1. 獅子の喊声
とある春の夜更け。
暗闇の海の中、まばゆい灯りにその輪郭をふちどられた島が、ぽかりと浮いている。
「いざ、来たれ」
吹き過ぎてゆく風の中にも、その西方なまりの男の声はよく通った。
「いざ来たれ 群れなし天駆ける光の粒よ、高みより高みよりいざ集え」
男たちの声は増える。
いま西方なまりの声が五人分、一糸乱れぬ詠唱を紡いでゆく……。
この世の底から響いて来るような、乾いた低声が魔術を紡ぐ。
「……」
女は瞬きをした。
ついにこの日が来た、自分の望みの実現する時が。
喉元にまで下げていた鎖鎧に、女は小さな左手で触れる。留め具の環をひたいに掛ければ、彼女の小さな身体はその双眸以外、すべて鎖の防御に包まれた形になるのだ。
しかし、グラーニャ・エル・シエはそうしなかった。口角を片方、ふっと上げて皮肉に笑う。
――いやいや、まだだ。戦を前に、俺は声のかぎりに叫ばなくてはならない。
「集い来たりて 我らを運ぶ浄きあまたの羽となれ 我らが旅路をいざ翼けよ」
グラーニャの身体のまわり、彼女の御す白い軍馬のまわりに、蟲の灯りのようなものが無数に湧き上がってまとわりついた。それは彼女の全身を、闇夜の中に明るく浮かび上がらせる……。
銀兜の後頭部につけられた白鳥羽根、白い騎士外套。その背に刺繍されているのは、≪星をいただく黒羽の女神≫の国章。同じ意匠の細長軍旗の柄を、グラーニャはぐうっと握りしめた。
「理術・≪早駆け≫! 援護、完了ッッ」
西方なまりの男の声が、グラーニャの耳に届く。
グラーニャは振り返り、左右をすばやく見渡した。同じく光の粒をまとう軍騎がずらりと並んで、彼女の指揮を待っている。
「――第一騎陣! 前へ!!」
グラーニャは咆哮した。
すい、と白馬を進める。彼女の軍のその最前列に沿って、騎士と傭兵らを鼓舞する風を起こす。背後、影のようについてくる存在の気配を確かに感じつつ。
ぎいん!
大海原に見えるのは天然防壁たる湿地帯。その暗い草原のむこうに、明るく浮かび上がる光の島……。
城塞都市テルポシエを、グラーニャは見据えてにらみつけた。
彼女自身の故郷に、そこで起こった過去に。
射抜くような翠の眼光をぶつける。
――この故郷を滅ぼす。そして抗いかたを知らなかった、あの頃の弱い自分をともに滅ぼす!
すうっ! グラーニャは息を大きく、吸い込み――咆えた。
「第一騎陣!! 行っっけぇぇぇぇ!!」
ときが来た。
打ち倒すべきものに向けた最大限の闘志を胸に、グラーニャは湿地帯の大海原に騎り出して行った。
≪白き牝獅子≫の掲げる旗の後ろ。
濃灰色外套をひらめかす騎士と傭兵たち、グラーニャ・エル・シエ率いる精鋭部隊の駆る軍馬たちが、波のように続いてゆく。
・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・
こん、こん……。
厚い扉の叩かれる音を耳にして、グラーニャは自室の出入り口へ飛んでいった。
かちゃん! 錠を上げれば、そこをすうっと押すようにして、音なくしなやかに入ってくる大きな影。
「!!! オー……」
リフ、とグラーニャが呼びかけた男の名前は、その本人の唇によって飲み込まれてしまった。
ぎゅうっと吸われる接吻から、熱いあつい幸せを小さな身体いっぱいに注ぎ込まれる感覚がして、グラーニャはのぼせる。
実際、彼女の心と身体とは沸騰直前になっていた。ようやく離されたとたん、鼻孔に若い騎士の匂いが入ってくる。
「んもう。駄目でしょ、いきなり錠を上げたら。こんこん二回に対し君が一回叩き返して、もう一回私が叩いてから開けるんだって。何度も言ってるのに……」
「待ってたのよー!! オーリフ、わたしのオーリフ!」
「あはは、相変わらず話が通じないねー」
グラーニャにむけて身体をかがめていた騎士は、にこっと笑った。
燭台のにぶい蜜蝋灯りに照らされても、なお鮮やかな草色外套の袖いっぱいに、騎士はよいせとグラーニャを抱き上げる。
「ほんとにかわいいな。君は」
潤んだような翠の瞳。その双眸がこんなに近くにある、自分だけを見ているというその事実に、グラーニャは完全に酔っていた(と言っても、実際にお酒の類を飲んだことのまだない彼女であったのだけれども)。
数多いる若手騎士たちの中でも、いちばんいけてるオーリフ・ナ・ターム。そのオーリフが自分を、他でもないグラーニャを好いて、もうひと月以上室に通ってきているという事実!!
「あのね。わたし、あなたが好いの。ほんとの本当に、いいの」
「嬉しいなあ」
「だからね、オーリフ。ずっと一緒にいて? わたしだけの、オーリフになって」
「なってるでしょう、今はもう」
ふふふ! と端正な顔で微笑まれては、もうだめだ。初めての恋にいきなり大本命をあててしまった、とグラーニャは運命を信じる。なんて幸運な自分!
グラーニャは両手で、オーリフのほっそりした頬をはさんだ。
いま手のひらの間に、自分が生まれてきた意味と幸せと永遠とがある。
――こんなにきれいなものがある世界! オーリフのいる世界! わたしはそこの、真ん中にいる……!
グラーニャは、じわりと泣きたくなった。
――少しずつでいい。オーリフが、絶対にわたしから離れられないようにしてみせる……。わたしを降嫁して、ターム家に迎え入れるしか道のないようにしてあげるんだから!!
目標実現の具体的な方法は、全く見当たらない。
けれどグラーニャはとりあえず今夜も、自らの決意を新たに心に誓った。この世でいちばん大切な、恋人のその腕のなかで。