

「今日は来てくれてありがとう」

と言い、行きつけのスタンド『ジュン』に向かいました。

すると、ママは、

「まあ、珍しい」

「たくちゃんが女の子連れてくるなんて」

それに連動するように、マスターが

「お、可愛い子連れてきたね」

等と言っていました。

その後、お酒を飲んだり、カラオケで盛り上がったり、時を忘れて遊んでいました。

それから、お付き合いがスタートしていったわけです。

彼女は、妹と二人暮らししていました。

私も、同僚と二人暮らしでしたので、似たような環境だったのでしょうか。

休みの日ともなれば、お互い日曜日が休みだったので、一緒に食事したり、ドライブへ行ったり、時々は、お互いの友達も一緒に、海を見に行こうと言い、四人でドライブにも出かけました。

実は、その時誘って遊びに行った私の幼馴染の「川本」君と、彼女が誘った、友人の「観山」さん、後々、結婚することになりました。

そうこうしていると、会社の中で、品質管理者派遣を専門に行う部署が発足しまして、『エンジニアリンググループ』と言う、部署に配属になりました。

私は主に、『千代田化工』・『千代田工商』への派遣を担当していました。

こちらで、よく教育・指導頂いたのが、「原野」でした。

プラント関係全てにおいて技術的なノーハウを持たれておられた方で、ほんとによくしていただきました。

でも、殆どが出張業務なので、一年のうち八割がた出張で全国を巡っていました。

山口県では、『山部石油』、千葉県では、『出三石油』、『日日石油』北海道では、『出三石油』等々、北から南まで行っていました。

山口の山部石油では、千々田工商の社員寮で宿泊。千葉の「出三石油」では五洋駅前のビジネスホテルへ宿泊しておりました。

千葉のビジネスホテルでのこと時の事、アルバイトをしていた女子高生が数名いたのですが、その中で、とても気の利く女の子がいて、仕事が終わり、ホテルの裏で洗濯をしていると、

「お仕事お疲れ様です」

「今日は、もう終わりですか」

等と、声を掛けてくれる子でした。

チョット気になるなと思い、時々世間話をする程度でしたが、とても癒されていました。

その頃、妻はお付き合いをしていたのもありましたが、毎週のように、ホテル宛に手紙を出していてくれました。

なので、ホテルの中でも、私、ちょっとした有名人になっていました。

ホテルの従業員さんたちが、

「何時も手紙が来ていいですね」

と、言っていました。

でも、その女子高生は何も気にする素振りもせず、いつも、話しかけてくれました。

恋愛感情は抜きにして、

「ほんとにいい子だな」

と思っていました。

そんな出張でしたが、もちろん、大変な面も一杯ありましたが、今ではいい思い出になっています。

そんな時、お正月には毎年実家に帰っていたので、一度、顔見世も兼ねて、妻を連れて帰ろうと、実家に電話して、

「今年のお正月には彼女を連れて帰る」

と、だけ伝え、実家に帰りました。

その場では、挨拶をしに、と言うか、紹介だけのつもりでしたので、家族に紹介して広島に帰りました。

帰ると、父から電話があり、

「あの子と結婚するのか」

と言われたので、

「そのつもり」

と、だけ伝えました。

その後、仲人も決めないといけなかったので、会社の取締役の「西元」さん夫婦に頼み、気持ちよく引き受けてもらいました。

その時の事、仲人さんは、

「彼女に、話をして了解してもらったのか」

「ちゃんと彼女の実家に挨拶に行ったのか」

と言われ、

「はい」

とは、言ったものの、

確認しようと、私の部屋で、

「ついて来る」

と、言いました。

私としてはプロポーズのつもりで言った言葉でした。

彼女の答えは、

「当たり前じゃん」

「私には、たくちゃんしかいないもん」

と言われました。

内心、ほっと、胸をなでおろしました。

それから、次は彼女の実家に挨拶をと思っていたころ、妻から、

「私の祖母、母、妹、弟が広島に出てくるので、一緒に食事しよう」

と、誘われ、

「いいよ」

と、また、二つ返事で答えました。

会食は終わり、次は実家だと心構えを整えて、妻にセッティングしてもらい、最初の挨拶へ、

すると、お義父さんは、何かを察知していたのか、話を逸らせて違う話をされ、見事にかわされました。

またの機会をと、数か月後再びセッティングしてもらい、実家へ挨拶に伺ったところ、今度は、多分、裏取引があったのでしょう、

私が、お父さんに向かって、

「お嬢さんと結婚させてください」

と、言うと、お父さんは、口火をきって、間髪入れずに、

「あなたが来たのは、その件だと思っていた」

「宜しく頼む」

とだけ、言われました。

それからは、結婚に向けての準備を進めていく事になりした。

その後、聞いた話なのですが、仲人さんに挨拶に行った時の事、仲人さんの長女の方が、その様子を見ておられたようで、

「私、あのご主人さん、奪い取ってもいいかな」

と、言っていたとか。

今聞くと、ドラマの一シーンで「略奪愛」

みたいな。

 チョット、背筋が冷たくなるような感触になりました。

 話は、『結納』になります。

 『結納』と言えば結婚までの一大イベントの一つでした。

 仲人さんも、結婚に際しては『厳粛』な方だったので、事前に結納店『福原結納店』を予約し、私たち二人と、仲人さん夫妻の四人で結納品を買いに行きました。

 今では、簡素化される方も多いとお聞きするのですが、目録・結納品の数々を買いそろえました。

 また、『結納』と言えば、『婚約』

 『婚約』と言えば、『婚約指輪』

 私も、殆どが親頼みのところがあったものの、これだけは、と思い、『エンゲージリング』を、妻の元上司『大出』さんにご紹介いただいた、会員制宝石店『ラ・ポール』へ買いに行きました。

 その時買い求めたのが、『0・5カラットAAA・ブリリアントカットダイヤモンド』と、『24金結婚指輪』1セットでした。

 実際の結納までには、半年くらいあったので、『のんびりムード』でした。

 当然、指輪のサイズも合っていないので、変更してもらっていました。

 そんな折、まだまだだからと言う安心感もあったのですが、私、出張に行っていまして、鹿児島の喜入から、依頼を受けて、『奄美大島』へベテラン先輩社員と二人で、配管のエックス線撮影をしておりました。

 すると、突然、仲人さんから宿に電話がありまして、

 「好村君」

 「あんたあ、今、何処におるんかいのう」

 私、正直に

 「出張で、奄美大島にいますよ」

 すると仲人さんは、

 「ええところにおるのう」

 「ほいじゃが、結納の準備は大丈夫かいのう」

 私、思い当たることが一つ、

 「婚約指輪をサイズ変更に出しているけど、もしかしたら、間に合わないかも」

 すると、仲人さんは気を利かせて、

 「そしたら、一旦戻してもらい、サイズ変更する前に、結納の時に使って、その後、サイズ変更しよう」

 と、言ってくださいました。

 そして、当日、私は、両親を迎えに広島駅まで出向き、両親を載せて、当時、彼女の親御さんが住んでおられた三原まで車を運転していきました。

 当時、お義父さんは『ジャガー』で支店長を、お義母さんは『花婿センター』に勤務されていました。

 彼女の着物姿を見たのは、この時が初めてでした。

 仲人さんは、ベテランで、何組ものカップルの仲人をされておられましたので、両家の挨拶から始まり、滞りなくスムーズに終わりました。

 その後、私の両親を連れて広島に向かう途中、父が、

 「腹が減ったのう」

 「ラーメンでも食うか」

 と言って、帰宅中の国道沿いにあった、ラーメン屋さんで、ラーメンを食べました。

 やはり、父も人の子、いつもは、小学校に勤務しており、教頭という立場から人前に立つのは慣れていたのでしょうが、流石に、結納ではあまり食も進まなかったようでした。

 その後は、結婚に向けての準備。

 まず、式場から。

 当時、挙式までにはオープン予定だった、広島駅新幹線口の『広島ダージニアホテル』

を彼女の希望で予約。今では名称変更して『ホテルロビン』に変わっています。

 このホテルで、最初から最後までお世話になったのが、担当のチーフアドバイザー「古村」さんでした。

 『式の日取り』

 『式の形式』

 『食事』

 『引き出物』

 『招待客』

 『披露宴』

 『席次』

 『式の進行』

 『司会者』

 やるべきことは山積みでした。

 まあ、どちらにしても、両親に相談はしたものの、

 「これからの二人の事なので、二人で相談して決めなさい」

 の一言でしたけど。

 それからというもの、休日もほとんどが準備に追われていましたね。

 もう一つは、『新婚旅行』

 私としては、一生に一度の事なので、海外へ行きたいという気持ち。

 彼女としては、言葉も通じないし、不安だらけだったので、国内にしたいという気持ち。

 でも、今回だけは、私のわがままを通して、海外へ行くことにしました。

 先輩社員から、

 『ニュージーランド』

 『ハワイ』

 のお話を聞かされていたので、どうしても

 『オーストラリア』へ行ってみたかったので、色々調べて、メジャーではなかった、『周防トラベル』で扱っていたので、二人で出かけてお話を伺いました。

 私は、仕事上、既にパスポートを持っていたので、彼女の分を取得すれば『OK』でした。

 私の英語力と言えば、リスニングの方は何とか出来ていたので、後は、自分の意思をどうやって言葉の通じない方に分かってもらうか。

 まあ、どちらにしても、単語が浮かんでくればなんとかなるものでした。

 新婚旅行のプランは、ある程度自由が利くように、往復のチケットと宿泊先のホテルは決めておいて、後は現地に行って添乗員さんと決めることにしておりました。

 この添乗員さん私たちと同年代の方で『未婚』単身でオーストラリアにて添乗員のお仕事をされていました。

 お名前は「佐藤」さん。

 とてもきれいな方でした。

 そして、添乗員のお仕事なので、当然英語はペラペラ。

 大変良くしていただいたので、帰国してからもお手紙でやり取りしておりました。

 しかし、何時しか音信不通に・・・。

旅行先でのこと、ホテルでの食事は、日本語も通じるので殆ど困らなかったのですが、街中でお腹が空いてきたので、お昼はレストランに入ろうということに。

レストランの看板を見て、ここにしようと二人で決めて入りました。

先ずは、注文。

メニューを見ても良く分からなかったので、ボーイの方に、

「何がお勧めですか」

と、聞くと、

「ビーフORフィッシュ」

私は、

「フィッシュ」

と答えると、ボーイは、

「白身で美味しいですよ」

と、説明。

妻は、

「ビーフ」

と、答えると、ボーイは、焼き具合を聞いてきましたので、

「ミディアム」

と、答えると、続いて、

「ソースは何にしますか」

と、聞かれたので、

妻と顔を見合わせ、何と答えていいのか分からず、しばし考えて出した言葉が、

「ソースは何がありますか」

と、逆に訪ねてみると、

「ペッパーソース」

「オニオンソース」

「ガーリックソース」

と聞かれたので、

「ペッパーソース」

と答え、何とかランチを終えました。

と、レストランでのここまでの会話は、全て英語でした。

 続いては、新居なのでしたが、これも、不動産屋さんへ出向いて行って、お話を聞いて決めました。

 不動産屋さんは、私の住んでいた会社の寮のすぐ近くにあった、『井山商事』という、不動産屋さんでした。

 色々候補はありましたが、賃貸マンションで、五階建て、エレベータなしではあったのですが、大家さんが、このマンションを建てたときに『住宅金融公庫』を利用されていたそうで、割と安価でした。

 強いて言えば、部屋が、五階だったこと。

 毎日の上がり降りは少々きつかったですかね。

 結婚してからの事だったのですが、私は、本社で放射線管理の仕事を、彼女は、『福田』の五階紳士服売り場に努めておりました。

 そんなある日、彼女から電話があり、

「職場の防火扉が強風に煽られて、開いていたはずの扉が急に閉まり、足首を挟まれた」

との連絡。

仕事が終わり、急遽彼女を迎えに行くことに。

車に乗せて、自宅の駐車場までは、帰ってきたものの、彼女が足を負傷していたため、歩くこともままならないような状態だったので、私は彼女を『お姫様だっこ』して、五階の部屋まで運びました。

当時は、二人ともどちらかと言えば、痩せ気味だったのが、幸いして何とかなりましたね。

結婚したのが、私、『二十七歳』彼女が、

『二十三歳』でした。

 私、元々、現場の第一線で働いていたのですが、結婚する二年前に、本社の前任者からお声がけいただき、

 『総務部』・『安全衛生課』で、『安全衛生一般』・『放射線管理』を担当していました。

現場仕事とは、また、一変しておりました。

『健康管理』

『線源管理』

『被ばく管理』

『施設管理』

『現場管理』

『管理』いう名の付くもの、全てでした。

この当時、殆ど本社の業務に関しては、右も左もわからない状態。

根気よく、親切・丁寧に教えていただいたのが、四代目社長・現時点では、最高顧問の

『古賀』顧問です。

仕事に関することはもちろん。

『業務の進め方』

『メリット』

『デメリット』

『仕事の面白さ』

『放射線管理の位置づけ』

『管理者としての心構え』

等々、何でもトータル的に教えていただきました。

また、プライベートに関しても同様。

『ゴルフ』

『テニス』

『登山』

『工芸』

本当に色々な趣味を持たれていました。

また、その趣味に対する取り組みも決して妥協を許さないようものでした。

そのお陰様で、私、色々なことに対して、

『積極的に』

『前向きに』

取り組めるようになりました。

これも、一重に『古賀』顧問のご指導の賜物だと、感謝しております。

また、私、この頃から、社内の放射線管理だけではなく、

『工業会』・『東空非破壊検査工業会・放射線安全管理委員会』のメンバーにもなり、活動させて頂いておりました。

最初は何も分からなくて、他社の委員の方の言われていることを理解することから始めました。

特にお世話にあっていたのが、『古賀』顧問の友人でもあり、呉の『東京エックス線株式会社』で、放射線取扱主任者をされておられました、『山口』さんや、歴代委員長の中でも長期にわたりご尽力された、『東山工業検査株式会社』で、同じく放射線取扱主任者をされおられました、故『下村』さんでした。

『会議』・『委員会』の時はもちろんの事、『情報交換会』の場でもよくお話しさせていただきました。

そんな、諸先輩方のお導きと、官庁の担当者へも顔つなぎもさせて頂いておりましたので、当時の官庁の担当者様とも、いまだに連絡を取らせていただいている方もおられます。

やはり、仕事を進めるにおいては、『縦』『横』のつながりがとても大事であることを教わりました。

例えば、未だにそうなのですが、電話やメールだけで済ますのではなく、直接顔を見て話すことの大切さを実感しております。

なので、官庁や、取引先に出向いたときには、顔を見て挨拶を交わすよう心がけております。

よって、今では少なくなりましたが、所謂『顔パス』ですかね。

よく一緒に訪れた同僚に、いまだに言われるのが、

「好村さん、何処に行っても顔パスですね」

などと、言われています。

この、『委員会』二・三ヶ月に一度のペースで開かれ、『総会』が年一回ありましたので、東京を始め、全国へ出向いて行き、参加していました。

『出張族』

みたいなものですね。

また、工業会とは別に、社内でも、放射線管理の一環として、書類作成・提出における、『打合せ』や、『現場パトロール』は勿論の事、現場が忙しくて回らなくなると、依頼に合わせ、『検査工事』にも対応していました。

なので、一年の内、半分くらいは出張に行っていました。

「また、出張なの」

「寂しいけど大変だね」

と、よく妻が言っていました。

また、実家に帰っていた時のこと、父と話をしていて、

「来週は会合があるので、実家には帰れないよ」

と、言っていたら、

父は、

「なんだ、出張と言っても、半分は観光旅行だな」

と、言いました。

それもそのはず、父も教員をしていましたので、よく、教職員の会合で、遠方へ行っていました。

それを聞いた妻は、それから私が出張へ行くたびに、

「どこへ行くの」

「息抜きできていいね」

「お土産は何がいいかな」

などと、楽しそうに話していました。

そんな環境で仕事に勤しんでいたのですが、総務部の仕事をしていた私に、ある、転機が訪れました。

時は、『昭和』が終わり『平成』となってから、十年ほど経っていました。

私は、新入社員研修で『江田島青年の家』に行っていた時の事でした。夜の研修終了後に、経理課で課長をされておらました、「川辺」さんから、突然『公衆電話』から私に、直接電話がありました。

当時、私は、『携帯電話』が普及し始めたばかりだったのですが、懇意にしてもらっていた、『ヤマセイのおばちゃん』から、勧められて『携帯電話』を持っていました。

この頃の事から考えるとやっぱり私は、

「新しもの好き」

で、直ぐに飛びついていました。

よく言えば、時代の流れに敏感。

俗に言えば、ただの

「ミーハー」

だったのでしょうね。

それはさておき、話の内容にビックリ。

「好村君」

「経理課で仕事をしないか」

とのこと、

最初、課長が言われることが良く理解できていなかったのですが、よくよく聞いてみると、当時の会社の業績があまり思わしくなかったこともあり、上層部の決断から、『リストラ』計画で、

「今現在勤務している、経理課の女性に代わり、次期経理課長を育てよう」

と、言うことでした。

この私、先ほど書いた通り、

「新しもの好き」・「ミーハー」なので、

「はい」

「わかりました」

「引き受けます」

の、二つ返事で決めました。

その後、経理課へ配属になり、勉強することに。

「川辺」課長は、

「まずは、資格を取りましょう」

と、言われ経理学校へかよくことになりました。

学校名は中区大手町の、『大喜』に通うことになりました。

最初の目標は、簿記三級から始めました。

妻も日商簿記一級を持ってましたので、快く応援していてくれました。

三級はとても簡単で、三週間くらいで合格しました。

続いて二級のお勉強。

サイクル的には一カ月位であったように記憶しております。

この時、成績が良かったのかどうかは分かりませんが、学校の担当教師から、

「教える側のお手伝いをお願いできませんでしょうか」

と言われました。

その時、声をかけられたのが、私と、もう一人の、私よりは十歳ほど若い男性生徒でした。

先生のお誘いに、私たち二人は顔を見合わせて、ちょっと照れくさそうにハニカミ笑いをしていましたが、断る理由もなく、私たちは、先生に

「はい」

「いいですよ」

「引き受けますよ」

と、返答しました。

授業内容は、先生がテキストに沿って教鞭をとっていくのですが、単元ごとの『確認問題』と、『試験対策模擬問題』を進めて行く形をとっておりました。

前述のテキストによる教鞭は、学校の担当教師が受け持ち、後述の『確認問題』と『試験対策問題』については、生徒が行った後の『採点』と、『質疑応答』について、担任教師一名と、私たちお手伝い生徒二名で分かれて対応していました。

生徒の方は、比較的若い世代二十代の方が多かったので、私たちに対しても殆ど敬語でお話しされていました。

生徒の方の中には、私のことを学校の先生と勘違いされている方もおられましたが、学校のこと以外でも、質問さる方もおられましたので、たまに、世間話もしていました。

この学校で、仲良くなった方で、『福田』の『出納係』に勤務されていた方もおられました。

まあ、私もそうですが、お互い家庭持ちだったので、ただのお友達としてのお付き合いで、それ以上の発展は当然ありませんでしたが。

それはさておき、日商工簿二級は合格いたしまして、次の一級に進むこととなりました。

一級については前述いたしましたように、私の妻も取得しておりましたので、

「これは負けてはおられまい」

「夫の威厳に係るのでは」

と思い、一生懸命お勉強していたのですが、撃沈されました。

その後のお勉強をどうするかと言うところに差し掛かっていたのですが、上司の課長に相談したところ、

「ここで決めてしまうと次に進めなくなるかもしれない」

「やれるとこまでやってみよう」

と言う訳で、私、一級はおいといて、次のコース『税理士コース』へ進みました。

この時、私、ちらっとですが、税理士を目指してみました。

この頃から私、経営についても考えさせれるところがありまして、勉強を始めました。

いつの事だったか、私、経理課長へ意見したことがありまして、

「経理と言えば、会社の中枢」

「お金を扱うということは、会社の資源である、人、物、金の一つなので、会社経営に口出ししてもいいんじゃないですか」

と言うと、経理課長は、

「私は、会社と言うよりは、先代の社長に雇われているので何も言えない」

「先代の社長には大変お世話になっているので」

と返されました。

しかし、私、このようなことには何故か、あきらめが悪かったので、当時の二代目社長に意見具申しました。

この、二代目社長には私、現場にいたころから、よくゴルフに連れて行ってもらったり、飲食などにも同行させていただいており、とてもお世話になっていて、話しやすかったのもありました。

すると、二代目社長は、

「好村君の言うことは良く分かった」

「考えてみよう」

と言ってくださいました。

それからは、経理課長も経営に口を出してもらうようになりました。

この後、私は、新規事業『通信プロジェクト』を立ち上げることになりました。

本来であれば、私、本社に残りコントロール役となるはずだったのですが、社長交代も囁かれており、次期三代目社長は、先代のご長男と言うこともあり、会社の財務担当もされる予定とかで、経理課に私が残ったとしても、将来的に会社を見ていくのは、次期三代目社長となることは明白だし、これを機に、経理課を外れて、新規プロジェクトを見てほしいと言われ、私、新しもの好きなので、

「わかりました」

「お引き受けします」

と、二つ返事で決定。

この、プロジェクトにかかわったのが、もう一人の社員で「矢野」君でした。

この「矢野」君私の後輩にあたるのですが、私と同年代で、いつもつるんでゴルフに行ったり、飲食しに行ったりしておりました。

そのプロジェクトの現場となるのが、『インフラ整備』をしていくので、電線を架設したり、電話線・光ファイバーの架設にも一躍かっておりました。

このプロジェクトに参加していたのが、当時の『株式会社広島テクノス』でした。今は社名変更して『株式会社ネットリサーチ』となっております。

こちらの現社長である、「八雲」社長は、通信プロジェクトを行っていた時、一緒に現場で働いていました。

今では、ゴルフや、釣りといった、趣味で繋がっています。

プロジェクト開始後順調に進んでいたかと思いきや、一年ほど経った頃だったと記憶しているのですが、取引先の会社社長が、何と信仰宗教に入れあげていて、会社の資金を宗教団体へ突っ込んでしまい、手形が不渡りを出して、『倒産』

当時、当社からの売掛金もあったため、同僚の矢野君と資産回収に向かい、赤札を貼った記憶があります。

その時、相手方の態度にビックリ。

担当の取締役部長、私たちのすることを見て只々淡々としていて、自分たちが飛んだこともそっちのけで、それぞれの客先に渡すものを準備していました。

自分の事ではないのでそんなもんなのでしょうね。

このことをきっかけに、私の税理士へのお勉強も中断。

おまけに、プロジェクトも自然消滅。

でも、この時に一緒にプロジェクトに参加していただいていた旧『株式会社広島テクノス』は生き残り、無事『株式会社ネットリサーチ』へと転じました。

しかし、プロジェクトが終了した私たちは、バラバラになり、「矢野」君は転職。

私は、派遣部隊の『エンジニアグループ』に転属となりました。

転属先となった『エンジニアグループ』は、主に客先に出向いていくパターンで、出向や派遣部隊で、『品質管理・技術提供』を行っておりました。

ある出張先でのこと、私と、社員二人が協力して橋のメンテナンス工事に行っていた時の事でした。

『長崎県平戸市』に架かっている、『平戸大橋』で修繕工事の監督業務をしていたのですが、休憩場所と言えば、橋のたもとにあった、売店。

そこのおばちゃんといつもお喋りをしていました。

おばちゃんの旦那さんは、鉄塔の建設工事をされていたとかで、私たちと同じようにしょっちゅう出張に行っていたそうです。

その中でも長期出張工事になると、おばちゃんも出張先に呼んでもらって、一緒に観光したりしたそうでした。

そんなある日、いつものように売店で、お昼過ぎの休憩をしていた時でした。

何やら、聞き覚えのある声がしました。

「修ちゃん」

「お店の物、勝手に触ったらだめだよ」

「お土産買ってあげるから待って」

ふと、私が目をやると、何と、妻が元働いていた時の同僚で、北九州に住んでいる友人の、「中田」さんご家族でした。

私は目を見張り、

「あ」

「雪ちゃん」

「どうしたの」

「こんなところで会うなんて」

「奇遇だね」

色々聞いてみると、天気もいいし、連休で家族旅行とか。

でも、不思議なものですよね。

たまたま、出張で行っていて、数十分しか休憩していない時間に、しかも、たまたま車で訪れてきた友人にバッタリ会えるなんて。

そんな嬉しい出会いもありました。

出張工事は三カ月ほどかかったと思いますが、無事終了。

帰任しました。

この頃から、私、実を言いますと、会社をいくつも経営していた方と知り合っておりまして、この方、「飯田」さんは、妻が務めていた、『福田』紳士服売り場のお客様でもありました。

私、この時期、新しい飲食店の新規立ち上げをするので手伝ってほしいとの『オファー』を受けておりました。

最初は副業でお手伝いのつもりでやっていたのですが、飲食店だけではなく、色々な業種もあり、商材も沢山持たれていましたし、今だから言えるのですが、通信プロジェクトリーダーであった取締役常務とうまくいっていなかったのもあり、いつもの癖で、

「わかりました」

「転職してお手伝いします」

と、またまた二つ返事で決定しました。

これから、まさかの苦悩の日々がやってこようとは、夢にも思いませんでした。

とりあえず最初に在籍したのが、『堀江商事』何を担当したかと言えば、『経理』でした。

と、言うのも、この「飯田」会長、お金に執着があったものの、管理が殆ど出来ていなかったのが実情でした。

当の本人もよく自覚されており、そのこともあって、私に財務を託されました。

この『山田商事』何を業務とされていたかと言えば、主として不動産及び金融業。

この時の肩書は『取締役経理部長』

ある時は、不動産売り上げの金銭数千万円の受け取りに行く事もありました。

受け取りは、全て現金の授受。

金額を確認して、シルバーのアタッシュケースに入れ、封印して持ち帰りは日常茶飯事でした。

また、金融については、返済の督促もしておりました。

余りにも期限が過ぎている物件では、実際に本人を訪ねて行き、対面で折衝。ひどい時には、確保しておいて、「飯田」会長に電話で指示を仰いだり。

まさに『浪速金融道』

いつの間にか、目つきも鋭くなっていたようでした。

次に立ち上げて行ったのが、新規の会社。

『株式会社フレックス』という会社。

立ち上げ当初は私、『専務取締役』

職種は、その他、サービス業のような物。

つまりは『何でも屋』だったかな。

いくつかの会社組織を取りまとめて経営しておりました。

その会社と言えば、

『中国ラド工業』

『ニューオーエスライン』

この二つが建設業。

『楽天天国』

『シーズ・スルー』

『銀河丘陵クラブ』

この三つがスタンド。

『吉庵』

こちらが飲食店。

これら六社のマネージメントが主とする経営基盤。

これに、独自の商材『苔』を用いた、商品の開発・販売、こちらの主とする取引先は、『株式会社ツーリズム』との取引。

また、『苔庭』の施工もしておりました。

こちらで使用するのは、山形で自家農園として育てていただいた『苔』、『スナゴケ』・『スギゴケ』を使用していました。

こちらの苔は乾燥に強い苔で、普通に畑で育てることもできますし、施工後の管理方法も簡単で、手間のかからない商品として売り出していました。

その他には、

『中古自動車販売』

これに付随した、各種登録業務。

そして、保険に係るところで、

『自賠責』

『任意保険』

『損害保険』

等々取り扱っておりました。

私も、保険取り扱いの資格一級を取得し、実際の取り扱い業務もしておりました。

まあ、とにかく忙しい日々が続いておりました。

朝、七時には出勤して朝刊『日経新聞』に全国紙『読売新聞』・地方紙『中国新聞』を隅から隅まで熟読して経済の動向や、何か商材に繋がるものはないか、などチェック。

また、朝一で『スタンド』・『飲食店』の売り上げ確認。

こちらにおいては、日々の売り上げがすぐにお店の経営に影響を及ばすため、チェックは必須でした。

実はこの仕事、妻も巻き込んでの経営をしていたので、私の長男には気が届かず、義母にいつも叱られていました。

そんな忙しい毎日を過ごしていたのですが、一年ほど経ったときに、社長を務めていた、「山田」社長が辞任され、私が、『代表取締役社長』に選任されました。

『社長』と言っても、実権は『会長』が握っていたので、雇われ社長でした。

しかし、職位は『代表取締役社長』当然責任は全てついてきます。

企業における経営『資産管理』・『営業管理』・『人員管理』・『売上・利益』等々すべてを管理しなければなりません。

良い事と言えば、ただ『社長』と外部からは呼ばれるだけ。

経営者とは、実に孤独で、忍耐と、判断力が求められるものでした。

おまけに、社員の前では、いつも気丈に振る舞い、何があっても動ぜぬ姿を見せておりました。

よって、一旦仕事を離れると、精神的にストレスが溜まっていたのでしょう。何でもないときにふと気づくと涙を流していたこともありました。

一番大変だったのは、スタンド関連の経営でした。昼間の事務仕事が終わると、夜の経営状態の確認。

スタンドにお客様がどの程度来られているか。

お客様と、従業員の関係は上手くいっているか。

等々、全ての店舗を回らなければなりませんでした。

よって、家に帰ってもすぐに寝るだけの生活が続いていました。

そんな中、やはりスタンドの従業員は全て女の子だったので、社員との浮気沙汰や、トラブルも多少とは言えありました。

当時で言えば、飲食店街の元締めはやはり反社会的勢力の方々。でも、この方々とも、いい関係で進めなくてはなりませんでした。

また、女の子たちの世話をする方と言えば聞こえがいいのですが、声掛けをして引き抜き沙汰を起こされたことも、数知れずでした。

「はい」実際に私もトラブルに巻き込まれそうになったことも多々ありましたが、何とか回避できました。

相手は様々で、

「女の子」

「反社会的勢力」

「スカウトマン」・・・

一番迷惑をかけたのは、長男と、義理の母でした。

今では感謝しかありません。

また、昼の会社『フレックス』では、従業員が、男性八名・女性五名の構成でした。

ある日、『通信プロジェクト』を一緒に立ち上げた時の同僚「矢野」君が会社に訪れた時でした。

「社長いいですね」

「事務所も女の子がいっぱい居て」

「手を出したらだめですよ」

と、冗談半分に言っていました。

それもそのはず、女性の従業員は全て二十代で、未婚の方ばかりでした。

私の妻を除いては。

これらの会社全て立ち上げは自分たちで行いました。

「会社定款作成」

「事業者登録」

「保健所登録」

「社内規定の作成」

等々、申請書の作成から登録まで全て私が行いました。

大変と言うよりは、ワクワク感が半端なかったです。今、思えばどちらかと言うと「面白い」の一言に尽きました。

なので、今後新規事業を立ち上げるのであれば、これほど役立つことはなかったし、なかなかしようと思っても、できないことだったので、いい経験ができました。

また、事業の方ですが、最初の頃は資本金一千万もありましたし、運転資金として活用できており、何とか動かしていたのですが、売り上げも安定しなくなってくると経営状態が悪化していきました。

そうなってくると、銀行資金が必要になってくるのですが、銀行側もなかなか厳しく、事業計画を作成し、返済計画を立てて何度かお話をしに行きましたが、首を縦には降ってもらえなくなっていました。

このまま事業を続けていくと、社員にも迷惑を掛けるといけないので、ここは潮時と考えて、会社をたたむことにしました。

社員には、

「本当に迷惑を掛けてすまない」

という気持ちだけが残っています。

個人的にも殆ど限界が来ていました。

このことを察して、私を助けていただいたのが、仲人の「西元」さんでした。

「お前大丈夫か」

「全部話してみろ」

私はことの一部始終を話しました。

すると、「西元」さんは、

「そんなことだろうと思ってた」

「どうも最初から取締役常務であったり、そのあとすぐに社長になるなんて、おかしいを思ってたよ」

「すぐに、雇ってやるから、うちの『ムーンレントゲン』に来い」

と言っていただきました。

私も、行き詰まってどうしようもなかったところでしたので、首を縦に振りました。

「すみません」

「よろしくお願いします」・・・

その後、『ムーンレントゲン』では、課長職を頂き、現地出張工事に携わっていきました。

最初に行ったのが、『伊向原発』で、定期修繕工事の現場監督として従事。

こちらでは、定期修繕工事と言っても、色々な工事があり、その工事単位で、工事計画を立てて実施。

その中には、『職人の手配』『工事の説明・指示・監督』『工事収益管理』等々があり、なかなかのボリュームでした。

よって、勤務時間も朝八時から夕方は未定。

工事・業務の進捗次第でした。

次が、『福田第二原発』で、検査業務に携わっていました。

この時宿泊していたのが、『広山ドライブイン』が同時経営していた、宿泊施設でした。

この宿泊施設では、朝・晩の食事付きだったので大助かりでした。

でも、食べることしかすることがなく、ついつい食べすぎが続いていたので体重がヤバイことになっていました。なんと七十キロくらいだった体重が、八十キロ近くになっていました。

動くのもしんどいくらいでした。

そんな暮らしをしていたのですが、こちらのドライブインでは、アルバイトの女性が三人おられまして、年頃も二十代後半から、三十台くらいで、とても話しやすく、気軽に世間話をしていました。

皆さん多少たりとも色々な事情がおありのようでしたが、包み隠さず話していました。

そんな三人のうちの一人とメルアドを交換し、『メル友』としてメール交換をしていました。

その後、お盆休みが取れたので、一旦自宅へ帰りました。

その時の事、携帯電話ではなく、自宅のパソコンで『メル友』とメールのやり取りをしていました。

私としては、特に何も気にせず、メール交換をしていたつもりだったのですが、妻が、パソコンでのメールに気づき、中身を見て、

「何これ」

「私に隠して、女の子とメール交換して」

「携帯電話ならまだしも、自宅のパソコンでやり取りするなんて」

「私が、気づかないとでも思ったの」

「私だって、パソコンのメールくらいわかるわよ」

「馬鹿にしてるの」

と、ソファーに持っていたバッグを投げつけ、激怒しました。

私は、隠しているというつもりはなかったので、

「黙っていてごめん」

「隠すつもりもなかったし」

「ただのメル友だよ」

と言ったのですが、

「だったら何故初めから言ってくれなかったの」

「ずるいじゃん」

そんなやり取りだったのですが、お盆で帰省しなければならなかったので、車で家族三人で山口の実家に帰省しました。

それから、いざ、自宅に帰ろうかと言うときに、妻は、

「私たち息子と二人電車で帰るから」

「好村さんどうされるの」

言ってきました。

私は、ヤッベーまだ怒ってるわと思い、

「そんなこと言わずに一緒に帰ろうよ」

と言って、何とか一緒に自宅に帰っていただきました。

翌朝、私は出張現場に戻らなければならなかったので、新幹線と特急を乗り継ぎ戻っている途中、妻からメールで違う要件で依頼がありました。

と、言うのも、私も経理の仕事をしていたことから、個人事業主の方からの依頼を受けて、毎月の売り上げや、経費の管理。及び、年に一度の確定申告の作成等を行っておりました。

こちらでの工事は二カ月位続きました。

やれやれと思っていましたら、次の仕事も入ってきまして、次はそのまま、『女河原発』への出張検査工事でした。期間的には一カ月程度でしたが、終わるころにはすでに季節も変わり秋めいて、朝晩は寒いくらいでした。

出張工事もひと段落してきて、次に配属されたのが、入社当時お世話になった、『川本重工・広島製作所』でした。

検査に関しては、長年やってきていて、わかっていたので、スムーズにこなしていました。

その中でも一つの工場『川本重工プラント建設』の検査業務すべての対応でした。

こちらの工場では、私が以前『品質管理』の仕事をしていた時に入っていた工場だったので、皆さん知り合いの顔ぶれで、すごくやりやすかったです。

今だから言えることもありまして、検査業務すべて当時の『広島エックス線』に発注いただいていたので、照射室で行っていたエックス線撮影が溜まってきたときに、これでは夜の撮影専門部隊だけでは消化できないとの相談を受け、

「昼休みや、時間が空いた時でもいいので、撮影してもらえないか」

と言う依頼で、

「もし、撮影してもらえるのであれば、お金を払うので」

と言う相談が夜の撮影専門部隊からありました。

相手も困っていることだし、私も金銭的にも余裕ができるので、お手伝いをすることになりました。

代金は、撮影一枚に足して幾らと言う契約でした。

私も撮影には多少たりとも自信がありましたので、空いた時間で撮影しておりました。

多い時には月で二十万から三十万になることもありました。

当然、裏取引とは言え、所得税はちゃんとお支払いしましたし、住民税の上乗せにもきちんと対応しました。

その時のお金で、中古でしたが、車を買い替えることもできました。

そんなこんなで、私、仕事にはポリシーがありまして、仕事は段取り良く、先を見通して、今やっていることは当然しますが、次は何をしなければならないかを、常時考えておくことです。

なので、私、皆さんが仕事をされているスピードより二倍も三倍も速いと良くゆわれます。

でも、周りから見ると、

「あいついつも余裕があって、サボってる」

と、思われることも屡々あります。

まあ、私としては、やることはちゃんとやって、時間を有効に使えるのであれば、『それでいい』と思っています。

よく、私の父が言っていた言葉で、

「囲碁や将棋の世界と一緒で、人は常に大局に立ち、如何に何手先を読めるかで、勝つことができる」

と、言っていました。

私もその通りだと思っています。

私、もう一つの言葉で、「山本五十六」さんが言った言葉で、

「やってみせ」

「言って聞かせ」

「やらせてみて」

「褒めてやらねば人は動かぬ」

この二つの言葉を『座右の銘』にしております。

また、こちらの工場では、『放射線検査』以外にも、『磁粉探傷検査』・『浸透探傷検査』・『超音波検査』もやっており、私、一人でほとんどの検査をこなしていました。

やはり、この時の所長から言われたのが、

「あんたあ」

「仕事が早すぎるわ」

「あんたがここに居らんようになった時には、後の人が困るけえ、あんまり早うやらんといていや」

と言ってました。

でも、私、それが性分なので、検査の実働時間が終わって、時間が余るとついつい記録まで作ってしまってたので、時間を持て余すことが多かったです。

その頃の会社『広島エックス線株式会社』の業績も少しづつではありましたが、上向きに成長しておりました。

会社も五十周年を迎えようとしていた頃、時は、平成十七年の春の事、当社において、計画外被ばくの事象が発生しておりまして、報告から、調査・改善へとてんやわんやの大騒ぎをしていました。

そんなある日、会社トップの当時の会長が痺れを切らして、

「今のままでは埒が明かん」

「体制を強化しないとだめだ」

と、激怒され、

「好村を呼べ」

の一言で、私が本社に呼び戻されました。業務内容は、以前私が行っていた、『放射線管理』に合わせて、『トラブル処理』もありました。

課の人員は、私と、もう一人男性社員がついておりました。

当時私の前任者であった『放射線取扱主任者』は、配置換えとなり、派遣チームを作っていました。

その後、バタバタといろんなことが起きていたのですが、一年ほど経過したころだと記憶しているのですが、前任者であった、「国松」さんは、部下の社員数十人を連れて独立し、会社を設立したようでした。

最初の頃は放射線管理の関係でいろいろやり取りもあったので、連絡もしていたのですが、今では、風の噂で、設立時の社員は殆ど辞めてしまったとか。

長く会社勤めしていると、いろんなことがあるものです。

それはさておき、『トラブル処理』を毎日のように行っていたのですが、工業会の委員に戻ったのも、この時でした。

メンバーは多少変わってはいたものの、昔懐かしいメンバーからは、

「大変な時に呼び戻されたね」

「頑張ってください」

と、激励のお言葉をいただきました。

やはり、このようにお声がけいただくと嬉しいものです。

もっと、もっと、頑張ろうと言う気持ちになりました。

それからと言うもの、対策に追われる日々でした。

そんなある日の事、現場へ撮影で向かう人たちの機材を見て、三代目社長『現会長』が一言、

「この機材は社内では使用禁止のはず、直ぐに機材を取り替えなさい」

の、一言を受けて、社内には会長の言われるような機材は無かったため、直ぐに長崎の同業他社に連絡を取り、

「今から借りてきなさい」

とりあえず私は、長崎へ行く事に。

行ったはいいが、現物は出払っている状態で、サンプルをお借りして戻り、機材の作成見積もり依頼をいたしました。

その時、特急品と言われていたので、制作会社の見積もりを受け取り、社内稟議が降りるのを待たずに、即発注を掛けました。

そのことが、後から上司に分かって、

「君」

「社内のルールは守ってもらわないといけないよ」

と、言われ、

厳重注意をいただきました。

そんなこともありましたが、官庁や、客先に提出する報告書を作成して、まとめていくのも仕事の一つで、残業の日々でした。

しかし、時が解決してくれたのもありますが、無事、報告書の作成も完了し、官庁・客先への報告も終わった次第でした。

その後、何事もなく過ごせたと思いきや、二・三年経った頃でした。

今度は、情報漏洩が発覚。

社員が客先のデータを自宅に持ち帰り、自分のパソコンでデータ処理を行っていたが、そのパソコンの中にインストールしていた、ウイニーと言う、ファイル共有ソフトが不特定多数の、パソコンでウイニーを介して、情報が漏れてしまっていました。

こちらについても色々な対策を立てて行き何とか乗り越えました。

そうこうしていると、次は、社内からのタレコミで、報告書のミスが発覚。

このミスについても、過去のデータを引き出してチェックをしなければいけないことになりました。

今では、殆どのデータが電子化されパソコンを介してサーバー管理されていますが、当時のデータと言えば、『紙』ばかり。

過去5年分を引っ張り出してのてんやわんやの大騒ぎでした。

この時も、直ぐにこのトラブル対応をしておかないと、後を引きずってしまい、会社の存続に係る問題となるため、トラブル処理に携わった殆どの社員が毎日残業。

最初の頃は徹夜も数日続きました。

こちらのトラブルも何とか処理・回避できたわけです。

やれやれと思い、通常の業務をこなしていました。

が、しかし、世の中いろいろなことが起こるもので、今度は未曾有の事。

東日本大震災が発生。

当社営業所が仙台にあったこともあり、社員や家族には損害はなかったものの、客先に関しては装置の損壊等もありました。

また、仙台営業所には、許可施設もあり、地震・洪水の影響は少なからずともありました。

が、しかし、この危機も、社員一丸となって乗り越えることができました。

その後、経営もうまくいくようになり、業績も右肩上がりになってきました。

従業員も私が放射線管理を始めたもろからすると倍増し、四百人を超えるほどになっていました。

従業員が増えて売り上げも増えるのはありがたいことなのですが、何せ従業員の顔と名前が一致しなくなる現象が私の中で出てきております。

そんな中、当時の『古賀』社長の指揮で、一大イベント新社屋の建設がありました。

この時、当社には許可施設があったため、こちらの施設も新社屋の中に入れようと、言う意見から、私が設計を担当しました。

実は、私、この許可施設を設計するのは、旧本社の許可施設を始め、仙台、関西、そして今回の新社屋に合わせた本社施設の四つ目の施設でしたので、さほど時間もかかりませんでした。

ただ、この当時放射線に関する法令が見直され、放射線防護と言う考え方がありましたので、そちらの法令に合致するような施設にしないといけないと言うことが、プラスされていました。

やがて、新社屋は完成し、次のステップは、

『社名変更』に踏み切りました。

その裏には、旧社名時代『関東放射線株式会社』で起きた、数々のトラブルと言うイメージからの脱却もあったようでした。

『社名』及び『企業イメージ』等々は、社内募集ではなく、外注に出すことになりました。

やはり、流石専門業者、最初は、社員や取引先の方々からは、

「今までの方が呼びやすいな」

「ねえ、関東さん」

などと言われておりましたが、皆様呼びなれていただくと、

「いろいろ、お願いしますよ」

「ダイワさん」

などと言われるようになりました。

それから先、『順風満帆』に行くかと思いきや、何と十年年ぶりに、またまた、『計画外被ばく』の発生。

「ん」

「またか」

と、言う気持ちが脳裏を過りました。

「今度は一体何をしでかしたのか」

と現場の事情を聴くことに。

どうやら、作業員のミス『ヒューマンエラー』で、確認する事項をすっ飛ばしてやっちゃったみたいでした。

本人に計画外被ばくの自覚があったため、直ぐに官庁へ報告することに。

先ずは、第一報をFAXと電話で報告することに。

私は、状況をまとめてFAXし、官庁の担当者へ電話をしました。

すると、何と『担当官』は、私の顔見知りの方で、第一声は、

「あ」

「好村さん」

「お久しぶりです」

チョット私、怒られることを覚悟して電話したので、拍子抜けした部分もありました。

話しやすいのは良かったのですが、『担当官』もつい言いやすかったのでしょう。

時折口調がため口になっていました。

いくら、私が官庁の相手をするのが慣れているからと言っても、呼び出しされた時は、少し引きました。

何せ、こちらは私一人だけ。

官庁からは担当官を含めて、四人出てこられましたので、四対一、言われたい放題言われて会社に帰りました。

次に、官庁へ出向いて行ったのは、その後の報告時でした。

この時も、こちらは、私一人で対応。

官庁のお相手はやはり四人。

しかし、またまた偶然とういうか、出席された官庁の担当者四人のうち、三人は顔見知りの方々でした。

その担当官の一人に言われたのが、

「好村さん」

「またですか」

「十年ぶりですね」

「十年に一度は起こるんですね」

と、嫌みたっぷりに言われました。

反論もできずに私、

今度来るときは、必ず上司を連れて来ようと思いました。

と、言うことで、次の報告時には、私の上司も連れて行くことに成功しました。

その時の上司と言うのが現在の五代目社長の「山辺」社長でした。

それから幾度か、原因の洗い出しと、対応する対策を立てて、報告をしておりました。

やっと、落ち着いたのは、発生から一年ほど経過したころでした。

しかし、よく言われる諺で、

「歴史は繰り返される」

「未来を知りたければ、歴史を学べ」

と、あるように、何と、四年ほど経過した令和四年秋の事、またまた、計画外被ばくの発生。

私から言えば、

「またか」

「何で同じことを繰り返すのか」

「呆れて、言葉も出ない」

原因を良く調べてみると、四年前に起こったことと、全く同じではないか・・・

その通りで、官庁からも言われました。

「好村さん」

「またですか」

私は、返す言葉もなく、

「はい」

「すみません」

と、力なく答えました。

こちらの処理としては、何度も行っているので、後は、同じ対策は立てられない事。

再教育や、道具に頼るしかありませんでした。

それから、一年ほど経過したころ、やっとこちらの報告書も受け取って貰えました。

もう、私が勤務している間にこのようなことはないと思っております。

仕事の話は、これくらいにしておきます。

私の家庭のお話になりますが、結婚して、長男ができて、家族三人で過ごしてきた時間は、三十年ほどでした。

結婚してからは三十四年ほどになりましたが、この間も、順風満帆とはいかず、色々なことが家庭内でもありました。

時は、令和元年、私が六十一歳の五月のこと。

妻は、一年ほど前から体調を崩しており、不整出血を繰り返しておりました。

元々、妻は、婦人科が弱かったようで、生理にしてもとても酷くて、しょっちゅう寝込んでいました。

そんな中、妻は、気丈な性格だったのもあり、

「病院には行きたくない」

「死んでもいい」

などと言っておりましたが、周りの方の意見をようやく聞き入れ、勤務先の『広川キャピタル病院』の産婦人科を受診。

その結果、『子宮体癌』であることが判明しました。

本人もやっと納得し、手術日も決定。

そのころ、息子も三十歳になるし、息子の将来のためも考えて、マンションを購入しようかと言う話になり、資料を見たり、モデルルームを見に行ったりして、物件を見つけて、購入ることになりました。

そして、マンションへの引っ越しが、五月の連休で決定。

引越しをしたのは、五月の連休でした。

荷物は早めに入れていたのですが、私たち家族が入居したのは、五月六日でした。

その日は、家族と義理の妹及び友人で荷物を解き、片付けをして、何とか寝られるようにしました。

夕食も早めに済ませ、お風呂も済ませようと息子、妻の順番で入浴中、近くに住んでいる義母が訪ねてきて、

「引っ越し大変でしたね」

「お腹が空いたら食べてね」

と言って、お惣菜を持ってきてくれました。妻が入浴中だったので、私が対応しました。

その時、義母は、妻にも会わずに帰りました。

最後に私が入浴し、お風呂掃除も済ませ、次の日が仕事だったので、早めの夜十時には就寝。

翌朝の事、私はいつも通り四時には起床。

妻は体調がすぐれなかったので、休暇を取る予定だったので、私と、息子の二人分のお弁当を作り、私が早めの朝食をとっていた時、妻が四時半ごろ起きてきて、

「少しお腹が空いた」

と、言ってきたので、軽く、お茶漬けを作り食べさせました。

妻は、また、ベッドで横になり、息子は五時半ごろには仕事に出かけて行きました。

私は、家の事を済ませ、早めの出勤をするため六時半頃に家を出ようとベッドに横になっていた妻に、

「会社、行ってくるよ」

「何かあったら連絡してね」

と言うと、妻は、

「わかった」

「私は仕事休むので、同僚に連絡するからスマホ取って」

と言われ私は、スマホを手渡し、家を出ました。

いつも通り、会社についた私は、朝礼を済ませ、始業していました。

午前十時頃に私のスマホに妻から着信。

「たくちゃん」

「助けて」

「帰ってきて」

と、息も絶え絶えに、か細い声で言ってきました。

私は、直ぐに上司に連絡し、机の上もそのままにして速攻自宅に帰りました。

玄関を開けて部屋に入ると、妻は、苦しそうに、

「体温三十二度」

と、だけ伝えてきました。

私は直ぐにスマホを片手に、

「救急車呼ぶよ」

「搬送先は、広島病院にするよ」

と、伝えると、妻は声を振り絞って、

「お願い」

と、一言返してきました。

私は、直ぐに一一九番通報し、家の住所と、搬送先を依頼し、妻の容体を伝えていました。

「体温三十二度」

「発汗あり」

「呼吸が浅い」

「意識混濁」

私は、一旦電話を切り、妻と会話していました。

妻は、

「ベランダの窓が開いている」

「着替えさせて」

私は、窓を閉めて、着替えを探し、ベッドに横たわる妻を横に回しながら、着替えさせました。

その後、数分後だったと思いますが、救急隊が到着。

男性二名・女性一目のチーム編成でした。

到着するや否や、すぐに妻の横たわるベッドルームへ案内し、搬送。

玄関先で、救急隊の女性の方から、

「今から一階に降りて、準備しますので、身の回りの物と、保険証等準備して降りてきてください」

「慌てず、ゆっくりでいいので、お願いします」

と、言われました。

私は、妻の手術予定も決まっていたので、妻が既に入院の準備をして、キャリーバッグとビニールの手提げバッグに入れていたのを知っていたので、この二つを持って救急隊の元へ向かいました。

一階では、救急隊の方々は、救急車に乗り込み病院とのやり取りをしていました。

それから、五分くらい経ったでしょうか、ようやく出発。

私としては一分一秒でも早く病院に連れて行ってほしかったのですが、病院の受け入れ体制の確認もしておかないといけないし、もし、ここでたらい回しにでもなったら、それこそ命取りになるので、致し方ない状況でした。

救急車のベッドの上で、妻は最初仰向けに寝かされていたのですが、息苦しかったのか少し横向けに動いていました。

そうこうしている間にやっと、病院へ到着。

向かった先は、救急車専用の入り口で、救命救急。

処置を受けている間、私は待合で待つしかありませんでした。

待っている間に、看護師の方からの質問にお答えしておりました。

『既往歴』

『アレルギー』

『前日から当日の事』・・・

十分後くらいに救命救急のドクターが来られて、状況を説明されました。

ドクターが言われるには、

「足の末端でできた血栓が肺に飛び、肺塞栓症を引き起こし、血液が循環しなくなって、低酸素脳症となっていると思われ、MRI検査をして、措置としては、血栓を溶かす薬剤を投与します」

「今の状態は、非常に危険な状態です」

「意識がなく、戻るかどうかの瀬戸際です」

と、言われ、ドクターは救急救命に戻られました。

それから数分後、

「今からMRI行きます」

と、看護師さんから声を掛けられ、妻が救命救急からベッドに載せられて出てきました。

その時の光景が衝撃的でした。

ベッドに仰向けに載せられた妻の上に、ドクターが馬乗りになり、心臓マッサージをしながら出てきました。

MRIは同じ棟の三階にありましたので、エレベータにて搬送されていきました。

私は、看護師さんと一緒に三階の待合室に向かい、唯々待つだけ。

その時、やっとスマホを手に取り、息子に連絡。

しかし、息子も病院勤めで、携帯に電話しても通じないため、仕方なく勤務先へ電話して取り次いでもらいました。

息子が到着したのはそれから約一時間後でした。

息子と合流し、待合室で待っていると、看護師の方から、

「今、『ICU』に移られたところです」

「後ほど、先生からお話がありますので、このままお待ちください」

と言われ息子と状況を話しながら待っていました。

十分ほどしてから、看護師の方が声を掛けてくださり、

「どうぞ、お入りください」

と、『ICU』へ案内されました。

中へ入ると、右奥の方へ妻の姿がありました。

妻は、人工心肺を装着しており、体から管が一杯出ていました。

輸血のラインは、股関節の動脈からとってありましが、うまく入ってなったようで、多量の出血がありました。

その部分は、若い看護師の方が手で止血をされていました。

案内していただいた看護師の方から、

「近くに行って、声を掛けてあげてください」

と、言われ、ベッドに近づいた私は、妻の手を握り、

「頑張って」

と、声を掛けました。

自分では、もっと気の利いた言葉をかけられたらと思いながらも、言葉が見つかりませんでした。

と、その時、妻の手がビクッと痙攣し、持ち上がりました。

意識は全くないはずなのに、こんなことが起こるんだと、正直、身体の仕組みに驚きました。

その後、先生からお話があり、

「今のところ、血栓も無くなっているし、意識が戻ればいいのですが」

と、お話しされました。

「先生から何か聞いておくことはありますか」

と、言われたので、

「先生、どうして血栓ができたのでしょうか」

と、お尋ねすると、先生は、

「子宮体癌の可能性・太りすぎの可能性・新型コロナウィルスの可能性もありますが、はっきり言って分かりません」

とのことでした。

その後、先生から今後のお話があり、

「明日以降、心肺の『CT』と、脳の『MRI』をします」

「結果については、検査結果が出たらご連絡します」

とのことで、ひとまず息子と自宅に帰りました。

帰り際に、妻の友人でもあり、職場の上長から電話があり、

「たくちゃん」

「今、病院の『ICU』から電話貰った」

「一体チャコちゃんに何があったの」

「良く分からないけど、後で、『ICU』へ行ってみるね」

「たくちゃんも気をしっかり持ってね」

「私も、仕事時間開いたときは様子見に行くので」

と言ってくださいました。

その後、帰宅した私と息子は、義母と次女、そして単身していた長男に電話しました。

単身赴任していた長男は、

「直ぐに広島に帰るので、病院へ連れてって」

と言われ、直ぐに面会もできない旨を伝えたのですが、戻ってきました。

翌日、病院の方から電話が入り、

「検査結果が出たので、説明したい」

とのことで、午後病院へ行きました。

私は、病院の『ICU』で説明を受けたのですが、この時、驚愕の事実を聞かされることになりました。

先生からの説明。

「心肺の方は落ち着いていますね」

「問題は脳の方です」

「この『MRI』画像を見てください」

と言われて、私、一目で分かりました。

脳の外見は異常なさそうでしたが、脳内が白っぽくなっていました。

つまり、脳の機能が低下している状態を表していました。

私も、本社に席を移してからと言う物、ずっと衛生管理者の仕事をしていたのと、非破壊検査の中でも放射線検査が専門だったので、直ぐに気づきました。

そして、先生からの説明

「この画像の通り、脳の酸欠状態が長くなっていたようで、脳の殆どが機能していない状態です」

「恐らく意識が戻ることは無いでしょう」

しかし、私たち家族は、

「もしかしたら」

「きっと彼女だったらこのことを乗り越えて、奇跡を起こしてくれるかもしれない」

と思っていました。

その後、状態が少し安定してきたので、『ICU』から、一般病棟へ移ることになりました。

一般病棟に移ってからは、少し様態が改善したのか、意識は戻らないにしても、目や、口に反応がありました。

これも、皆様の回復への努力の結果だと思っておりました。

看護師の方の清拭、ベッド上での体の移動、

リハビリ担当の理学療法のおかげでした。

 また、数か月後、

「点滴ばかりでは、身体に良くないので」

と言われ、『胃瘻』の措置を受け、流動食を直接胃の中へ入れるようになりました。

その後、様子を見ながらの入院生活だったのですが、先生から相談を受けました。

と言うのも、妻が入院していた広島総合病院は、急性期の病院であったため、症状が回復せずに病状が安定している状態では、長く入院することはできません。

よって、転院を進められました。

転院に当たっては、地域連合の方とも相談して、『広島イエローヒル病院』へ転院することになりました。

季節はもう秋だったと思います。

それから入院生活が数カ月経過したころ、季節はもう冬。

新年を迎えていた頃、妻の不整出血、子宮体癌からの出血が酷くなり、輸血もどんどん増えていました。

その後、『広島イエローヒル病院』の担当医から相談があり、同じ系列の『広島シーヒル病院』への転院を進められました。

しかし、面会が増やしてもらえるのはうれしかったのですが、こちらの病院は、ホスピスが専門。

つまり、最後の時まで、もう何もせずに見守るだけ。

今思えば、妻にとってはその方が良かったのかもしれませんでしたが、家族・親族の意向としては、長男と、義理の妹は医療職についており、医療に携わっている以上は、やはり、

「何らかの措置を望む」

と言う形になりました。

月日は経ち、もう三月の声が聴こえてくる頃でした。

私の父の命日が三月三日でしたので、丁度十年祭を終えた時でした。

「もう十年か」

と親戚一同話していました。

バタバタと毎日を過ごしていた時でした。

三月七日、時間は夜の十一時頃でした。

私の携帯が鳴り響きました。

病院からの電話で、

「血圧が上がらず危険な状態です」

「直ぐに病院へ来てください」

私は、息子に声を掛け、二人で身支度を整え、直ぐに病院へ

病院へ着くやいなや、看護師の方は私たちを案内し、状況を伝えてくださいました。

「今は、昇圧剤と輸血で何とか持ち直しています」

「いつ、危険な状態になるか分かりませんが、今は小康状態です」

と言われた私たちは待機する場所もなく、一旦自宅に戻り、ひと眠りした時、再び電話が鳴りひびきました。

時間は、日をまたぎ夜中の二半時頃でした。

病院からの電話で、

「もう、脈拍が弱くなってきています」

「直ぐに病院へ来てください」

「何時ころ来られますか」

との、問いに、私は、

「直ぐに支度をして向かいます」

と、だけ言い残し電話を切りました。

とにかく直ぐに行かなくては、と、息子も起こして一緒に向かいました。

病院に着くと、妻は既に、病室で息を引き取っていました。

「ごめん、間に合わなかったね」

と言うと、息子は、

「かあさん、最後の顔は誰にも見せたくなかったんだよ」

と言っていました。

看護師さんが直ぐに先生を呼んで、死亡確認をされ、

「令和三年三月七日午前三時十五分ご臨終です」

その後は、看護師さんが、

「奥様の身支度をさせて頂きますので、葬儀屋に連絡してください」

「その後、お車が参りましたら霊安室の出口でお待ちください」

と、言われた私たちは手分けして電話を掛けました。

私は、妻が生前会員になっておりました、『玉大院』で葬儀をしようと決めておりましたので、電話を掛けました。

息子は、その間に親族への連絡をしておりました。

そのうち、霊柩車が来て、病院での最後のお別れ。

先生と、看護師さんに見送られて、妻は『玉大院』へ、私たち二人は、自車で向かいました。

その後は、『玉大院』で葬儀の段取り。

私も、会社では総務部に所属しておりましたし、父の葬儀等の経験もあり、事務的には慣れていたので、滞りなく進めることが出来ました。

一番悩んだのが、参列者でした。

妻は、生前、人付き合いが上手で、友達もたくさんいましたので、とりあえず連絡だけはと思い、電話で連絡を取りました。

すると、遠方の方々も、

「どうしても最後のお別れなので、葬儀に参列させてほしい」

と、おっしゃる方が多かったので、コロナ禍の出来事ではあったのですが、参列していただくことにしました。

通夜と葬儀合わせて百人余りの方々に参列頂きました。

妻も生前、皆で集まって賑やかなところが好きだったので、今思えば、思い切ってやってよかったと思っています。

参列された皆さん友達同士みたいなところもあり、お互い久しぶりに会われた方もおられまして、昔話に花が咲いていました。

葬儀も何とか終わり、やっと自宅に帰り神棚に妻の遺影を飾り、近しい親族だけでお参りしました。

これからの事、色々考えなければならないのですが、一番気になったのが、私たち家族二人よりも、義母でした。

義母は、大変子煩悩で、子供たち三人を溺愛しておられました。

妻が病気に倒れた時も、先に亡くなった時も、

「私が先に死にたかった」

「代われるものであれば、代わってやりたい」

「何故、私が後なの」

と、悲しみに暮れていました。

「お義母さん、御飯ですよ」

と、差し出しても全く箸もつけませんでした。

「このままでは、義母も倒れてしまうのでは」

と、息子とも話していました。

十日祭も無事終わり、少しづつ落ち着いてきた頃でした。

三月十七日の事、

義理の妹から電話があり、以前から入院していた、義父が後を追うようにこの世を去りました。

その後、もう一つのアンビリバボーな出来事がありました。

と、言うのも、私たち家族が以前住んでいた庚午の賃貸アパートの隣の部屋に住んでいた、「山田」さん家族。

いつも、家族ぐるみでお付き合いをしていましたので、妻が亡くなったことを知らせるため、やり取りしていた頃の年賀状をもとに連絡を取ってみました。

すると、何と「山田」さんのご主人が雪山で突然心筋梗塞を起こして亡くなっていたことを知らされました。

それも、また不思議なことに亡くなられたのは、妻と同じ三月のことと知らされました。

これも偶然なのでしょうが、心に刻まれる出来事でした。

そんなことが色々と起きていたのですが、私も、妻が病に倒れ入院したことを切欠に、趣味でしていた、

『バドミントン』

『ゴルフ』

『テニス』

をやめていました。

と、言うのも、入院費の事や、マンションの支払い、息子の大学院の学費等々、やりくりを考えるために全てを投げうっていました。

そんな時、妻がまだ入院中の令和二年の夏の事、私たち親子に声を掛けていただいた方がおられました。

「好村さん、船で大アジを釣りに行くのですが、一緒にどうですか」

その頃は、釣り中学生の頃からずっと遠ざかっていたので、釣り具も何もなかったのですが、

「釣り具は、全部レンタルできるから大丈夫ですよ」

と言われ、何十年ぶりかに遊漁船に乗り、釣りに出かけました。

その時声かけて頂いたのが、会社の釣り愛好家の「内山」さんでした。

その後も、会社の釣り愛好家の方々から、お声がけを頂き、どんどん釣りにはまっていきました。

ただ、釣りと言っても奥が深い。

知れば知るほどどんどん次を考えるようになっていきました。

しかし、釣りもお金がかかります。

考えながらしないと大事になりそうと考えている今日この頃です。







        第五巻

 恋・奇跡の出会い

さて、私、入社後二十七歳の時から放射線管理の仕事に従事しており、検査業界である工商会放安委の委員を歴任しました。

今までの出張と言えば、要件に合わせて移動していき、仕事が終われば直ぐに直帰。

まあ、普通ですけど。

時は、昨年令和四年年末のこと、年明けに組まれていた出張の準備をしておりました。

スケジュールの確認をしていた時、二月三日金曜日、工商会XWG会議のため、前日二月二日には東京へ移動。

翌週二月八日水曜日には、主任者定期講習の予定がありました。

この時点では、週明け月・火の予定がなく、

二月六日月曜日、根元社内パトロール、翌二月七日火曜日、河崎社内パトロールの予定を組みました。

と、なると、土・日を挟んでいるため、この余暇を過ごすいい方法はないかと思案しておりました。

この時、以前からお世話になっている、工商会事務局の「飯田」さんに聞いてみることを思いつき、直ぐに電話しました。

そこで、

「ん~」

「東京に住んでいるとなかなか行かないんだけど、『きじバスツアー』とか、『東京タワー』なんかいいって言う人がいるよ」

「このあたりがお勧めかな」

と勧められ、私、直ぐにスマホを取り出し検索しました。

『きじバスツアー』は参加したことないし、『東京タワー』も高校の修学旅行で、東京に行ったときに訪れて以来だったので、心を弾ませながら検索しておりました。

まず、最初は『きじバス』検索。

なんと、色々なツアーコースがありました。

『コロナ禍』と言うこともあり、予定があっても実際は運営されていないツアーコースもありましたが、その中でも、一番の決め手は、

行ったことのない場所。

次は、日帰りコース。

その次は、価格帯。

そこで浮上してきたのが、

『鎌田~江の山遊覧』というコース。

運行日も土・日運行のみ。

「うん」

「先ずはこれ」

と思い、直ぐスマホに登録。

次に検索していたのが、『東京タワー』

「ん~」

「懐かし~」

の思いを抱きながら検索。

実は、この土・日を利用して行きたかった場所がもう一軒。

私の趣味としている『釣り』関連で、息子と協議していて、時期も『冬』なので、『ワカサギ釣り』がしたい。

で、いろいろ調べてみると、どうやら私の住んでいる『広島』を含めた中国地方ではメジャーではなく、

場所も限られている。

『タックル』も売っていない。

『仕掛け』も殆どない状態。

と、言う訳で、検索していると、以前私が利用したことのある、通販もしている『釣具のキャスター・青山店』を見つけました。

よって、この、三つの組み合わせを考えて決断。

二月四日土曜日『はとバスツアー』で『鎌倉~江の島遊覧』

二月五日日曜日『釣具のキャスティング』にて、釣りの情報収集と、タックル・仕掛けの相談。帰りに秋葉原で壊れた『キーボード』の購入。及び、帰りに時間があれば『東京タワー』そして、溜まった洗濯ものをホテルで洗濯。

と、言うスケジュールを組みました。

二月三日『工商会・XWG』委員会終了後、時間があったので、東京駅で『きじバスツアー』の下見。

私、出張等で出掛ける時は、いつも時間の許す限り『所要時間・場所』の確認をすることにしております。

そして、当日、待ちに待った初『きじバスツアー』出発時間が八時二十分でしたので、三十分前には着くようにホテルを出発。

東京駅丸の内南口改札を抜けると、そこには、『きじバス』乗り場の案内が掲げてありましたので、案内の矢印に沿って進むことに。

東京駅構内を抜けると、左に曲がる。

するとすぐに乗り場があり、黄色くて可愛いバスが停まっていました。

私は、はやる心を抑えながら、まだ集合時間までには早すぎたので、少し手間への休憩所で、いつも飲んでいる『ジョージア・ブラック缶コーヒー』を買ってベンチに座り、飲みながら休憩していました。

やがて、出発の二十分前になると、乗車のアナウンスが流れ、

「お待たせいたしました」

「出発のご案内をさせて頂きます」

「八時二十分発、『鎌倉~江の島遊覧』ツアーにご参加のお客様は、バス乗り場五番乗り場までお越しください」

休憩所から出て、五番乗り場へ向かうと、既に数人の方が乗車の手続きをされておられました。

案内されていたのは、

『運転手』

『ツアー案内係の男性職員』

『バスガイド』

の、計三名でした。

その内のツアー案内係の男性職員さんがメインでツアー参加者リストの表示されているタブレット片手に、

『身分証明書』

『ツアー参加申し込み時のQRコード』

『新型コロナウイルス・ワクチン接種証明(三回以上の接種証明) 』

の確認をされておられました。

確認が終わると、指定された座席番号が書かれた書面を渡され、座席に向かいました。

私の指定された座席番号は1C。

『右舷』

『最前列』

『通路側』

今思えば、

『特等席』

運転席の後ろでしたが、『バスガイド』さんの右斜め後方、いつも見渡していました。

カバンの中には、予定表や必需品が入っているそうです。

後で調べたことですが。

そして、持ち歩いておられたノートには付箋が一杯貼ってありました。

「一生懸命お勉強されているのだな」

と、思っていました。

また、運転手さんが、サブシートの出し方や、シートベルトの位置等詳細をガイドさんへ細かく指示されておられました。

それを見て私、このガイドさんまだ新人なのかなと思いました。

やがてバスは私たちツアー客と、それぞれの夢を乗せて出発。

向かったのは、東京湾岸を通り、臨海工業地帯を抜けて鎌倉へ。

出発するとすぐにガイドさんから乗務員の紹介。

「本日ご一緒させていただくのは、運転手の『山本秀幸』と私『神田愛実』がご案内させていただきます」

そして、本日の行動予定を紹介。

出発すると否や、湾岸へ向かい、首都高へ入りました。

その間も、ガイドさんの詳細で、乗客を思いやった言葉、そして、変化していく車窓に合わせたご案内をいただきました。

そして、鎌倉へ到着。

神社・仏閣を回り、商店街の散策へ出かけました。

その時、私は庭園の中で、初老の男性の方が梅の木を見上げて写真を撮っておられた姿を見掛けました。

その風景を見て、私も近寄ってみると、梅の木に偶然にも止まっていた、『鶯』を発見。

直ぐにスマホを取り出し、撮影開始。

後は、『鶯』写真に収めようと必死でその姿を追いながら、スマホを翳し、画面を確認しながら撮影の繰り返し。

やはり、動いている被写体を追うのは大変でしたが、何とか撮影成功。

でも、後から思えば、静止画ではなく、動画にしておけば後で加工できたのに。と、後から反省。

おまけに、鶯の鳴き声も収録できたことを悔やんでおります。

そして私は、駐車場に停車していたバスの元へ戻りました。

バスへ戻ってみるとガイドさんがバスの外で私たち乗客が戻るのを待っておられました。

私は、今年初の『梅に鶯』を見せようと、ガイドさんに話しかけ、

「ねえ」

「見てみて」

「庭園に鶯がいたよ」

と、撮影した写真を見せました。

すると、ガイドさんは、

「ほんとだ」

「良かったですね」

と、言ってくださいました。

その後、バスに乗客が戻るのを確認して、バスは、昼食場所である、鎌倉の『御代川』へ向けて出発。

到着後、店内へ入り指定された場所へ向かいました。一人旅は私だけかなと思っていまししたら、あとお二人おられまして、私たち一人旅の三人は店内入口近くの左側の一つのテーブルに相席の形で着席。

他のお客様は、私たちのテーブルから奥の席へと座っておられました。

「ん」

「バスの乗務員の方はどうされるのだろう」

「何を食べられるのかな」

と思って、少し、周りに目を配りながら食事を始めておりました。

コロナ禍と言うこともあり、皆様、当然マスク姿。

やはり、私も皆さんの『素顔』『表情』は気になりますので、キョロキョロしていました。

そして、乗務員さんが着席されたのは、一番奥のテーブルだったのですが、やはりどうしても気になるので、目を向けていると、昼食に関してはどうやら乗客の食事と同様なメニューを頂いておられたようでした。

そして、私の視線は、マスクなしの素顔のガイドさんの元へと降り注がれました。

この時の第一印象は、マスク姿から想像していた素顔のイメージからすると、正直、

「可愛いけど、そう思うほどでもないな」

と言う印象でした。

でも、客観的に他の目線から見れば、逆に私の事を考察すれば、

「お前ごときに言われたくないわ」

だと思います。

さて、食事は終わり、バスは鎌田の大仏様から長谷観音への観光コースへ向かうための駐車場に停車。

私たちは、時間の許す限りの観光・散策へ向かいました。

観光・散策を終えた私は、時間を持て余しておりましたが、他の乗客より一足早くバスへ戻りました。

何気なくバスの方へ視線を向けると、ガイドさんがバスの外で、私たちの帰りを待っておられました。

私は、ガイドさんの元へ近寄ると、ガイドさんとお話を始めました。

そして、ガイドさんに、

「写真、いいですか」

と、聞くと、ガイドさんは

「はい」

「いいですよ」

と、お返答され、続いて

「どんな写真がいいですか」

と、マスクに手を掛けられたので、

「え、マスクとってもらえるのかな」

と、思ってドギマギしていると、次は、

「めっちゃ近いやつですかね」

と、私の右隣まで近づいてこられ、スマホに向かってピースサインをくださいました。

「やったー」

「思い出にしよ」

と言い残し、一人バスに向かいました。

と、その時、何故か背中に視線を感じ、重量感を感じていました。

その、『重量感』・『重圧感』たるや、今までに感じたことのない重さでした。

まるで、私にこの後あのような事が起きることを暗示させるかのようでした。

その後、バスは湘南海岸を通り、最終目的地の江の島へ向かいました。

道中、乗客を退屈させないように『源氏』のお話しや、江の山名物『とびっちょのコロッケ』のをしておられました。

「コロッケは時々食べに行きますよ」

「コロッケの中でもいろいろあって、チャウダーコロッケが一番好きです」

と、言っておられました。

江の島では、頂上まで登る時間がないとのことでしたので、私は、下段の『江島神社』でお参りをして、またまた、一足先にバスへ向かいました。

途中、出店が並んでいて、『コロッケ』を販売しておりましたので、ガイドさんのお話しされていた、『クラムチャウダー』と『ミート』を買ってバスに戻りました。

この時、『コロッケ』を買おうと思ったのは、

「ガイドさんと一緒にコロッケ食べたいな」と、言う気持ちがありました。

バスに戻ると、バスの外でガイドさんが私たちの戻るのを待っておられました。

私は、出来立てアツアツのコロッケを二個持ってガイドさんの元へ近寄り、

「コロッケ、二個買っちゃったので、一人じゃ食べきれないし、一個食べませんか」

とお聞きすると、

「何を買われたんですか」

と尋ねられ、私は、

「チャウダーコロッケと、しらすブラックコロッケだよ」

と、答えると、ガイドさんは、

「じゃあ」

「チャウダーコロッケ」にします」

と言われましたので、私は、

「多分、こっちだよ」

「間違ってたらごめんね」

と、『チャウダーコロッケ』と思われる方を差し上げました。

私は、

「よし」

「予想通り」

と、自己満足の世界へ浸っていました。

やがて、乗客の皆様がバスに戻ってこられましたので、最後の点呼。

ガイドさんは指定の場所に着席された乗客の確認をするため最前列から『指差呼称』を始められました。

この時も、私は最前列でしたので、一番にガイドさんと目が合って、『ニコリ』とされて、後部座席の方へ向かわれました。

「本当に良く気配りのできる方だな」

と、感心しておりました。

バスは一路東京駅を目指して出発。夕刻でもあるため、多少の渋滞もありましたが、そのあたりもさすがにガイドさん。

乗客の方が退屈しないよう、『源氏』のおはなしをされておられました。

やがて、バスは東京駅周辺へ。

ガイドさんは、ここで、

「歌を披露させていただきます」

と、『東京のバスガール』を唄ってくださいました。

そして、バスが、東京駅丸の内南口に近づくと、駅前のロータリーで、二組のカップルがウエディング姿で写真を撮影されておられました。

私は、それを見つけると、前撮りかなと思い、ガイドさんに、

「ほら」

「あそこ見て」

「ウエディングの写真撮ってるよ」

と、言うと、ガイドさんは

「あ、ほんとだ」

「フォトウエディングかな」

と、おっしゃいました。

そして、バスは停車位置へ停車。

「お疲れ様でした」

「本日はご乗車いただきありがとうございました」

「ご自宅までどうぞ、お気を付けてお帰りください」

と挨拶され、乗客はそれぞれに荷物をまとめて、下車していきました。

乗務員の方は先にバスを降りて、お見送り。

私は、最前列でしたので、早々にバスを降りて、

「今日は、ありがとう」

「お世話になりました」

と挨拶して、バスを後にして、少し離れた場所で、手に持っていたコートを羽織って帰ろうとしていた時、後方から、

「コロッケ」

「めっちゃおいしかったです」

と、ガイドさんに声を掛けていただきました。

私は、はっと思い、振り返ってはみたものの、後ろ髪を引かれる思いを振り切りながら、その後の挨拶もせず足早に立ち去りました。

この出会い、世界人口から考えても『七十二億分の一』であり、彼女との出会いは、宇宙天文学的数字。

『きじバス』のバスガイドさんは数百名余り、ツアーコースも何十種類もあり、その中で、ひとつの出会いが生まれることは本当に『奇跡』だと思いました。

出会いは、『一期一会』そのものであり、この出会いが、私の今後の『人生』『生き方』を大きく変えていくことになろうとは、考えてもみませんでした。


第五巻へ続く


私も社会人になり、いろいろな経験をさせていただきました。

恋愛・結婚・妻の出産・育児。

様々な出来事を乗り越えてきたつもりでしたが。

しかし、良いこともあれば悪いこともありました。

人生順風満帆とはいかないようで・・・

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