15. 俺の夢を手伝え
血の気が引いて真っ白な顔になったグラーニャを、ゲーツは馬から抱き降ろした。リラが指図するまま、階上の室に運び込む。
老女は厳しい顔をしていたが、無駄のない手つきで手当てを行った。
グラーニャがだるそうに短衣を脱ぎ始めた時、ゲーツはさすがに部屋を出かけた。
「ゲーツ、これ脇に置いてくれ」
しかしグラーニャ本人が、名指しで脱いだのを寄越すのである。仕方がない。
薄っぺらなグラーニャの胸は、さらし布でぐるぐる巻きにしてあった。ゲーツは直視しないようにしてはいたが、グラーニャの両腕ともに肘のあたりから上が赤いのに気づいて、内心でだけぎょっとする。そこも傷つけられていたのか、と思わずがん見したら大きな赤いただれだった。痛々しいが、今回の刺客とは関係ないもののようである。ゲーツは黙って、後ろにさがった。
リラは水と酒とで傷口を丁寧に洗い、布を巻いてゆく。
「また、お熱が出るやもしれませんね」
――また、って……。何度もこんなことをしてるのか?
「うむ、また厄介になってしまう。すまないな、リラ。代わりにこのゲーツが、色々と手伝うのでな」
――え……。
老女は振り返り、ゲーツに首を傾げてみせる。にっこり笑った。
「じゃ、うちのお爺さんはちょっと楽ができるわね」
・ ・ ・ ・ ・
翌朝明けきらない早いうち、キルスが医師と若い騎士を二名伴って、石小屋にやって来た。
リラが言った通り、グラーニャは発熱して寝付いてしまったらしく、ゲーツはその後会えていない。医師が階下に降りてきて、首を振る。
「やはり、ここから連れ帰るわけには行きませんか」
キルスは心配そうだったが、ずんぐりむっくり熊じみた医師は感情を交えず、きっぱりとした調子で続けた。
「リラさんの処置は完璧でしたから、このまま安静にさせるのが最善です。切れた部分がある程度癒着し、瘡になるまで待った方が無難でしょう。下手に動かしたら、また以前のように化膿します」
――どれだけ危ない橋を渡ってるんだよ、王妃様……。
両腕のあの傷の数々は、昔の古傷なのだろうかとゲーツはいぶかしんだ。キルスがふるふる三角形のあごひげを振りつつ、うめくようにリラに言っている。
「というわけで毎度申し訳ありません、リラさん。薬と食料を置いていきますので、しばらくグラーニャ様を頼みます」
「はいはい。まあ、お塩をこんなに、嬉しいわ」
「それで、ゲーツさんはこれでマグ・イーレに帰城して下さい。グラーニャ様の護衛は、こちらの騎士が交代しますので……」
「あら、ゲーツさんの方がいいわ」
ゲーツが内心でがっくりとしかけた所に、リラが割って入った。
「山羊を集めるのが上手いのよ。そちらの騎士様は、山羊を追えます?」
「やぎですかー! 無理ですね!」
紅顔の騎士は即答した。悪気はみじんほどもない。
「キルス様、自分はもう休暇扱いでいいですから……」
ゲーツは自分でも、キルスにたたみかけてみた。
中年の騎士はゲーツを見つめる。きらきらと輝く小さな瞳の中に、あからさまな好意が満ちていた。
「昨晩、刺客の遺体を回収した際に身を検めましたが、やはりテルポシエの手の者です。どういった理由なのかはっきりしませんが、グラーニャ様を狙っていたのは間違いないでしょう。さすがにマグ・イーレ領のここまで追い打ちをかけるような真似はしないでしょうが、油断は禁物です。若手の騎士を毎日寄越しますから、連絡は欠かさないようにしてください」
そう言ってキルスと医師、騎士達は帰って行った。
ついにキルスの信用を得られたのだろうか、聞かずともゲーツに機密事項を伝えていった。戦闘時の行動も大したものだったが、見かけにそぐわず強かな男だな、と感心する。ただ弱点があるとすれば、それは彼の計算高さに他ならない。
・ ・ ・ ・ ・
刺客の報告を含め、夕刻そのことを病床のグラーニャに伝えると、くくくと笑った。
「仮にマグ・イーレが豊かな国で、潤沢な軍資金が使えたら、あいつも違う性格になっていたろうな。だが、あれは今のままで十分すばらしい。色々と器用で、弓では他に並ぶ奴がいない。俺も以前、射方を教えてもらったが、遠目がきかんのでな」
「……細剣は、誰に?」
「別の騎士の爺さんだ、もうだいぶ前に死んでしまって久しいが。槍は嫌だったから、もう少し自分の体格に合った得物を選んだ」
「……槍を使ってたんですか」
「当たり前だ、テルポシエ騎士団のお家芸だからな。義兄ははじめ、俺たちの槍の指南役だった」
わずかにグラーニャの顔が翳る。
「大昔の話だ。……俺がマグ・イーレに来るのはあらかじめ決められていたことだったが、その来させ方がどうにも屈辱的だった。そうさせた両親と、きっかけになった姉と義兄とを憎むことで、何とかやり過ごしてきたのだと思う」
包帯の巻かれた先、グラーニャの左手が白い敷布をつかむ。そこに銀の指輪が光っているのが、ゲーツの胸に痛かった。
――つまり、テルポシエ王とその昔、何かあったってことか? 何てこった、今の旦那に加えて過去の男とも勝負しないといけないのか。
「……ここの家には、どういった経緯で?」
やんわりと、ゲーツは話題の方向を変えてみる。
「ああ、それはリラに聞いてくれ。俺はまた寝ようかな」
あっさりと言われたが、機嫌を損ねたというわけでもなさそうだ。ゲーツはおとなしく退室した。
・ ・ ・ ・ ・
白馬と黒たてがみは林間の草地で仲良く草を食み、ゲーツは従順すぎる十四頭の山羊を難なく集めた。時に薪も集めて割っておく。
山羊の乳を煮て乳蘇を作るリラは、ぼそぼそと成り行きを語った。
十数年前の秋の晩、山羊を小屋に入れようとしていたリラの夫は、馬を連れた少女が沢の近くに突っ立っているのを見て、家に連れてきた。
何も喋らずひどく疲れた様子だったので、迷子と思いとりあえず休ませたが、夜更けに不審な音がする。彼らは、貯蔵室に寝かせていた山羊の乳蘇を、大量にむさぼっている少女を発見してしまった。
錯乱と嘔吐を繰り返す少女を見て夫婦は不憫に思い、泣いて謝るのを抱いてなだめた。リラは以前、村で薬師の助手をしていたから、少女が難病を患っていると分かったのだ。
粥をともに食べ、山羊の世話をさせて、抱きなだめる数日が過ぎた所で、ニアヴと騎士数人が探しに来た。
「耳を疑いましたよ、あんなにやせ細った娘さんがお妃様だなんて。あの頃のグラーニャ様は、たった一人でお嫁にいらして、たいそうお辛かったんでしょう……。でもその後は、ニアヴ様が受け止められた」
グラーニャの姿をみとめたニアヴは、走り寄って抱きつくと声を上げてぼろぼろ泣いた、と言う。
「それから、グラーニャ様は時々うちへおいでになるようになったんです。ニアヴ様や、王子様がたがご一緒の時もありました。来るたびに少しずつ、頬がふっくらしてきてね。……わたしがお伝えした病について、グラーニャ様はニアヴ様と一緒に乗り越えられたんです」
「……どうして俺に、そんな話を」
リラは小首を傾げた。
「グラーニャ様がご自分で仰ったのですよ。あなたはじきに、わたしたちとグラーニャ様の関係を不思議に思うだろうから、折をみて話しておけって」
リラは手のひらに乗る大きさの山羊の乳蘇を、手際よく布巾に包み込んでいく。元はみな同じだが、乾燥の度合いを変えたものを三種類用意し、マグ・イーレ各地の店人に卸したり、月の市で売ったりするのだと言う。
「……大っぴらに知られてよい話とは、思えません」
「グラーニャ様は、気に入らない方をここへは連れてきませんよ。うちに寝泊まりしている時点で、ゲーツさんにはお墨が付いているの」
老女は優しい目でゲーツを見た。
「まあ、分かるけどね。あなたは本当に役立ってくれるし、わたしも気に入ってるもの」
・ ・ ・ ・ ・
次の日の夕刻。
枕元の水差しを取りかえるつもりで半開きの扉を控えめに叩くと、「おはいり」と小さく応答があった。グラーニャは覚めていて、ゲーツに弱々しく笑って見せる。
「……加減はどうですか」
枕の高さに合わせ、しゃがみ込んでみる。
「ううむ、なかなかに悪いな。熱と薬のせいでぼんやりしている」
「……それだけはっきり喋れるなら、大丈夫です」
「うむ。しかし戦に出てこのざまとなったら、みっともないな」
「……戦になんて、行かないでしょう」
「俺は行くつもりだ」
ゲーツはグラーニャの顔をまじまじと見た。
初夏の夕陽が差し込み、やや翳った部屋の中で、熱に潤んだ翠色の瞳が輝いているのがわかる。
「テルポシエを討つのが俺の夢だと言ったら、お前は笑うか?」
「……」
ゲーツは小さく、首を横に振った。
「俺はいつか、……いつの日か、故郷に向けた戦の指揮を執りたい。俺を救ってくれた、ニアヴを立てて」
ゲーツは息ができなかった。
グラーニャの視線に全身を貫かれているようで、身動きもできずにいた。
ごくりと喉が鳴る。無理やり拳を一度握りしめ、そして開いてから、恐る恐る敷布の上にあるグラーニャの左手を取った。
「……どうやったら、すぐそばで守れますか」
ほっそり白く長い指に、銀の環が光っている。
「……自分は騎士ではなくて、傭兵なので。あなたの一番近くで戦うには、どうしたら」
重ねた手を、グラーニャが握り返した。
「それでは、俺が直属の傭兵に雇うと言うのはどうかな」
男は、女の左手の甲に唇を押し当てた。未だ混沌としてはいるけれど、燃えるような万感の思いを込めて。
ふ、と力の抜けたようにグラーニャは微笑んだ。
「良かった、ありがとうゲーツ。夢じゃないといいな、俺は今かなり朦朧としているから」
「……また寝られますか」
「うむ。ゲーツ、何か話してくれ」
「……え」
「珍しいどうぶつの話がいい」
枕の中に埋まり、安らかに目を閉じたグラーニャの表情は、あどけない少女のようにも見える。
ゲーツはふと、祖母の話を思い出した。
「……祖母が小さい頃、一度だけティルムンで獅子を見たと言ってました」
「獅子……。たてがみがあったのかな?」
「……いえ、牝の獅子です。ずっと北の方で罠にかけて捕らえたのを、大きな檻に入れて運んできて……身分の高い人に献上する前、一般の人にも見せて回ってたらしい」
幼い祖母の目にそれは、はじめ巨大な猫のように見えた。
多くの人々の目に囲まれても、悠々と寝そべって長い尻尾を揺らしている姿を見ているうちに、彼女は怖くなった。
白金色のなめらかな毛並み、鋭そうな牙と厚みのある前脚の先。やがて、緑がかった瞳が発する視線を向けられた時、祖母は恐怖を越え、身動きの取れない畏怖にとらわれた。はっきりと理解したのである。
「……あれは、草原の白い女王様だったんだ、と」
「そうか。 白い牝獅子、か……」
グラーニャは深く息をついた。




