8. 塔の人々(下)
いくつもの階段を下りて応接室のある階層に辿り着く。空は先程よりも随分と夜の空気を纏っており、廊下は明かりで満たされていた。
廊下のような公共の場では、明かりは管制室で一括管理されている。騎士の内の担当者が管制室にある魔力供給機に魔力を補充し、それをエネルギーとして諸々の魔道具を動かすのだ。そのため、担当者の魔力量によって多少明るさが左右されてしまうのだが、それも味だと感じていた。
(今日は少し魔力量が多い者が担当だったらしい)
そんなことを考えていると、前方からヴァイスハイトが駆け寄ってきた。
「カシェ! 待ってたぞ! 今日も残ってたのか?」
「ああ、少し団長に用事があってな」
「団長に?」
待たせすぎて迎えに来たのだろう。何かあったのかと問うヴァイスハイトに、大したことはないと伝える。
「それよりヴァイスはこんな時間まで残ってどうしたんだ?」
(ヴァイスは今日、当直ではないはず……それに、管制室の担当はまずないだろうに)
ヴァイスハイトが当直以外でこの時間まで残っているのは珍しい。なんだかんだと彼は家族で一緒に食事を摂ることを大切にしているためだ。本人に言わせると、いつ自分が亡くなるかわからないから、と。
多くの騎士がヴァイスハイトと同様の意見を持っており、どれだけ忙しくても夕食前に帰る者がほとんどだ。その分、急ぎの書類はレイモンのような居残り組に回ってきてしまう。
そのような背景から、疑問に思って尋ねる。すると、ヴァイスハイトは待っていましたとばかりに話し始めた。
「さっきまで部下に頼まれて稽古をつけてたんだけどさぁ」
昼間の懐っこい後輩のことだろう。何かあったのかと耳を傾ける。
「彼奴、俺のこと隊長だって認めてないんじゃないかって思うんだ……」
そう、深刻そうな顔で言葉を続けた。仕様もない。真剣に聞いていたことが馬鹿馬鹿しくなり、カシェは思わず半眼になった。
「ずっと先輩呼びだしさぁ! 終いには、『ヴァイスハイト先輩って中隊長の補佐になったんでしたっけ』だぞ!? それはもう隊長じゃなくて副隊長なんだよ!!」
「……ヴァイスは揶揄いやすいからな」
普段の彼ならばなんだかんだと笑って流すのだが、今日は余程鬱憤が溜まっているのか、徐々に声を荒げていく。それをどうどうと宥めすかし、後輩のことを記憶から引っ張り出した。
(確かに言い間違えてはいたが……いきなり呼び方を変えるのは難しいのだから仕方あるまい)
とはいえ、何度もとなるとそれはもう完全に反応を楽しまれているのだろう。しかし、ヴァイスハイトは納得がいかないと食い下がった。
「でも他の人も同じような感じだし……俺もしかして隊長としての威厳ないかなぁ」
随分と弱気な発言だ。普段は堂々とした兄貴分らしい姿しか見せていないのに。こんなにも気にしていたのかとカシェは一驚した。
「……人はその役職ではなく、君自身を見て付いてくるんだ。気安い態度で周りが君に接するということは、反対に君が気安く付き合えるように努力しているからじゃないのか?」
「俺が努力した結果、か……」
なるほどなるほど、とヴァイスハイトがカシェの言葉を飲み込むように何度も頷く。やがて、霧が晴れたように輝きを露わにし、カシェの背を何度も力強く叩いた。
「確かにそうかもしれん!!」
「嬉しいのは構わないが、加減しろ……!」
ヴァイスハイトはすまんすまんと謝りながらカシェの肩に腕を回し、陽気に鼻歌を歌う。すると、強烈な酒の香りがカシェの鼻を擽った。
「ヴァイス、酒を飲んだのか……!」
道理でいつもより絡み方がしつこいわけだ。一体どれだけ飲めばこうなるのか。カシェはヴァイスハイトの腕を肩から叩き落とした。
「ちょっとだけしか飲んでねぇよぉ」
「そんなわけないだろう」
ヴァイスハイトは騎士の中でも酒に強い方だ。いつも何杯もジョッキを傾けようがけろっとしている姿を見ている。それがこの有様なのだから、誰がヴァイスハイトの言うことを信じられようか。
「ほら、そんな状態で残っていたって何もできないだろう。馬車まで連れて行こう」
「さんきゅぅ!」
機嫌の良さそうなヴァイスを連れて再び長い廊下を歩く。ふと、応接室で待つほどだったのに、用件はこれだけだったのだろうかと疑問が湧いた。
「そういや、カシェは何でこんなところにいたんだ?」
「え? 君が応接室で待っていると言われて来たんだが……」
徐々にカシェは胸騒ぎを覚えた。よくよく考えずとも、レイモンはヴァイスハイトと明言してはいない。それどころか、ある方と称していた。副団長であるレイモンが、部下であるヴァイスハイトのことをそのように言うだろうか。
(ランゲ家の爵位に騙された……)
背後で、ギィ……と扉が開かれる音がした。その後、コツコツと音が廊下に響く。その音に気付いたヴァイスハイトが首を伸ばして後ろを見た。
「あ……? アダラール殿下じゃないっすか」
足音がカシェのすぐ後ろで止まった。
***
小綺麗な応接室の中。一人は冷や汗を流し、一人は退屈そうな顔を浮かべ、そしてもう一人は直視できない程の輝かしい表情を湛えていた。
「……第三王子殿下、お待たせして大変申し訳ございません」
「いいや。来てくれて嬉しいよ」
そのあまりにも麗しい微笑にカシェは目を細める。どうしてこのような状況に陥ったのか。カシェは全く思い当たらずにいた。
「その、殿下は」
「どうかアダラールと呼んでくれないだろうか?」
「ですが……」
「……駄目だろうか?」
第三王子ことアダラールが目を潤ませるようにして懇願する。駄目ということはないが、できることなら面倒事は避けたい。そんな後ろめたい理由も、純粋な目を見てしまえば音を立てて崩れ落ちる。
「……アダラール殿下は私に一体何の用でしょうか」
諦めてその名を呼ぶと、アダラールの輝きがより一層増したかのように錯覚した。そして、その嬉しそうな感情を隠すこともなく言葉を紡ぐ。
「まずは、私を助けてくれてありがとう」
「当然のことをしたまでですので」
「いいや。あの時、君が来なければ僕は確実に殺されていただろう……」
先程まで微笑んでいたアダラールの顔に影が落ちる。口元は変わらず笑んでいるものの、どちらかというと自嘲しているかのようだった。
何か慰めになるようなことを言った方がいいのかもしれないが、生憎とカシェはそういった会話を苦手としていた。
「私が行かなくとも、他の騎士がアダラール殿下の元へ駆けつけたと思いますよ」
結局、気の利いた言葉は出てこなかった。居心地が悪く、つい視線が下方へと向く。すると、カシェの手が別の温もりに包み込まれた。
「そんなことなぁい。俺の親友はすごい奴だ!」
「ヴァイスの言う通りです! 僕は心から貴方を尊敬します!」
顔を上げると、酔ったヴァイスハイトがカシェの手を握っている。アダラールもまた、カシェの手を握って言った。
「貴方は僕の英雄なんです!!」
アダラールのあまりの熱量に、カシェは無理やり頷かされる。若干身を引くカシェの様子に気付き、アダラールはコホンと咳払いをして話を続けた。
「そんな貴方にこんな苦労を掛けてしまうことが心苦しくて仕方がないのだが……」
「何でしょうか」
「妹に……注意して欲しい」
「それは……何故、ですか?」
「……私にもわからない。ただ、私には妹が不気味でならない……何かとんでもないことを仕出かしそうな気味の悪さを感じるのだ」
アダラールの言う妹とは、末の王女のことだろう。騎士を使ってまで薬を盛ろうとした人物だ。その目的が何であれ、警戒するに越したことはない。
アダラールにも掻い摘んでその旨を伝える。
「やはり既に動き出していたか……」
「王女の目的は何なのでしょうか?」
カシェの問いに、アダラールは頭を振った。
手がかりもなく、密かに落胆する。アダラールは申し訳なさそうに視線を落とした。
「目的はわからないが、元々妹一人ではそのようなことはできないはずだ……裏に別の人物がいると考えた方がいい」
(殿下の仰る通りだ)
王女は高貴な存在ではあるが、機密を扱うこの塔においてはそのようなことは一切考慮されない。それは、後継者以外の手に軍事機密が渡ると、悪用される危険があるためだった。そのため、例え王族であったとしても立ち入れるのはこの応接室のある場所までだ。
第三王子であるアダラールが塔に自由に出入りできるのも、王子としての立場ではなく騎士としての立場があるからである。勿論、他の貴族は一歩も立ち入ることが許されないことを考えると、まだ王族への規制は緩いと言えるだろう。
唯一の例外が、塔の使用者、つまるところ騎士の中でも中隊の副隊長から上に位置する人物の侍従であった。これは、カシェやヴァイスハイトのように貴族階級にある騎士が屋敷と連絡を取れるようにという配慮だ。この場合、厳しい検査の末に漸く立ち入りが許可される。グリフもそうした検査を受ける際に賄賂の茶菓子を渡してきたのだと推測される。
(グリフが執務室まで立ち入れたのは、偏に人の懐に上手く入り込める才能故だろうな)
こうした理由からも、昼間の件は一部の騎士の腐敗を示したと言っても過言ではなかった。しかし、腐敗しているとはいえ、一介の騎士がリスクも考えずにたかだか王女程度に従うとは考えにくい。何せ騎士団は国王、ひいては国に仕えているのだ。己の行動が反逆罪に成り得るとは考えないのだろうか。
色々と考えるべきことはあるものの、上手く考えが及ばない。どうやらアダラールも同様のようで、頭を抑えて言った。
「兎に角、妹のことは僕も見張っておく」
「有難く存じます」
アダラールは、カシェの礼に軽く頷く。そして、いつの間にか眠りこけていたヴァイスハイトを背に担ぎ、ゆっくりと立ち上がった。
「従兄殿は僕が連れて行くから、君はもう休んでくれ」
そう言い残し、アダラールはヴァイスハイトの足を引き摺りながら部屋を後にした。その間、ヴァイスハイトが目覚めることはなかった。
***
星が雲に隠され、暗闇が明かりを飲み込む。風が窓を叩く音が、何とも言えないざわめきを心に生み出した。人々は、孤独から逃れるために夢へと意識を落とす。
自身を守る、夢の中へと。
カシェも夢を見ていた。暗い、昏い夢を見ていた。藻掻いても藻掻いても暗闇はカシェに纏わりつき、飲み込んでいく。
嫌だ、と強く望む。だが、何が嫌なのかはわからない。
身を裂くような後悔だけがカシェの中に残っていた。手を伸ばしても、助けを求められるわけではない。
(何故、何故……)
どうしてこんなにも心が痛むのだろうか。カシェには思い出せなかった。己が悪いのだという意識だけが暗闇の中で募っていく。
思考することを止め、暗い水の動きに合わせて揺蕩う。
長い、長い夜だった。