7. 姉ディアドレイの即位式
その日は、前触れもなくやって来た。
朝食をいつも通りに運んできたネリウですら、知らされてはいなかったらしい。
空は薄暗く、何日か居座り続けた霧雨が静かにあがっていた。
昼前、ネリウともう一人の中年侍女が、木箱を抱えて慌ただしくグラーニャの居室に入って来る。
「姫様。お召し替えをなさるようにと、お母様が仰ってます」
手の甲から喉元までをぴっちりと覆う、重い紫紺の長衣を着せられ、長い白金の髪は高々と結い上げられた。耳の孔には、雫粒の黒曜石が小さく吊り下がる。
硬く装うグラーニャの胸の内で、にわかに緊張がつのっていった。
ネリウが扉を開けると、見張り役の騎士らはさっと左右に分かれる。そのまま廊下に歩み出たグラーニャの脇に、二人とも添うようにしてついて来た。廊下の突き当りにいた、別の騎士がグラーニャに目礼をして告げる。
「姫様、まずは中広間へお越し下さい。ご両親、お姉様とご一緒に大広間へ移って、そこで即位の儀となります」
若い騎士は極力丁寧に言ったつもりなのだが、グラーニャが小さくうなずいたきり一言も発さず、前方を強く見据えたままなのでひそかに鼻白んでいた。
侍女、騎士を引き連れたグラーニャが中広間に出ると、いつもの長い食卓がそこにない。ざわざわ立ち話をする一級騎士らで、ごった返している。
金色に輝く父母、そして姉の姿がその中心にある。三人とも金糸の縫い取りをした衣を着ていて、無数に置かれた蝋燭の炎の光に、装身具がちらちらときらめいていた。
グラーニャはそっと、ついてきた騎士の一人に囁いた。
「式が始まってしまう前に、姉さまにどうしてもお祝いの言葉をはなむけたいの、……たった一人の妹として。悪いけど、姉さまをこの入り口近くに呼んでくれない?」
騎士はうなづいて、すぐにディアドレイに向かっていった。
間髪を入れず、ネリウともう一人の侍女にもグラーニャはささやく。
「喉がからからで、痛いくらいなの。お願い、ちょっとでいいから水を探して持ってきてもらえる?」
二人はさっと廊下に戻った。
姉がこちらにやってくる。父母が気づいて、遠くからグラーニャを見た。
グラーニャは、もう一人の騎士からさりげなく離れた。
「グラーニャちゃん」
はにかんだような笑顔で、姉が自分の名を呼んだ。
一点の曇りもない、乳白色の胸元を大きく出した長衣すがた。ディアドレイは、鎖骨のあたりに大粒の真珠が泡のように重なった首飾りをつけている。
グラーニャの胸の奥が、すうと冷えた。姉がここまで化粧映えのする人だとは、まったく知らなかった……。見慣れていた質素ななりの姉とは、別人のように見える。しかも次期テルポシエ女王は、花が咲き誇るような笑顔を浮かべている。
――それは……勝利の笑顔のつもりなの……?
背中にも、ぞくぞくと冷たいものが流れるのをグラーニャは感じる。極限の緊張のせいか、こめかみの内側がちりちりと焦げるように痛んだ。
――違う、これは姉だ。
地味で主張の少ない姉ディアドレイ、たまたまわたしより先に生まれたという偶然で、女王となりオーリフを手に入れる許せない存在だ。邪魔者だ。悪なのだ。だから、ひるんではいけない。グラーニャは、そう自分に言い聞かせる。
たっぷりとした長衣の左袖から、グラーニャは裁ちばさみを引き出して握りしめた。
姉の正面に、大きく踏み込む。一歩、二歩、
「ごめんなさい、姉さま」
三歩目!
渾身の力を込めて腕を突き出したその瞬間、右側からものすごい力がグラーニャを突き飛ばした。
「痛っ!!」
グラーニャは自分の悲鳴を聞く。周辺にいる騎士らから、一斉に驚いた声が上がる。それでもグラーニャは素早く立ち直りかけ、ぎっと姉をにらんだ。……つもり、だったのだが。
姉ディアドレイと自分の間……そこに、信じられない顔があった。
ほんの二か月前、自分が両手のあいだに挟んでいた、世界でいちばん大切な顔が。
その衝撃に凍り付いた次の瞬間、グラーニャは頑強な腕に右手を取られ、ねじられて、あっという間にはさみを取り落とす。そのまま両肩をすくい上げられるようにして、中広間から引きずり出された。
誰も何も言わない。静寂のなか運ばれていくグラーニャの瞳から、とめどなく涙の粒があふれ出た。
姉を背中にかばい、守りの姿勢をとっていたオーリフ。
グラーニャを突き飛ばし、姉ディアドレイを守るために長槍穂先を自分に突き付けたオーリフ。
第一級の騎士正装、草色の外套を羽織っていたオーリフ。
翠色の双眸に表情を読み取ることは、とうとうできないままだった……。グラーニャのゆがむ視界から、オーリフは消えて見えなくなって行った。
姉を殺して自分が代わりに女王になれば、オーリフとずっと一緒にいられるはず。それがだめなら、グラーニャは自刃しようと思っていた。
――オーリフのいない生なんて意味がないから。そのくらい、わたしはあなたがいいのに。
グラーニャは目を閉じた。
――オーリフは、わたしのことを想ってなんか、いなかったんだ。