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「魅了の魔術?」
ベティーナが差し出した本は百年以上昔の時事をまとめた本だった。世にも珍しい魅了という魔術を操る女性が多くの男性を虜にし、様々な事件を引き起こした。結局彼女は魔術院の魔術師によって生涯幽閉になったらしい。
「さらっと書いてあるだけでよくわからないな。特定の人物に強い恋情を抱くという点では似ている、しかしこの文には多くの男性を虜にした、と書いてある。ヘロイーゼは僕限定だ、いや、他にもいるかもしれないけれど……」
「術をかけるにはリアクションが必要ですよね、ヘロイーゼ様にそう言う様子は?」
ただ魔力を流すだけでなく、なにがしかの術を使うためにはそのための動作と言うものが必要だ。たとえば火の魔術で火球を出したいときには手を前に突き出して「ファイヤーボール」と唱えるように。
「いや、そんな素振りをすれば気が付くはずだ……待てよ……」
「何か怪しい点が?」
「そうじゃないが、この魅了の魔術の事だ、王宮の禁書庫に詳しい事が書いてある本があるかもしれない」
アーベルが禁書庫の本を調べてくるという事でその日はお開きになった。帰り際、アーベルがベティーナに声を掛けた。
「あ、そうだ、僕たちは恋人同士になったんだ、アーベル王太子殿下という呼び方も変更しないか? もっと……親し気な」
「アーベル殿下?」
「もう一声」
「アーベル様?」
「うーん……」
「ベル様……とか?」
「それだ! よろしくね、ベティ」
呼び慣れない甘々な愛称にドギマギするベティーナを尻目にアーベルは上機嫌で去って行った。
ーー♦♦♦ーー
学院内にアーベルとベティーナの噂が広まっていった。
アーベルの不貞を嘆く者、ヘロイーゼに同情を寄せる者、ベティーナはあざとい悪女だと敵視する者、そしてアーベルとベティーナは〝真実の愛〟で結ばれた恋人同士だと言う者。巷で流行っている小説の効果もあって(見た目だけは)可愛らしく庇護欲をそそる男爵令嬢と眉目秀麗な王太子の恋にロマンスを夢見る者も一定数いた。
〝真実の愛〟を装っているアーベルは今や公然とヘロイーゼを遠ざけた。そうして見せつけるようにベティーナと行動を共にした。
その日、いつもの図書室奥の部屋に、人目を避けてベティーナが入ってくるとアーベルが目を輝かせて話しかけてきた。
「糸口がつかめたと思うんだ!」
〝魅了薬〟
その存在をアーベルは禁書庫の本で初めて知った。百年前に捉えられた魅了の魔術を使う女性、魔術院に幽閉になった女性はその魔術を研究され、そうして密かに〝魅了薬〟と言うものが作られた。その薬に魔力を流してから相手に飲ませると魔力を流した人物に段々好意を抱いていくのである。
魔法薬や魔道具は魔術を元に作られるものが多い。火の魔術で火球を作れる者は火の属性を持った者である。高度な魔術になると修練や才能も必要だ。その魔術を魔方式や魔方陣に変換して誰でも、たとえその属性を持っていない者でも同じような効果を得られるようにしたものが魔道具であり、主に治癒系の魔術から作り出されたものが魔法薬となる。
ベティーナの父親は魔道具を作る才能に特化しており、数年前に水の魔術、氷の魔術から中のものを長時間冷やしたり凍らせたりできる〝冷却箱〟という魔道具を開発した。これによって遠方の生鮮品を輸送できるようになった功績を湛えられて叙爵されたのである。
男爵となったベティーナの父は魔術院の一員となり、端っこの研究室を与えられて嬉々として日々魔道具開発に勤しんでいる。
以前はものになる魔道具ばかりでなく費用をかけたのに使い道のない失敗作なども多くかつかつの生活を送っていたベティーナ一家は王都でも名だたる魔術院のお給料でやっと安定した生活を送れるようになったのだった。
「アーベル王太……ベル様の言う通り〝魅了薬〟が一番しっくりきそうですね」
「ああ。ヘロイーゼが世にも稀な魅了の魔術の使い手だというよりも〝魅了薬〟を使用したという方が納得できる。考えてみると何度か君に解術してもらった時は、その前にヘロイーゼと昼食やお茶を共にしていた。隙をついて僕の食事やお茶に薬を盛っていたのだろう」
「それにしてもその〝魅了薬〟? 私は見たことも聞いたこともありません」
「それはそうだ、八十年も前に禁止薬物とされ、製法ごと根絶された魔法薬なんだからな」
「よくそんなものが手に入りましたねえ」
「それがな、八十年前に起こった事件なんだが」
八十年前、先先先先王の時代である。時の第一王子、王太子がとある侯爵家の令息と結婚間近の、伯爵家の令嬢に横恋慕した。その二人は相思相愛であったが、諦めきれない王太子は密かに魔術院で開発された〝魅了薬〟を手に入れた。それを使って伯爵令嬢を振り向かせ、婚約を解消させて自分のものにしようとしたが、こちらも諦められない侯爵令息と揉めた挙句、焦った王太子は〝魅了薬〟を伯爵令嬢に大量投与してしまい、伯爵令嬢は廃人になってしまった。その姿を嘆き悲しんだ侯爵令息は自ら命を絶った。
これによって危険な〝魅了薬〟は禁止薬物となり、製法ごと全て根絶された。しかし事件は緘口令が敷かれ無かったことになり、伯爵令嬢はその領地で病気療養という名の幽閉、侯爵令息は病死と発表された。第一王子は王太子を弟に譲り、当時の宰相家に婿入りした。
「その宰相家というのがプランゲ侯爵家、第一王子が婿入りしたときに公爵家に陞爵された」
「第一王子様はお咎めが無かったんですか?」
事件の顛末に不満が残ってベティーナが聞くとアーベルは苦笑した。
「王家は醜聞を隠したかったようだな、恥ずべきことだけど。伯爵令嬢と侯爵令息の家には内密に多大な慰謝料を払ったらしい。そんな事は本には書いてなかったけどね、調べてみたらその当時不自然に領地や鉱山を下賜された家があったよ。事件が無かったことになったので第一王子が婿入りした家は陞爵しなければならなかったのだろう」
「なんかしっくりしませんけど大昔の事ですね」
ベティーナはパンと一つ手を打って気分を切り替えた。
「肝心なのは今の事ですね、第一王子様は禁止された筈の〝魅了薬〟を密かに持っていた、それは子孫に受け継がれ、そしてプランゲ公爵様の指示でヘロイーゼ様がその薬を使った、という事ですね」
「多分そうだろう。もっともかなり古い薬だからな、そのまま使ったというよりは製法が残っていたのか、分析したのか新たに〝魅了薬〟を作ったのだと思うが」
「どうにかしてその証拠をつかむことが出来ればいいんですけど」
「そうだな、ただし焦ってはダメだ、今回の事はプランゲ公爵家ぐるみの陰謀だろう。ヘロイーゼの独断でないという事はどこにプランゲ公爵家の息がかかっているものが紛れているかわからない。まずは信用できる味方を増やしたいな」
ベティーナはコクコクと頷くが心配そうな顔だ。
「ベティ、噂の事で君に不愉快な事を言ってきたり嫌な思いをするかもしれない、申し訳ないがもう少し耐えてくれ、まずは僕の側近のギュンターを引き込もうと思う。奴が味方になってくれれば大分動きやすくなるからな」
「私は大丈夫です。アーベル王太……ベル様も気を付けてくださいね」
「警戒する対象がはっきりしただけでも大分楽になったよ。ヘロイーゼの近くで飲食をしないように注意すればいいんだから」
アーベルはベティーナを安心させるように微笑んだ。
ーー♦♦♦ーー
ギュンターを仲間に引き入れる機会は直ぐに訪れた。
次の日、アーベルがベティーナと中庭のガゼボで昼食をとっているとギュンターが突進してきたのだ。
ギュンターは異様なほど熱烈にヘロイーゼを褒めたたえ、そんなヘロイーゼを蔑ろにしていると鬼気迫る勢いでアーベルを責め立てた。
「これは……僕でもわかる。……かかっているな」
「……ですね」
アーベルとベティーナは顔を見合わせて頷きあう。
ギュンターが魅了の術にかかっていることはかえって好都合だった。ギュンターが完全なる好意で、または王太子の側近としての義務感でアーベルに忠告してきたときは〝魅了薬〟などという見たことも聞いたこともないものの話をしても信じてもらうことは難しい。場合によってはアーベルの気が触れたか、ベティーナに誑かされたと心配して〝魅了薬〟の事をヘロイーゼに話してしまうかもしれない。
しかし実際に術にかかっていればベティーナが解術すればいいのである。
解術したときの、心が自由になった時の感覚、感情が自分のものだと信じられる開放感をアーベルは身をもって知っていた。この感覚を体験したならばギュンターはアーベルの話を真剣に受け止めてくれるだろう。
有無を言わさずギュンターを中庭の奥、人目のない場所に引っ張り込んだ。そしてベティーナがすかさず解術をした。
何が起こったのか茫然としているギュンターを尻目にアーベルがベティーナに問いかける。
「ベティ、三分も手を握り合わないと解術出来ないのか?」
「え? どうでしょう? ぎゅっと抱きつけばもう少し早く出来るかもしれません」
「……いや……いい……手で……やってくれ」
憮然とした表情のアーベルにやっと我に返ったギュンターが問いかけた。
「アーベル、俺の身に何が起こったんだ? 今、とても不思議な感覚がしたんだ」
ーー♦♦♦ーー
二か月が経過した。
いつもの図書館奥の部屋にアーベルとギュンターが集まっている。
ギュンターを突破口に信頼できる味方が若干増えた。危惧した通りアーベルの住む王太子宮にもプランゲ公爵の息のかかった者が数名勤めていた。追い出してしまってはこちらが怪しんでいることがバレてしまうので大事な話をするときにはさりげなく遠ざけるようにしている。
アーベルの奥底に蓄積していた〝魅了薬〟を全て取り除くことは終了したが、ヘロイーゼがそれを使っていた証拠をつかむことは難航している。プランゲ公爵家のガードが固いのだ。アーベルはヘロイーゼと仲睦まじく過ごしていた時に数回プランゲ公爵邸を訪れた事があるが、通されるのはいつも同じ応接室と庭の一角だけ、そして今思えば、必要以上に監視の目が厳しかったような気がする。その時はヘロイーゼしか目に入っていなかったので勝手に動き回るつもりもなかったのだが。
プランゲ公爵家の使用人も口が堅く、そちらからも情報は得られなかった。
ちなみにアーベルの完全解術までは三か月かかったが、ギュンターは一週間ほどだった。ヘロイーゼは、アーベルがヘロイーゼを遠ざけ始めてからギュンターに薬を使い始めたので蓄積が少なかったのである。
しかしベティーナに解術してもらった一週間、ギュンターは毎日針の筵に座っているようだった。
なにしろアーベルの顔が怖いのだ。ベティーナがギュンターの両手を握って魔力を流している間、ずっと至近距離でギュンターを睨んでいるのである。ベティーナは俯いて集中しているのでわからないだろうが。
控えめなノックの音がしてベティーナがそっと部屋に入ってきた。
「遅くなって申し訳ありません」
「ベティ!!」
「ベティーナ嬢!」
アーベルとギュンターが驚きの声を上げる。
それもその筈、ベティーナの頬は腫れ、手には包帯を巻いていた。制服もところどころ汚れているようである。
「あはは、ちょっと転んじゃったんです」
何でもないようにベティーナは笑ったが、アーベルは厳しい声で聞いた。
「誰にやられた?」
「大したことはないんでーー」
「ベティ、隠さないで言ってくれ、ヘロイーゼか? その取り巻きか? 隠されると対処が遅れる」
ベティーナは一瞬逡巡した後告白した。
「ヘロイーゼ様といつも一緒に居るご令嬢方です」
「彼女たちも術にかかっているのか?」
「いいえ、頬を張られた時に触れましたけどかかってはいませんでした」
「そうか……ヘロイーゼに頼まれたのが勝手にやったのかはわからないが、彼女たちは自分の意志で君に暴力を振るったんだな」
アーベルの目が光ったような気がした。
アーベルの目に宿る物騒な光に気づいたベティーナは真っ直ぐアーベルを見た。
「今回はちょっと油断してやられちゃいましたけど私なら大丈夫です。あまり事を荒立てないでいただけますか?」
「しかし実際に君は怪我をしている」
「私、クラスに味方が多いんですよ、いつもは必ず数人のクラスメイトが一緒に行動してくれるんです。長い休み時間や昼食時、放課後はベル様やギュンター様がいつも一緒に居てくれるでしょう、だから大丈夫です」
三年生の間ではベティーナの評判はすこぶる悪い。王太子であるアーベルを表だって非難できない分までベティーナの悪評になっていた。アーベルはそのことに心を痛めていたが、今更この偽装を止めるわけにもいかなかった。しかし一年生の、とりわけベティーナと同じクラスの者たちはベティーナに好意的なようでアーベルは少し安堵した。
ベティーナは成績は常に学年のトップクラスである上に親切、そして明るくさっぱりした気性で、勉強のわからないところを教えたり、困っている人がいるとさりげなく手を差し伸べたりしていつしかクラスの人気者になっていた。アーベルのおかげか所作も見る見るうちに綺麗になり、平民から成り上がりの男爵令嬢と揶揄する者はクラスにはいなかった。下級貴族ばかりのクラスだから、というのもあるが。
「どうして君を傷つけた者たちを庇うんだ?」
ベティーナを傷つけられたアーベルは納得できず、眉間に皺が寄る。
「いいえ、彼女たちを庇うつもりはありません。ただ、今はプランゲ公爵家の悪事を探っている大事な時でしょう、いらぬ騒ぎを起こして相手に警戒されたくないんです」
そう言ってベティーナはごそごそといつぞや見せてくれた本を取り出した。『意地悪なご令嬢には負けません、平民だけど王子様との〝真実の愛〟を貫いてみせます! 忍耐編』と書いてある。
「ヒロインは〝真実の愛〟を貫くために意地悪な御令嬢達からの苛めに耐えて耐えて耐え抜くのです!」
「……君はそれでいいのか?」
「大丈夫です! 実際そんな機会は少ないですし、それにやられた分は後できっちり仕返しさせていただきますから」
明るい雰囲気でそう言うベティーナに対しアーベルは「……そうか」と不承不承頷いた。
「アーベル、それはそうとこれから先どうする?」
ギュンターが立ったままの二人に椅子に座るよう促しながら聞いてくる。
〝魅了薬〟の証拠はまだつかめないが、いつまでも逃げ回っているわけにはいかない。
「俺たちだけで調べるのはこれ以上は無理だ」
ギュンターがいう事はもっともだ、それにヘロイーゼから逃げ回っていても学園を卒業したら結婚しなければならないのだ。
「国王陛下には打ち明けないのか?」
ギュンターの問いかけにアーベルは頷いた。
「僕もそれを考えていたんだ」