6. 恋人を救うために
初めの二日間、グラーニャは泣きに泣いた。
そしてひたすら混乱していた。
三日目の夜明け、鎧戸を開け放して窓いっぱいの海の眺望を目にした時、頭の中をぐるぐると回り続けていたものが、ようやく一つの疑問になった。
――オーリフは、なぜわたしに会いに来たのだろう?
自分の部屋は姉や父母の居室からは離れているが、侍女や近侍に見咎められる危険性は大いにあったはずだ。それでも、三晩とおかずに通ってきたのは……。
「彼も、本当はわたしを想っているから……」
どれだけ頭を捻っても、他にそれらしい理由が考えつかなかった。
「つまり、オーリフも姉さまとの結婚を不本意に感じているはず」
――そうだ、きっとそうだ。
あの人はただ、ミルドレおじさまのような、立派な傍らの騎士になりたくて志願したに違いない。ディアドレイとの結婚は、全く想定外のおまけだったんじゃないか。それならば今、オーリフはものすごく困っているはずだ。助けが要る、わたしに何かできることはないだろうか?
あまり考えもせず、居室の外に出ようとしてグラーニャは自室の扉に手をかけた。けれど、扉に差してあるはずの鍵がない。もちろん扉は施錠されている。小食卓や鏡台の上などを探し回っても、鍵は見つからなかった。
――わたしが臥せっていた間、ばあやのネリウが外から施錠したのかしら?
風邪をひいた時など、外から自室を施錠されることは時々あった。今回も同じ、とグラーニャは深く考えない。やがてその侍女ネリウ本人が、朝食を持って入ってくる。
「ああ良かった、姫様。今日は少しは召し上がって下さいますね?」
安堵した表情だが、ネリウもまた疲れているようだった。
「ちょっと嫌なお話がありまして……」
ばあやは重い口調で続ける。
「町の方で、流行り病が出ました。どうも赤点疼のようで」
「まあ!」
「ひどくなった人はまだいないようです。けれど姫様には用心のため、しばらくは外出を控えてお部屋にて過ごされるように、とお父様のお言い付けです」
「ああ、だから外から施錠したの」
「ええ、鍵はお返しします。ただ今日からは……」
ネリウは扉を開けて見せた。そこに壮年の騎士二人がいて、グラーニャに礼をする。再び扉を閉めると、ネリウは苦しそうに告げた。
「ご自由に出入りする、ということもできないそうです」
・ ・ ・ ・ ・
それからの二か月は、グラーニャにとって苦行でしかなかった。
ネリウに言えば欲しいものは持ってきてくれたが、外からの話が全く聞こえてこない。見張りの騎士はどちらも無愛想で、内政や城下がどうなっているのかもよくわからなかった。ネリウも自宅に帰らせてもらえないと言い、ともに暮らす娘夫婦のことを案じていた。
オーリフとの甘い記憶だけをよすがにして、グラーニャは読書や刺繍で時間を潰す。
時間をかけても、相変わらず刺繍は全く上達せず、むしろ自分は天才的に下手なのだということがはっきりと実感できた。その点、頁を繰るうちにふうすか寝入ってしまえる読書はよい。
御用達の衣師たちが、時々やって来るようになった。グラーニャの身の丈を測っては、紫紺の新しい長衣をこしらえてゆく。仮縫いを着せられた時、そのあまりの仰々しさにグラーニャは驚いて声を上げた。
「なんて長ったらしい袋袖と裾なの! 身動きもろくにとれないわ。こんなの、どこに着ていけっていうの?」
防疫のためとして、顔の下半分を首巻布で覆った中年の女性衣師が目を細めた。
「それは姫様。お式ともなれば、第一級のお召し物がご入用ざましょ」
――式……?
はっとする。できるだけの冷静を装って、グラーニャは衣師にたずねた。
「わたし、日取りをちゃんと聞いていないのよ。一体いつになるの」
「は、わたくしどもはあと半月で、どうにも仕上げろと言われているだけなのですが」
城下に流行り病が出ているというのに、父は姉の即位式を行うつもりなのだろうか。この長衣は、列席させられる際に着るものらしい。
――即位……。父さまは何と言っていたっけ。同時に婚姻……姉さまとオーリフが結婚する!!
自分の顔から、血の気が引いてゆくのがグラーニャにわかった。
――止めなければ。何としてでも止めなければいけない。
その日から、グラーニャは涙を滲ませつつ難問に向き合うようになった。悩み悶えて、堂々巡りの思考がいつもすすり泣きに終わる。食べ物の味がよくわからなくなっていった。ちゃんと香草が入っているのに、湯のみの中の飲み物は白湯としか味わえない。
――わたしのいちばん大切なあの人。オーリフを、わたしから離れられないようにするには。わたしを想っているはずのオーリフを、まちがった運命から救うためには……!
実はグラーニャの胸のうち、答えはすでに見つかっていた。問題は、どうやったらそれを実行できるか、なのだ。