座頭市3
市は街の宿屋を探していた。
花村組の女は最初、自分たちの屋敷に客人として招くと言っていたが、市もおちおち眠れないような場所は避けたかった。
話が広まるのはどれほどの早さか。今にも刺客がやってくるのではと思うと、自然と市の口角が上がる。
夕暮れに染まる江戸の街。やがて市は、人混みの中に只ならぬ気配を感じた。
腰に刀を提げた剣士。真っ直ぐにこっちへと歩いてくる。大柄だ。このままではぶつかってしまうかも知れない。
市は敢えて体を揺らしながら歩いた。腕に、相手の袖が触れる。感触はそれだけで、暖簾を押すような軽いものだった。
避けられたか。
つまらなさそうに口を曲げると、すれ違った男が声をかけてきた。
「おい、アンタ」
「……なんでしょう」
歯の奥に喜色を隠して、市は答える。
「旅の者か?」
「ええ」
「奇遇だな。俺もだ」
ハハハと、何が面白いのか男は剛気に笑った。
「それにアンタ、剣客だな」
「へへ、精々身を護る程度のものでさぁ。旦那ほどのものではありやせん」
「どうだか。既に何人か斬ってるだろう。そういう感じがしてる」
男はずんずんと市に近づき、腕を掴んできた。
殺気は無い。抵抗せず、しかし市は首を傾げる。
「この街に宿屋は1つしかねぇ。何かの縁だ。案内するぜ」
「こりゃあ、優しいお人だ。助かりやす」
流石にこの往来で抜くはずもないか。
市は男に引かれるまま、江戸の街を歩いた。いくつか角を曲がったところで、男が市から手を離した。戸を引く音がする。
「おうおっちゃん、まだ部屋空いてるかい」
「おかえりなさい旦那。さっき旦那が取った部屋で最後でさぁ」
「そうかい。そうだな、あの部屋広いからよ。ちょっと連れを入れても良いかね」
「わかりやした。布団がいりますかい?」
「もちろんよ」
「あとで持ってきやす」
簡単なやり取りを終えて、男が再び市の腕を取った。宿屋の二階に案内される。
「いやぁ悪いね、盲のアンタを連れ回しちまって」
「アンタの陽気な喋り方を聞いてると、謝ってる割に反省してねぇんじゃないかって思えてくる」
「そりゃあよ、こっちは親切してやってると思ってるからな」
「ふふ。実際あっしも助かりやした。例を言いやす」
「良いってことよ。お返しと言っちゃあなんだが、アンタの話を聞かせてもらえないかね」
「あっしの話ですかい?」
「おう。盲の剣客なんざ見たことねぇ」
「へぇ。聞いてもつまんねぇと思いやすがね」
彼の溌剌さがそうさせるのか、市と男は語り合い始めた。
男の名は「斎藤」ということ。名乗る名前は気分や時期で変えているから、名の知れた剣豪ではないと。
「名乗る名がないってのはまた、珍しいもんで。斎藤さんの剣はどこの流派で?」
「流派か。わざわざ名乗って広めたいほど、教えを賜ったものはないな」
「ほう。となるとその剣は我流ですかい?」
「そうなるな。強いて言うなら虎眼流とでもいうか」
「コガン? 聞いたことのない流派だ」
「今適当に言った。忘れろ」
カカカ、と斎藤は口を広げ、そして市に問を返した。
「じゃあお前さんの流派はなんだい」
「あっしですかい? そりゃあ、あっしも我流でさぁ。古今東西さがしても、目が見えない者の為の流派など存在しない」
「なるほどな。まぁ、俺もそんな感じだ」
そんな感じ、とはどういう意味なのか。市が言葉の真意を問いかける前に、斎藤が遮る。
「剣技は、流派は、普通の人間のためにあるものだが。剣は違ったな」
「それはどういう意味で?」
「さっき市さんが言ってたろう。自分は生きるために剣を取ったと。もう時代は江戸だ。普通の人間が普通に生きていくなら、剣なんてものは必要ない。だのに、剣術流派は只人のためにある。
目の見えないアンタが、自分が生きていくために必要なのは剣だ。と言っているのにな」
「確かに。どこか落ち着けるところを見つけたら、当道者でもできる剣術を教えましょうかね」
「そりゃあ良い。奴らの芸も増えるだろうぜ」
市の眉がピクリと跳ねた。
当道者たちの多くは楽器の演奏や按摩、針治療などで小銭を稼いでいる。勿論相手は目明きの者達だ。彼らのご機嫌を伺いながら、時には道化さえも演じる。
許せないことだった。当道者でありながら高い役職を得た者も勿論居る。だがそれもあくまで将軍に仕える按摩師、といった具合だ。
目の見えぬ欠落者が目明きに媚を売り、情けを貰って生きている。そんな彼らの商売道具に、己の剣が成り下がるのか。
虫酸が走る。
「気が向いたら、やりますか」
「……赤、だな」
「はい?」
「市さんアンタ今、少しだけだが殺気が漏れてたぜ。赤色だ」
「ああ。色のことですかい。すいやせん。あっしは、目が見えないもんで」
「そうか。カカ、悪かった。ついな」
斎藤の笑い方には、先程よりも少し強張ったものが混じっていた。
「して、その赤色っつーのはどんな色ですかい?」
「ほう。どんな色か。難しいな」
「何か別のもので例えるとか」
「うーん。赤はそう、やっぱ血と女の色だな」
「あらら、あっしからそんなに女の匂いがしますかね。しまったな」
「わかってるくせにはぐらかすなぁ、そっちじゃないよ。そうだな、気になるならちゃんと着物は洗ったほうが良い」
「ふふ、着物を洗っただけじゃあ、取れるもんじゃありませんよ。これは」
違いない、と斎藤が答えたところで、話を遮るように戸が叩かれる。
「布団でも持ってきてくれたんだろう。市さんは座ってな」
そう言って斎藤が立ち上がった。市が神経を巡らせる。
すれ違ったときから思ったが、少し特殊な重心移動をしている。我流の剣技がそうさせるのだろうか。少なくとも、達人には違いないだろうが。
先程の話で、市は斎藤の剣に興味が湧いていた。機会があれば一度刃を交えてみたいと思った。
そしてきっと、斎藤もそうだろう。あれだけ市に質問をしてきたのだから。
いつもなら迷わずコイツを抜いているところだが。
市は親指で仕込み刀の鯉口を撫でる。しかし抜刀することはない。斎藤が市を視界の端に入れた気配がする。
やめておこう。今はその時ではない。
斎藤の話術に絆されたのか、市は少しだけ放った殺気を解いた。そして決める。今じゃなくてもいずれ、どちらかがこの街に屍を置いて帰る事を。
届いたはずだ今の殺気は確かに。斎藤が刃を交えるに足る技量があるのなら。
斎藤が感じたものは、抱いた願いはきっと市と同じモノだろう。