表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/30

8. 屈辱の祖国追放

 グラーニャは目覚めた。


 たとえば暗い暗い淵の底から、うんざりするほど長い時間をかけて浮かび上がったとしたら。こんな心持ちになるものだろうか……? とにかくひどい重さを頭いっぱい、身体いっぱいに詰め込んだまま、テルポシエ第二王女グラーニャ・エル・シエはゆっくりと覚醒した。



 古ぼけて煤けた梁が横切る、黒っぽい天井がグラーニャの視界に入る。頭が……重い。



――ここは一体、どこなのだろう。



 そのまま微動せず、グラーニャはじっと横たわったままでいた。首に貼りつく長衣の襟、爪先の心地悪さ、胸のむかつき。そういった感覚が少しずつ覚醒し始める。すべて不快だ。深呼吸をしてから、上体を起こしてみる。


 薄暗いがらんどうの古びたへや。そこにぽつんと置かれた粗末な寝台の上に、グラーニャは居たのだった。


 むき出しの石床に置かれていた靴を履いて、窓に近寄ってみる。そこからは樹々の影が見えるだけだった。日が暮れようとしている。


 扉を叩く音が響いて、若い女性が入ってきた。


 深緑色の質素な長衣に、白い大きな前掛けを着けている。侍女だろうか。明るいとび色の巻き毛が、びっくりする程こんもりと豊かだ。その中心で、くっきり太い眉毛と涼やかな瞳が微笑む。美しい女だった。



「お目覚め? 気分はいかが」



 女はグラーニャの返事を待たず、手に提げていた籠を、寝台脇の小さな卓に置いた。



「喉が渇いているでしょう」



 低くて優しい声だ。籠から陶器の椀と水差しを取り出し、いくぶんか注いでグラーニャに差し出す。冷たくて甘いような水だった。


 次いで、布巾に包まれたぱんの切れ端を見せる。



「召し上がる?」



 何も考えず、グラーニャは受け取った。口の中に含んで初めて、その違和感に驚く。


 ぞわぞわと転がるような食感は、グラーニャが経験したことのないものだった。改めて手元の切れ端を凝視すると、形はぱんでも見たことのない真っ黒さである。それでも、覚え始めた空腹に任せて飲み下した。



「ちょっと、おぐしが乱れているわね。はい、向こうむきに座って」



 女は、寝台に座らせたグラーニャの髪をといて梳き始め、再び結い上げたらしい。グラーニャはぼうっとして、されるがままになっていた。



――誰なんだろう、この人。



「さあ、出来たわ。立って」



 女は、今度はグラーニャの長衣を眺め、その両肩を手のひらでぱっぱと払い、しわを直した。



「そうだ、おしもの方は大丈夫?」



 寝台の下の陶器の壺を引き出しておいてから、女は一度出ていった。


 しばらくすると戻ってきて、濡れた手巾を差し出す。



「これでいい。行きましょう、ゆっくりでいいのよ」



 グラーニャは手を引かれるまま、力なく歩き出した。


 古く、ややかび臭いような所だった。家と呼ぶには大きすぎるが、テルポシエの城と比べると廊下の幅も狭いし、天井も低すぎる。



――末端貴族のお屋敷にでも、連れてこられたのかしら? なんだか、お金のない家のようだけど……。



 やがて、居間らしき所に通された。


 騎士のような身なりの初老の男性が三人いたが、テルポシエ騎士の草色の外套ではなく、灰色や褐色などちぐはぐなものを着ている。


 円卓の上座に、若い男性が座っていた。四人が一斉にグラーニャを見る。



「お連れしました」



 女が告げた。


 四人は立ち上がり、初老の三人が頭を垂れる。若い男だけが立ち尽くしたまま、グラーニャを見ていた。



「さあ、こちらへどうぞ」



 女はグラーニャの手を引き、若い男の側へ導いた。そのまま、男の差し出した右手へとなめらかな動作で引き継がせる。



――なに……? 何なの??



 初老の男達のうち、黒っぽい外套をまとった禿頭のひとりが進み出た。



「始祖のまかれたる種の出ずる此の地にて、未来の糧となるあらたな契りをここに認めん」



 ものすごい早口だった。



「始祖、そして黒羽の女神の祝福のあらんことを」



 褐色の外套の男が、若い男に何かを差し出した。


 若い男は、空いている方の左手でそれをつまみ上げる。銀色の指輪だった。それを無造作にグラーニャの左手薬指にはめこみ、男はさらっと手を離す。三人の男が一斉に、若い男とグラーニャに向かって頭を下げる。


 若い男は、つとグラーニャの背に手を当てて言った。



「来なさい、こっちだ」



 居間の続きに、小さいがやや豪奢な装飾のついた寝台のある部屋があった。蝋燭が何本か灯してある。扉を閉めると、男は外套を脱いで乱暴に寝台の上に放った。その脇に、どすんと腰を下ろす。長い長い溜息が聞こえた。


 グラーニャは、まだ混乱していた。



「あの……。これは、一体……」


「こっちが聞きたいよ」



 男は投げやりに言う。こざっぱりとした青色の短衣を着て、きれいな栗色の巻き毛を揺らしているが、月並みな顔立ちに不機嫌さを隠そうともしない。



「初めに言っておくけどね、私は心底反対していたんだ。君みたいな子どもを第二妃にするなんて、全くもって不本意なんだ。けど、借款を盾に脅されれば、どうにも受け入れるしか道はなかった」



――この人は一体、何を言っているんだろう?



「借款って……?」


「ああ、聞いていないかい……。マグ・イーレの負債を三分の一に減らす代わりに、謀反を起こした王女を押し付けてきたんだよ、テルポシエは。……どうせなら帳消しにしろって言うんだ」



 男はまた溜息をつき、短く切りそろえた頬髭をざりざりとさすった。



「君、お姉さんの即位式で、とんでもない粗相をしたのだろう? 醜聞を揉み消すために、今テルポシエは必死だよ。君は薬で眠らされ、王室航海船に乗せられて、超特急でうちの港まで配達された。全く覚えてない? ああそう、相当に薬をかがされたんだな、かわいそうに。でもまあ女王殺害未遂の謀反までしたのに、こうして生きていられるんだ。ありがたいと思ったほうがいい……。にしてもね、何か月か前から打診はされていたけど、こう急に来られたんじゃこっちも本当に迷惑だよ。たまらないよ。ああ、ほんとに腹が立つ」



 ぼそぼそと、暗い口調でよく喋る男だ。



「あの、あの……。それじゃ、あなたは……?」


「ランダル」


「マグ・イーレの王さま……!」


「そう。それでここは、うちのマグ・イーレ城。まあ、君んちにもなったわけだけど。ニアヴから何も聞いてないの?」


「ニアヴ?」


「ほら、さっき君を連れてきた人。私の第一妃なんだ、奥さんどうし仲良くやってね」



――何だこれは。何なんだろう。



「それでね、一応いまは初夜なわけだし、さっさと済ませようか」



 面倒そうに立ち上がると、ランダルはグラーニャの両肩を掴む。と同時に、眉間にしわを寄せた。



「その前に君、そこの浴室使っておいで。ったく、ニアヴもどうかしているよ、まる一昼夜の航海をしてきたそのまんまでよこすなんて……。いくら子どもでも、汗じみて臭くなるってこと、わからないのかね。はあ萎える、頑張れ自分……」



 背を押されて踏み込んだ浴室には、年季の入った鏡が置いてあった。


 そこに映り込んだ自分の顔を見てはじめて、グラーニャは自分がどれだけ凄惨な立場にあるのかを思い知る。思わず涙と一緒に、ぼろりと男の名前が口をついて出そうになった。


 グラーニャはぐっと唇を噛む。


 無意識のうちに呼びそうになった男の名前を、……噛んで殺した。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ