思考の補助線としてのAI先生。
いつもタイトルだけ思いつき、そこからエッセイを書き始める芸人のエンゲブラです。毎度。
問題提起となりそうな「それっぽいタイトル」だけ適当につけ、そこからは思いつくままに論理未満の思考展開をぶちかますのが十八番。なので、いつもタイトルにある問題点の答えにはピンポイントでは着地せず、漂流フィニッシュが定番のスタイルとなっている。
それはそれで筆者的には「物事を考える時間」を半強制的に作れたので、それなりに満足なわけだが、読まされる側とすれば、いつだって画竜点睛なんだこれ状態。
さすがにそれではマズイなと、昨晩書いたエッセイでは初めからゴールへの道筋をある程度設計するため、AI先生を活用してみた。するとほんの1~2秒で問題提起の部分からゴールの部分まで破綻なく回答……。実際にそれらの文を読んでみると納得の他なく、いきなり「物事を考える時間」が終了。
おいおい、待てよ!
筆者は自分が論理展開を行うための、いわば「補助線」を求めてAI先生に訊ねてみたわけだが、AI先生はサポートではなく、勝手に課題をコンプリートさせやがったのだから、唖然である。
AIが人間をサポートする時代。共存共栄。
サポート?
これでは完全介護ですやん。
質問の仕方が明確に答えまでの導線であったため、当然のように答えも出しやがったのだろうが、これはさすがに困ったものである。
筆者はいい大人なので、今回はそれでもかまわないが、子供がこれらを利用する場合、「自分自身で思考する」という機会そのものを奪われる危険性もあるんじゃないの?となってしまった。
「完璧な回答」は、答えがひとつに絞られているものだけに限り、社会的議論や考察に関しては、もう少し受け手の自律的思考を促すような……。もちろん、こういった部分も今後、筆者と同様の感想を持つ人間が増えれば、自然と修正もされていくのだろうが、ここ数年のAIの進歩がやば過ぎる。
筆者もあまりAIにばかり頼っていると「思考する筋肉」が衰えてしまいそうで怖くもなった昨晩のセッション。そうなったらそうなったで、人間側がAIに合わせてしまえばいいわけだが、そうなってしまうといよいよ「思考の主導権」をAIに奪われることともなる。それはそれで幸せかもしれないが、オールドタイプの筆者とすれば、落とし所に思案する日々である。
ちなみに本文中に出てくる昨日書いたエッセイタイトルは『【罪と罰】なぜ現代では「赦し」すらをも「悪」とする風潮が蔓延るようになったのか?』(n4493k)です。
AI先生に答えまで出され、中途半端なエッセイとなってしまっていますが、もし興味のある方はどうぞ。
タイトルに出てくる「思考の補助線」という語句。どこで耳にした言葉だったかな、と思い調べたら、茂木健一郎著の『思考の補助線』というそのままなタイトルの本が出てきた。
しかし残念ながら、筆者は茂木氏のその著作は読んだことも見かけたこともなく、またもっと古い時点での記憶の澱から引き揚げた言葉でもあったので、元ネタが気になって仕方がない。
あ、それの答えもAI先生に訊ねてみればいいのか!
ひゃっほい()