12. ひみつ隠密、夜の旅
喪の帆を掲げたテルポシエの船は、マグ・イーレの港に長く停泊しなかった。ほんの一刻の後には、西方へ向けて発ってゆく。海路デリアド、そこから内陸フィングラスへ。イリー諸国に、テルポシエ女王夫妻の崩御の報を伝えに向かったのである。
傭兵たちは特に何かを命じられるわけでもなく、いつも通りの時刻に夕食となった。だがゲーツが食堂を見渡しても、ニアヴとグラーニャの姿は見当たらない。王子二人だけが、配膳係の女性を手伝ってぱんを配っている。
「おう、ちょっと……お前らきいた?」
毛深いハナンはそこそこ情報通らしい。ゲーツとジーラをつかまえて食卓に座ると、すぐに声を落として話し始めた。
「七日くらい前になるらしいけどね。テルポシエ女王と王の夫婦二人ともが、いっときに亡くなってしまったんだと~!!」
ゲーツはうなづく。これはグラーニャ自身から聞いている。
「テルポシエ王ってのは、グラーニャの兄さんだったよな? あれ、親父さんだったか??」
ジーラが問う。毛まみれ顔ともじゃもじゃ頭をもさもさ振って、ハナンは低く説明した。
「いや違う。女王がグラーニャの姉ちゃんで、王はその旦那だ。グラーニャの父親はその前の王様だったんだけど、テルポシエじゃ十年くらい前に赤点疼が流行したろ? 父ちゃんはあの病気でやられたって話」
「そうだったか。そいじゃ、グラーニャは葬式に行かなくちゃな」
「いやいやいやいや、それがね!」
ハナンはふるふると髭を揺さぶる。本人は劇的演出を狙っているのかもしれないが、どっちみち毛まみれでしかない。
「絶対に来ないでくれと、慇懃に念を押されたんだとさー!」
「ええっ、何でだよ? 実の姉ちゃんとのお別れだろ?」
「むしろ、だからじゃないの。血族のグラーニャが取り込み沙汰の中に乗り込んで、テルポシエ王座を乗っ取るのを怖がっているとか……!」
「そんな馬鹿な。直系の跡継ぎはいないのか?」
「いるよ。でもまだ子どもだから、適当な奴が摂政するだろう」
「……ハナン。二人は何で死んだ? 事故か」
むさ苦しく話しこむハナンとジーラに割り入って、ゲーツは聞いてみる。
「あ、それは俺も全然知らないの。グラーニャのちょっと上くらいだろうから、そんな年だったってわけでもないのにねえ」
「最近は、とくに流行り病の話も聞いてないがなぁ? ゲーツが言う通りに事故だろうか」
「うーん。どっちみち、公には言わずじまいかもしんないね。二人ともさ、新しく何か聞いたら俺に教えろよ??」
食事が引けてからも、テルポシエ元首崩御の一報は、ゲーツの胸中にわだかまったままだった。かみ煙草をやるらしいハナンとジーラについて、何とはなしに暗い練兵場へ出る。夕陽の残照の反対側、藍色の空に乳白色の星々が瞬き始めていた。
「あれ、厩舎が開いているぞ?」
ジーラが気づいて声を上げた。
確かに、今の時間暗く閉ざされているはずの扉が開いて、わずかに光が漏れている。近づいて、ハナンが少しだけ押し開いた隙間からのぞき込むと、「いたたたた」と声がした。
中では外套をまとった大小二人が、地べたに座り込んだ一人を助け起こそうとしていた。
「だから、無理をするなと言ったのに」
驚いたことに、うち一人はグラーニャである。その横顔がふっとこちらを向いたので、ゲーツはまたしてもぎくりとさせられた。
「ほら、見つかってしまったぞ」
地べたにへたり込んでいるのは太っちょ好々爺、もう一方で起き上がらせようと引っ張っているのはひょろ長かまきりである。契約の時に見た、二人の騎士だった。
「騎士様、お怪我ですかい。手を貸しますぜ」
ジーラはそつなく言ってずかずかと入っていき、ハナンとゲーツもそれに倣った。
「こんな時間に、遠乗りでも?」
鞍をつけられた三頭の馬が引き出されているのを見てハナンが聞くと、かまきりはため息をついてこめかみに手をやった。グラーニャが肩をすくめ、ちらりと好々爺を、そしてゲーツ・ハナン・ジーラを順に見る。
「ひみつ隠密の遠出だったのだがな。ウセル侯の運動不足のせいで、しょっぱなから計画変更だ。全く」
グラーニャは呟いて、今度はゲーツをまっすぐに凝視する。頭の先から足元まで、視線が上下した。
「ゲーツ、今それで標準装備か?」
「……はい」
午後の歩哨後すぐに食事に行ったゲーツは、もちろん長剣も携えている。
「よし、ゲーツ。勤務時間外だが、代わりに一緒に来るのだ。ウセルの馬に乗れ。ハナンとジーラは、ウセル侯を医者の所へ連れて行ってくれるか」
きっぱりとした口調で、グラーニャは言った。
「あの、グラーニャ様。彼は傭兵ですから……」
かまきりが戸惑ったように言う。
「大丈夫だ、キルス。お前だって見たろう、この新入りは手練れだ。万が一の時は、頼りになるぞ」
そう言って、グラーニャはひらりと白馬に乗り付ける。
「いえ、そうではなくて。傭兵ですから、有事以外の時間外労働には、上乗せ賃金を支払わなければならんのですよう」
言いながら、かまきりもひょろんと栗毛にとび乗った。
ちっ、とグラーニャは口の中で舌打ちをしたらしい。
「帰って来てから、埋め合わせは考える。それでいいか、ゲーツ?」
――いいも糞もないだろう(おっと)。
嬉しさも好奇心も顔に出ない男は、ウセルが乗るはずだった黒毛のたてがみをひと撫ですると、ゲーツは鐙に足をかけた。
弾力性のある感触は久しぶりだ。ゲーツにとっては期待の感触、まさにそのものとも感じられた。
・ ・ ・ ・ ・
すっかり人気の引いた街中をそろりと抜け、既に閉まっていた外門を開けさせて、一行はほの暗い中を東へと向かった。
かまきりを先頭に、グラーニャが続き、ゲーツがしんがりを走る。夏至に近いこの時期は、まだだいぶ見通しの利く明るさがあるとは言え、いつまでも林中の街道を行軍し続けるのは不用心であった。
恐らくガーティンローへ向かっているのだろうが、まさか夜通し駆けるつもりだろうか、とゲーツはいぶかしむ。王妃様が野宿を所望されるとも思えない。
そのうちに沿岸の街道をだいぶ逸れ、谷間の小径を進んでいくと、気温が下がって冷やりとしてくる。と、かまきりが栗毛の歩を緩めた。柔らかい明かりの漏れる石小屋が、その少し先に見える。
グラーニャとかまきりは慣れた様子でそこの馬小屋へと入っていき、さっさと馬たちの世話を済ませた。ゲーツもそれに倣う。手燭を持って入ってきた者がいる。
「グラーニャ様?」
女性だ。
「急に来て悪いな、リラ。一晩邪魔していいか」
「もちろんですよ」
母屋に通されると、がっしりした老人が、いかつい食卓の上に杯を並べている。グラーニャを見て、老人はうなづいた。
「遅くに済まなんだ、爺さま。明日、ガーティンローへ忍ぶ必要があるのでな」
言いつつ、グラーニャはその上腕に触れる。村の娘が年長者にするような、親しみ深い仕草だった。老人は無言のまま、目を細めて笑う。
「いつ来てくださってもいいんですよ。お部屋はいつも通りですから、どうぞ」
さっきリラと呼ばれた女は、こちらもがっしりした体格の老女である。
「わたしらはもう寝るところですけど、こちらの殿方は……」
「炉端で十分でございますよ。はいゲーツさん、毛布。長椅子をお借りなさい」
驚いたことに、かまきりはゲーツに丸めた毛布を差し出した。騎士が持参したものに違いない。
「……あなたのは?」
「騎士は、外套で寝るもんなんです」
初めて聞く話である。少々の寝酒をもらうと、グラーニャは老夫婦に続いてさっさと階上へ行ってしまった。
かまきりが手燭を吹き消し、ゲーツは固い長椅子上に横になる。はみ出た足に触れる空気が涼しい。
・ ・ ・ ・ ・
翌朝目覚めると、夜明けの光の中、石床に長細いものが転がっているのがゲーツの目に入った。巨大な蛾のさなぎのようだ。
外套を着たまま、そのたっぷりした襞を巧みに合わせ、頭巾の部分から丸く顔だけを出して寝ている騎士キルス侯の姿とわかった時は、爆笑の欲求と畏怖の念とが、ゲーツの胸中でせめぎ合った。
リラのくれたふすまぱんを白湯で流し込み、一行はすぐに出立する。
薄くもやが立ち込めているが、視界の妨げになる程ではない。グラーニャもキルスも、平然とした様子でそれぞれ馬の歩を進ませていた。元の街道に出て暫くすると、早朝の陽光に照らされた都市の姿が遠く見えてきた。
見通しのよい、緩やかな下り坂になってきた辺りで、グラーニャがついとキルスの横に白馬を進め、何かを話している。二人に合わせて歩調を緩めると、キルスが振り向いて手招きをした。
「ガーティンロー市街に入ってからのことですが」
キルスがきびきびと告げる。
「私は親戚の元に参りまして、テルポシエがガーティンローに向けて発した情報を聞いてきます。ウセル侯のご家人宅にも寄りますので、少々時間がかかると思います」
「俺は、知人宅を訪問する」
「なのでゲーツさんは、グラーニャ様の護衛をお願いします。話の内容まで聞く必要はありませんので、同席してもらわなくても結構ですよ」
グラーニャが渋いような表情をした。
「別に構わんだろう?」
「何度も申しますが、ゲーツさんは傭兵ですから。時間外労働をさせている上に、機密事項の守秘義務まで負っていただくとなると、これはまた契約を書き直さなくてはいけませんので……」
「またそれか」
グラーニャはうんざりした顔でキルスを見、ゲーツに向かって肩をすくめて見せた。




