11. 黒い帆の喪船
それから連日、ゲーツは歩哨に立った。
午前中は例の貧乏練兵場で、同僚の傭兵どもと鍛錬を行う。それから昼まで内壁、午後は外壁と、城壁上で過ごす。
市街地と違い、城壁の上からの眺めはだいぶ良かった。埠頭のある小さな港や湾内はもちろん、晴れた日にはファダンの岬まで見渡せることもある。海路をすべっているのは漁師たちの小舟ばかりで、海賊はおろか貿易船の姿すら見えない。
ゲーツ自身は、長い航海をしたことがない。……したのかもしれないが、まったく記憶にない。
大陸西部の≪文明地≫、ティルムン出自なのは確かである。しかし家族がどうやってこのイリー世界に来たのか、詳しいことを聞いていない。物心ついた時には、フィングラス北部の丘陵地帯で山羊たちに囲まれていた。さらに、弟なるものは奴隷か何かなのだと勘違いしている兄が二人もいる、という冷酷な現実に絶望してもいた。
山羊追いの杖を手に、ゲーツが実家を飛び出したのは十一の時である。
以来、フィングラスを皮切りにガーティンロー、ファダン、オーランと、イリー都市国家群を転々と渡り歩いた。杖を長剣に持ち替え、本音を口には出さず黙々と心の中でのみ吐き出しながら、いまだ大した怪我も負わずに生き延びているという幸運に日々驚きつつ、十数年を生きてきたのである。
自分がたまたま生きているだけ、という心持ちは、平穏なマグ・イーレに来てからも変わらない。
毎朝の鍛錬はあまり気合の入るものでもなかったが、とにかく真面目にやった。たいてい、視界のどこかにあのグラーニャの金髪がぴかぴか閃いている。
ハナンが言った通り、第二妃は本当に自主的に参加しているだけらしい。傭兵たちと模擬刀を打ち合わせることがあっても、ゆっくりと太刀筋を確かめ合う程度だった。年下の方の王子が、よく一緒にくっついている。
ある朝、素振りに集中するふりをして、ゲーツは遠巻きにその姿を盗み見た。
季節は夏に向かっている。薄手の長袖の上からも、その引き締まった筋肉が見て取れた。小柄な女にしてはいびつとも思えるほどの鍛えようで、ぱっと見には思春期の少年のようにも見える。王子と並べば、きょうだいでも通りそうだ。
――幾つなんだろう。
素朴な疑問が心に浮かんだ時、グラーニャ本人がくるりと振り向いて、こちらをまっすぐに見た。ゲーツは慌てて目を伏せたが、視線は既に合ってしまった後だった。
――やっちまった!
と、視界の隅でグラーニャがひらりと手を振る。
一瞬だったが、どきりとするほどたおやかな動作であった。思わず息を飲んで目線を戻したが、彼女は既に別の兵たちの所へ向かってしまっていた。
・ ・ ・ ・ ・
傭兵たちは、自分達が一体何人の集団を成しているのかをはっきりと知らなかった。
ゲーツが誰に聞いてみても、三十人くらい、四十人と皆ばらばらに答える。実際には、六十八人が契約を結んでいたのだが。
二十五人の組が二つあり、それぞれ時間制で城壁の警護や市中の見回りに当たらされていた。また、マグ・イーレ出身で契約をしている市民傭兵が二十人弱いるが、これは兼業の職人などだ。
貴族階級の者は、城の裏手にある区域に邸宅を構えている。と言ってもゲーツが城壁の上から見る限り、やや大きいだけのみすぼらしい古屋敷ばかりだった。
彼らのうち成年男子が騎士として宮廷に侍り、内政を左右しているのである。
騎士の総数は約五百名と言うが、領内各地の在郷者や赴任者、また市内在住でも文官職と年輩者をのぞけば、即実戦力になり得るのは百名ほどか、と見て取れた。
馬の姿はほとんど見ない。練兵場に近い厩舎には十九頭が飼われているだけで、どう見ても“軍馬”とは言えないかわいらしいのが含まれている。そして騎士たちは皆、徒歩で登城していた。貴族のうちですら、個人で馬を持てるほどの余力がないということだ。
日を重ねる程に、マグ・イーレという国の浅い底、脆弱さがゲーツの目につくようになっていった。
入り組んだ内湾と、着岸しにくそうな小さな港。さらに小高い丘陵にある城と街、という地の利に助けられているものの、人的そして物的な戦力があまりにも小さすぎる。
ひとたび戦となれば間違いなく包囲戦しかなかろうが、籠城してその先に一体何があると言うのか。どこにも退路がない。
――ああ。だからマグ・イーレ王には、奥さんが何人もいるのか。
聞いたところによると、正妃ニアヴは西国デリアドの王家につながる名門出身。さらに第二妃グラーニャは、あの東の大国・テルポシエの王女だと言う。
有事の際にはとにかく立てこもり、その間に王の妻たちの実家……すなわち他のイリー諸国による海からの援軍を待とう、というわけだ。
――なるほど、なるほど。
ようやく納得の行く俯瞰図を脳内に描くことのできたゲーツは、一人吹きさらしの城壁に立っているのを良いことに、何度もうなづいた。
――となると。内地側からの退路を断たれたとしても、あまりこたえはしないのかな?
その時、目の前に広がる青海の眺望の中に、ぽつんと黒い影がさした。東方からゆっくり突き進んでくるそれは、迷わずマグ・イーレの港を目指している。
ゲーツは直ちに石段を駆け下りて、そこにいた同僚に叫んだ。
「黒い帆を張った、中型船が来るぞ」
城への伝令を任せ、すぐに持ち場に戻る。禍々しいような黒い船の姿が、より克明に近づいてきていた。やがて、数人の騎士がどやどやと城壁の上にやってくる。
「や、あれは……。テルポシエの、王室航海船ではありませんか?」
「喪の黒帆を張っているッ」
「黒羽が帆上に描かれていますぞ!」
真っ黒な帆にさらに黒色で意匠が描かれているため実に見にくいのだが、その中年騎士はすぐさま判別した。
「大変だ……! おい君、引き続き監視を頼みますぞ」
騎士たちがばたばたと行ってしまうと、ゲーツは再び一人きりになる。波止場に、何人もの人々が繰り出していくのが点々と見えた。
すた、と小さな足音が聞こえる。
振り返ると、あの女、グラーニャだ。ゲーツと目が合うと、第二妃はそのまま真っすぐに歩み寄ってきて隣に立った。石壁の上側に小さな身体を乗り出すようにして、港を見つめる。
「ゲーツ。あの帆には、何本の黒羽が描かれている?」
いきなり自分の名を呼ばれた衝撃で、ゲーツは息が詰まった。しかしグラーニャは、意に介した風もなく続ける。
「俺はあまり遠目がきかない。黒羽は二本のようだが、どうだ? 見えるか、ゲーツ」
「……二本です」
ゲーツは何とか、絞り出すように答えた。
「たしかに二本、なのだな?」
いきなり右肘をつかまれる。
そこに込められた力の強さに、ゲーツは内心で驚く。しかし見上げてくるグラーニャの顔がごく近い、……再び息ができなくなった。
喜びなのか、怒りなのか、その両方なのか。
はち切れそうなほど緊張を湛えたグラーニャは、小刻みに唇を震わせていた。大きな翠色の視線が、ゲーツの胸を刺す。あの日、短剣を押し当てられた時と同じ感覚が、体内に疼いた。
「黒羽の喪章が二本、ということは。王と女王が……ともに死んだのだ」
引き結んだ唇の端をきゅっと上げて一瞬笑うと、グラーニャはくるりと身をひるがえす。そのまま振り返ることもなく、速足で城壁を降りていってしまった。
その姿が見えなくなった途端、猛烈な動悸がゲーツの頭の中に響く。
右肘はいつまでも、熱を帯びていた。




