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新連載です。六話完結、よろしくお願いいたします。
「ヘロイーゼ・プランゲ公爵令嬢! 私は令嬢との婚約を破棄することを宣言する!!」
王家主催の秋の大夜会の最中、王太子であるアーベルの言葉が人々が歓談する雅やかなホールに響き渡った。楽団は演奏を止め、雑談をしていた紳士淑女は一斉に口を噤み、その声の発生源である王太子を注視した。少しウエーブがかかった柔らかそうな金髪、夏の空の瞳にスッと通った鼻筋の美丈夫、眉目秀麗だと人々が称賛する王太子アーベルは、今その美しい顔を醜く歪めながらホールの人々を睥睨していた。人々の注目を集めたアーベルは尊大な様子でホールの中央に進み出る。その傍に手首に包帯を巻いたピンクのフワフワ髪の可愛らしい容姿の令嬢を従えて。
「ヘロイーゼ・ブランゲ公爵令嬢! 前へ!」
ヘロイーゼはため息を一つついて静々と進み出るとアーベルまで数メートル離れた距離で立ち止まり深くカーテシーをした。
わかっていたことだ。ヘロイーゼはこれ以上アーベルに近づくことを許されていない。……今は……
ーー♦♦♦ーー
ヘロイーゼとアーベルの婚約が成立したのは三年前、貴族学園に入学する十五歳の時だった。
数多の婚約者候補の令嬢たちの中からヘロイーゼが選ばれたのは公爵令嬢という身分の高さだけではない。王太子であるアーベルの意向が反映されている。
過去、国王と王妃の仲の悪さから内乱になりかけた事例もあるこの国では、家格や家の勢力による政略結婚より、本人たちの相性が重視される。もちろんあまり家格差が大きい結婚は推奨されないし、特に王家ともなれば一定の知識、教養、立ち居振る舞いと言うものが要求される。そこで国内の伯爵家以上の令嬢の中でアーベルと年回りの近い令嬢たちが集められ何度か交流の場が持たれる中で一人、また一人と淘汰されていき、アーベルの熱烈な希望で三年前にヘロイーゼとの婚約が成立したのだった。
婚約成立とほぼ同時期に二人は貴族学園に入学、アーベルの強い希望で婚約が成立したことを裏付けるように仲睦まじく学園生活を送っていたのだ。
一年前に男爵家の令嬢であるベティーナ・ロイターが入学して来るまでは。
ベティーナ・ロイター男爵令嬢、彼女は数年前に画期的な魔道具を製作し叙爵されたロイター男爵の娘だ。魔道具製作には豊富な魔力を必要とする、ロイター男爵は平民には珍しく高い魔力を有していることが証明され貴族の一員となった。もっとも男爵本人は職人気質なのか貴族社会に不慣れなのか滅多に社交界には出てこずに魔道具研究と開発に勤しんでいるらしい。
その娘であるベティーナも高い魔力を有しているらしいとの噂ではあるが魔術の授業成績は並みだそうである。後で知った事であるが。
そもそも学年も違う平民に毛が生えた程度の男爵令嬢の事などヘロイーゼが知る由もなかった。だから対応が遅れた。気づいたときにはアーベルの傍にベティーナがべったりと侍っていた。
ヘロイーゼはアーベルに何度か苦言を呈した、アーベルの気を引くために頑張った。でもアーベルはだんだんヘロイーゼと食事をとることもお茶を飲むこともしなくなり、そしてとうとう傍に寄ることさえ禁じられてしまったのが一か月前。そしてその間、アーベルの傍に常に寄り添っていたのがベティーナだったのである。授業が終わればアーベルはすぐさまベティーナを迎えに行き、昼食も休み時間も放課後も共に過ごしているらしい。二人を目撃した生徒たちは数多おり眉を顰める者や同情の視線をヘロイーゼに向ける者も多かった。特に仲睦まじいヘロイーゼとアーベルの姿を見てきた三年生たちはアーベルの心変わりを嘆いた。
アーベルはベティーナの事を除いては非常に優秀な王太子であり、人当たりもよく成績もトップ、更に既に政務の一端を担っている。それだけに今回の醜聞に失望しているものも多かった。
しかし学園内にはアーベルとベティーナを応援する勢力も存在する。ベティーナはその愛くるしい容姿で特に一年生の中では男女問わず人気があるようだ。そればかりか「ピンク色のふわふわした髪の毛を揺らし若草色のぱっちりとした大きな目で見つめられると守ってあげたくなるな」と二年生や三年生の男子生徒が話していたのを聞いたことがある。ヘロイーゼの取り巻きの令嬢たちは眉を吊り上げていた。
ベティーナは何か特別な魅力でもあるのだろうか?
ヘロイーゼはアーベルの側近であるギュンター・レディガー侯爵令息に相談を持ち掛けたこともある。騎士団長の息子でアーベルの幼馴染、一本気のギュンターは酷く怒って「こんなに美しく健気なヘロイーゼ嬢を蔑ろにするなど許されない事です! 俺がアーベルの目を覚ましてきます!」と、ベティーナと寄り添うアーベルの元に乗りこんで行った。しかし数日後、ヘロイーゼが目撃したのはアーベルやベティーナとにこやかに談笑するギュンターの姿だった。そしてギュンターもヘロイーゼに近づかなくなったのである。
もちろんヘロイーゼはベティーナにも注意をした。皆の居る前で婚約者のいる男性と必要以上に親しくするのは慎みの無いことだと忠告したのだ。言葉はなるべくソフトになるように心がけたし、皆の前で注意したのは陰でこそこそと苛めたなどと言われたくなかったからだ。もっとも、ヘロイーゼの取り巻きの令嬢たちは何度かベティーナを呼び出したり何か意地悪をしていたようだがヘロイーゼは知らない事である。ヘロイーゼが忠告したときにはベティーナは困ったように眉を伏せ、「私……ベル様とはそのような関係ではないんですう」と震える声で繰り返すばかりだった。そして騒ぎを聞きつけたアーベルが駆け付け、ベティーナを連れ去ってしまったのだった。
ーー♦♦♦ーー
ヘロイーゼが眼前に進み出るとアーベルは先ほどの言葉を繰り返した。
「ヘロイーゼ・プランゲ公爵令嬢、私は君との婚約を今、この場で破棄する」
「アーベル殿下、それはいかなる理由ででしょうか?」
ヘロイーゼは落ち着いて問いかけた。だってこれは既にわかっていたこと、一週間前に人気のない今は使われていない校舎の教室でこそこそと話していたアーベルとベティーナの会話を偶然盗み聞きしてしまった時から。
「婚約破棄! ですかぁ? ベル様」
「しっ! 声が高いよベティ」
「ふふっ、大丈夫ですよ、こーんな寂れた廃校舎なんて誰も来ませんよぉ。でもどんな理由で婚約破棄するんですか?」
「君は彼女に苛められていただろう、それを理由に今度の王家の夜会で衆人環視の中で婚約破棄してやろうと思う」
「そりゃあ嫌がらせは何度もありましたけど理由としては弱くないですか?」
「そうだな、じゃあ君がヘロイーゼに階段から突き落されたことにしよう。幸いにも軽傷で済んだことにして手首に包帯でも撒いていればいいだろう」
「それで婚約破棄出来るんですかぁ?」
「だから夜会で婚約破棄するんだよ。みんなの前でヘロイーゼは酷い女だと知らしめてしまえば父上だとて撤回は出来ない」
「王様、怒りません?」
「大丈夫、僕は既に王太子なんだよ。次期国王になる事が決まっているんだ、余程の事が無い限りこれが覆ることはない。父は僕に期待してくれているからね」
「ふふっ、それじゃあ安心ですね!」
ヘロイーゼが問いかけるとアーベルは口の端を上げた。
「どんな理由で、だと? 君が貴族の令嬢にあるまじき酷いことをしたからだよ」
そう言いながらアーベルは後ろを振り返り愛おしそうにベティーナを見つめた後にベティーナの包帯を巻いた腕を掴んで皆に見えるように突き出した。
「君は悪事を働いた、ゆえに私に相応しくない! だからここで君との婚約を破棄することにした!」
ニヤニヤと見下ろすアーベルに向かってヘロイーゼはもう一度頭を下げ冷静に言葉を紡ぎ出した。
「アーベル殿下がわたくしとの婚約をお望みでないのなら致し方ありません。しかしながらその理由については納得しかねます。わたくしがどんな―—」
「ヘロイーゼ!!」
その時、頭を下げるヘロイーゼを守るように前に出て来たのはこの国の第二王子、アーベルの一歳下の弟のマティアスだった。
マティアスはヘロイーゼを庇うように前に立ち、ギリッと兄を睨みつけた。
「兄上! ヘロイーゼにどんな非があるというのです! 兄上の横に侍るその女は何ですか? 非があるのは兄上の方ではないですか!」
「ふん、マティアスか。お前の知った事では無い。私はこの女が悪事を働いたから断罪しているんだ」
アーベルはマティアスが前に出てくると一瞬忌々し気な顔をしたが不意にニヤッと笑うと嘲るような口調で言った。
「お前、最近はプランゲ公爵邸に入り浸っているそうだな。ヘロイーゼに懸想でもしているのか?」
「なっ……! 僕は……僕は兄上に蔑ろにされているヘロイーゼ嬢を慰めるために……」
真っ赤になったマティアスは必死に言い募るがその言葉をアーベルは遮った。
「やめておけ、その女は底意地が悪くてこそこそ悪だくみをするような女だぞ」
とうとう婚約者でもあった公爵令嬢を〝その女〟呼ばわりし始めたアーベル、マティアスはカーっと頭に血が上った。一発でも殴ろうと前に出ようとした時、それをやんわりと止めたのはヘロイーゼだった。
彼女はマティアスの手を握り首を一つ振ると何やら小声で囁いた。マティアスの顔が怒りとは違う赤さに染まっていく。マティアスがコクコクと頷くとヘロイーゼは少し離れた壇上に視線を飛ばした。
ホールの中央での出来事に人々の関心はすっかり集まっていたが、少し離れた壇上にはこの国の国王夫妻が座っていたのだ。
オロオロと青い顔をする王妃、ワインのグラスを手に持ったまま呆けた顔の国王。そしてそのすぐ傍らにヘロイーゼの父であるプランゲ公爵が座っていた。王家の親戚筋でもあるプランゲ公爵はワインを飲みながら国王夫妻と歓談をしていたのだった。そのプランゲ公爵がわずかに頷いたのを確認してヘロイーゼはアーベルに向き直った。
さあ反撃の時だ、このために一週間前にアーベルとベティーナの密談を盗み聞きしたときから準備していたのだ。
ヘロイーゼは凛と前を向いて言葉を発した。
「アーベル王太子殿下、婚約破棄しかと承りました。しかしながらこのような場所での突然の婚約破棄、また、学園でのアーベル殿下の振る舞いはわたくしも承服いたしかねますわ。アーベル殿下はわたくしの諫言には耳も貸さずそのお隣に立たれているベティーナ・ロイター男爵令嬢と仲睦まじく過ごしていらっしゃいました。それが王太子たる者の振る舞いでいらっしゃいますでしょうか?」
固唾をのんで成り行きを見守っていた人々はざわざわとそこかしこで話を始める。小声なので話の内容は聞こえてこないがアーベルを非難する内容であろうことはアーベルに向ける冷ややかな視線が多いことで容易に推測できた。
ヘロイーゼに続きマティアスも口を開く。
「兄上、兄上がヘロイーゼ嬢との婚約を破棄するのなら僕がヘロイーゼ嬢と婚約を結ぶ。そして今ここで兄上の王太子としての資質を問う。父上! いえ国王陛下! 兄上は次期国王には相応しくない振る舞いをしました! これでもまだ兄上を王太子にとお考えでしょうか!?」
マティアスに続きヘロイーゼも壇上の国王に呼びかける。
「国王陛下、わたくしはマティアス殿下を支え立派な王妃になってみせますわ! 衆人環視の中で稚拙な理由で婚約破棄をするアーベル殿下は王太子には相応しくないと思われます」
それは不敬ともとられかねない発言だった。アーベルを王太子に定めたのは国王だ、その国王に向かって王太子を変えろと要求したのだ。しかしヘロイーゼには勝算があった。今国王の隣りにはヘロイーゼの父であるプランゲ公爵が座っている。その父が頷いたのだ、計画を進めて良いと。
人々の注目がホールの中央から壇上の国王に移る。
その注目の中、国王は……動かなかった。呆けたようにグラスを持ったまま沈黙している。
「ん゛ん゛」
横のプランゲ公爵が焦れたように咳払いをした。
「陛下、私も娘のいう事はもっともだと思います。どうですか、この場で娘とマティアス殿下の婚約、そして王太子の変更を宣言しては?」
プランゲ公爵の進言にも国王は無反応だ。
この時初めて柔和な表情だったプランゲ公爵の顔にわずかに苛立ちが浮かんだ。
「陛下、陛下? 突然の出来事に驚いていらっしゃるのですか? 気を落ち着けるためにもう一口ワインをお飲みになってはいかがでしょう?」
プランゲ公爵は国王が持っていたワイングラスをに手を添えると一気に煽るように国王の口元にもっていく。
そのグラスが国王の口に触れる瞬間、その手を押さえた者がいる。その者はスッとそのグラスを取り上げた。
「な、何をする! 何だ君は!」
「失礼いたしました。ギュンター・レディガーと申します」
ギュンターはグラスを取り上げたまま器用にプランゲ公爵に挨拶をする。
「ふん、レディガー騎士団長の倅か。お前はアーベル殿下の側近だろう? どうしてこんなところにいる?」
「国王陛下のお加減が優れないようでしたので」
「そうだとしてもここにお前がいるのはお門違いだ。さっさとそのグラスを置いて去るがいい」
プランゲ公爵の言葉もどこ吹く風、ギュンターはグラスを持ったまましれっと立っている。
プランゲ公爵は今度は国王に向かって話しかけた。
「陛下、陛下は何故黙っているのです、この無礼者を即刻捕えてください。早くアーベル殿下とこの無礼者に正義の鉄槌を与えるのです。躊躇いはいりません、この私がそう望んでいるのです」
プランゲ公爵の言葉に国王は初めて逡巡するような顔を見せた。
「婚約破棄は……認めよう……そして……ううっ……私は……あー……私はアーベルを……」
「父上!! 何を言おうとしているのです!? 私は既に公務にも携わり成果を上げております!」
割って入ったアーベルをプランゲ公爵は一喝した。
「五月蠅い! 我が娘を蔑ろにしおって! これまでの努力が水の……いや、貴様は既に王太子に相応しくない。マティアス殿下と我が娘がこの国の頂点に立つのだ! さあ早く! 陛下! 私の望みを叶えたいだろう」
最早異様な雰囲気で国王に迫るプランゲ公爵。
そのプランゲ公爵に向かって国王はにっこり笑って言った。
「いや、まったく」