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7. 塔の人々(上)

 空が穏やかな橙色に染まる頃。影法師が薄暗い廊下に伸びる。真っ直ぐに伸びた影は、まるで二人の胸裏を隠すように深い暗闇を表している。

 影の一つが立ち去ろうと動くと、すかさずもう一つが引き留めた。


「あのなぁ……私は定時には帰りたいんだ。お前と違ってな」

「失礼な。私だって帰れるものなら帰りたいですよ」


 同じような問答を始めて早十数分。影法師ことカシェとアレクサンドルは廊下で言い争っていた。


「大体、話なら明日だっていいだろう! 独り身のお前とは違って私は家に帰って妻と娘と一緒にディナーする約束があるんだよ!」

「……知ってるんですよ、彼女が反抗期だってことは」

「ぐっ……!」


 言い争いの末、アレクサンドルは強烈な一撃を受けた。

 確かにアレクサンドルの娘は最近反抗期だが、それをアレクサンドル自身が誰かに話したことはない。何故カシェがそれを知っているのか。アレクサンドルが動揺で二の句が継げずにいると、ふと真顔で親指を立てる男の顔が頭に過った。


「グリフか……」


 苦虫を噛み潰したような顔で声を絞り出す。カシェが呆れたようにアレクサンドルを見た。


「見栄を張っても仕方ないでしょうに」

「やめろやめろぉ……男には認められないことだってあるんだよぉ……」


 叔父の情けない姿に、カシェは憐れみの目を向ける。チクリと刺さる視線にアレクサンドルは肩を落とした。その拍子に、手に持っていた鍵がチャリンと音を鳴らす。


「さあ、約束もないようですし、少しお聞き願えますよね?」


 カシェが容赦なく、アレクサンドルの手にある鍵に指を掛ける。アレクサンドルが抵抗をすることなく手の力を緩めたため、それを同意であると受け止めて鍵を抜き取った。

 そのままカシェがアレクサンドルに背を向けて歩き出すと、恨みがまし気な声を掛けられた。


「……お前がわざわざ来るってことは絶対面倒な話じゃねぇか」


 どうやら諦めはしたものの、足取りは重たいようだ。

 行かなくていいなら行きたくないという想いはカシェにも届いていたが、気にせずに歩みを進める。すると、カシェの背後から長い溜息が聞こえてきた。


「ほら、早く帰りたいならさっさと行きますよ」


 中々着いて来ようとしないアレクサンドルを急かす。その声でアレクサンドルは渋々と足を動かした。

 二人の立ち去った廊下には、もう一つの影法師が揺らめいていた。


***


 アレクサンドルに割り当てられている執務室の扉を開ける。ひんやりとした空気がカシェとアレクサンドルを迎え入れた。日のある内には春の気配を感じるとは言え、まだまだ冷え込む季節。アレクサンドルは身体を震わせながらソファに腰を下ろした。カシェも扉を閉じてアレクサンドルの隣に座る。


「それで、叔父さんに何の話があるっていうんだ?」


 投げやりな態度で問われる。それでもしっかりと聞いてくれるようで、カシェはほっと息を吐く。

 暫くの沈黙の後、足の間で組んだ手を見つめながらカシェはぽつぽつと話し始めた。


「叔父さんは驚くかもしれないのですが……」

「そういう前置きはいいから」


 話し始めて早々に遮られる。こちらも一呼吸置きたいのだが、と思うものの、アレクサンドルの時間を貰っている手前引き延ばすわけにもいかない。内心では苦く笑いながらも、有難く本題に入ることにした。


「今ファーガス領の屋敷に私の弟が滞在しているそうです」

「ふぅん、弟……弟!?」


 アレクサンドルは一瞬どうでもいいという顔をした後、目を落としそうなくらい見開いて声を荒げた。無理もない、とカシェが頷く。もし自分がアレクサンドルの立場であれば、言われた言葉を頭の中で反芻させながらも理解できずにいただろう。


「あ~……つまり、何だ。兄さんには息子が二人いた、と……いたか?」


 必死に言葉を紡ごうとするも、上手く言葉にならないようだ。もしかしたらアレクサンドルが会ったことがないだけで、息子が二人いたのかもしれない。そんな一縷の希望が込められた視線がカシェに向けられた。しかし、無情にもカシェは首を横に振り、アレクサンドルの甘い考えを打ち砕く。


「母は私を生んですぐに亡くなったというのに、弟がいるはずがないでしょう」


 そこには懐かしむような音も悲しむような色もない。ただ純然たる事実を語っているのみであった。思い出が一つもないのだから仕方ないとも言える。

 アレクサンドルは若くして儚くなったカシェの母親を思い出した。線の細い、雪のような女性。カシェが生まれることを誰よりも待ち望んでいた美しい人。


(こんなに立派に務めを果たしたと知れば、二人とも喜ぶだろうか)


 カシェの胸元に輝くバッジを見て思う。恐らく彼らならば驚き、心配した後に我がことのように大いに喜ぶのだろう。願わくは、それがカシェに届いていて欲しい。


「それならば私生児……腹違いの弟というわけか……」


 胸中を隠し、アレクサンドルが神妙な顔をして呟いた。


「アレクサンドル叔父上は父上がそのような不義理な人間だと思っていたのですか?」


 カシェの冷たい視線が突き刺さる。そのあまりに鋭い視線に、アレクサンドルは慌てて首を振った。


「そんなわけないだろう! あんなに一途な男が多情なわけあるか!」


 彼の言う通り、カシェの父親は昔から母親を恋い慕ってきた。それは吟遊詩人にも燃え上がるような恋として語られ、首都を中心として広く知れ渡る程だ。

 カシェは父親によく似た顔立ちをしている。そんな彼の父親は、母親との結婚以前も、またその後も貴婦人方に大変人気があった。しかし、父親が再婚することはなく、視察や仕事以外で家を空けることはほとんどないに等しかった。


「だが、そうでもなければ弟なんて表現が出るわけもないだろう」

「正確には、義弟のようですね」

「義弟? 養子をもらっていたというのか?」


 確かに後継者がいない貴族は遠縁から跡取りを連れてくることがある。しかし、ファーガス家には立派な後継者がいる。カシェが男でなければ養子も有り得ただろうが、嫡子がいるのに養子を取るのは争いの種になりかねない。火を見るよりも明らかだというのに、あの頭の回る男がそんな浅はかな行動を取るだろうか。


「まさかそう騙っているだけじゃ……」


 カシェの父親が行方不明になってからもう数年が経過している。今ならば記録も有耶無耶に、養子として名乗ることができると考える輩がいないとも限らない。

 カシェもその線は考えていた。


「その場合、マルクが握り潰しているのではないかと」


 好々爺然とした家令が速やかに排除している姿が思い浮かぶ。アレクサンドルも深く納得し、同時に冷や汗をかいた。

 マルクは代々ファーガス家に仕える家系で、アレクサンドルが幼い頃から執事として働いていた。情報の扱いに長けており、マルクならば屋敷の内外に関わらずどのような情報でさえも知っているのではないかと思わされる。表面的には噂好きの御老体である。

 しかしその実、アレクサンドルの剣の師であり、年老いた今でもカシェはおろかアレクサンドルでさえも一筋縄ではいかない実力者だ。そんなことは一切表に出さないため、舐めてかかった者は大抵痛い思いをする。グリフなどはその典型例で、今でも屋敷に戻ると扱かれていた。


「師匠なら確実に潰して何の報せも寄越さないだろうな」


 想像に難くない。恐らく笑顔でその人物の情報を集め、物理的にも社会的にも打撃を与えるに違いない。そんなマルクが、今回に限っては緊急の報せとして手紙を送ってきた。


「第一関門は突破したってことか」

「……この先は、私が当主として見定めなければなりません」


 事実であるかどうか。そして、その弟と名乗る人物の目的を。


「行くんだな」


 アレクサンドルの問い掛けにカシェは静かに頷いた。私情で騎士団に迷惑をかけることに申し訳なさを覚える。戦が終わり、少し落ち着いた時期であったことは不幸中の幸いだろう。


「ついでに休めなかった分も休んでこい!」


 暗く沈み込むように項垂れるカシェの頭上から、からからと軽快な笑い声が降ってきた。その声の明るさに、カシェは胸の内に淀んでいたものが吹き飛ぶような気がした。


「遠慮なく」


 カシェの顔色が良くなったことに気付いたのか、アレクサンドルがにっと笑い、頭を乱暴に撫でる。その手を払い除けると、アレクサンドルは膝を軽く叩いて立ち上がった。


「じゃあ景気付けに美味い酒でも飲むか!」


 そのままいそいそと壁際の本棚に向かい、本を取り除く。そんなところに隠していたのか。さながら泥棒のようにこそこそと探っている様子を胡乱げに見守る。すると、取り除かれた本棚の奥に、取手のついた壁が現れた。


「お前、これ絶対にばらすんじゃないぞ」

「誰にですか?」


 取手に手を掛ける前に、振り向いてカシェにくぎを刺す。その様は、とっておきの秘密を教えた子どものようだ。


「あの怖ぁい冷血漢にだよ!」

「ほう、それはもしや私のことですか?」


 カシェの背後から小さく扉の音が聞こえたかと思えば、穏やかな声がアレクサンドルに向かって尋ねた。その声を聞いた途端、アレクサンドルの身体がぴしりと固まる。


「メルシエ副団長」

「おや、ファーガス司令官殿もこちらにいらっしゃったんですね」


 アレクサンドルにのみ意識を向けていたのだろう。カシェが振り向いて声を掛けると、メルシエと呼ばれた男はぱちくりと目を瞬かせた。


「……いつものように話してください、副団長」

「昇格の件はお聞きになったでしょう? 今の貴方は司令官という立場なのですから」

「立場と言うならば、私の所属は以前と大きく変わらず、アレクサンドル連隊だと聞きました。権限も中隊長に等しいのでは?」

「とは言い切れないのですが……」


 メルシエの眉が八の字の形を描く。困らせていることはわかるが、自分よりはるかに上だと思っていた人から突然敬語で話されると妙にそわそわと落ち着かないのだ。その気持ちを汲み取ったのか、メルシエは仕方なさそうに首肯した。


「ではせめて私のことはレイモンと」

「ありがとうございます、レイモン副団長。私のことはカシェとお呼びください」

「ええ。機会があれば」


 妙な空気が流れる。まだ己の名が呼ばれるには力が及ばないらしい。だが、滅多に名前で呼ぶことを許さないレイモンがそれを許したことに対し、カシェは少しは認められたような気がした。

 さて、とレイモンが話を区切る。その目がカシェの後ろに向いた。カシェも視線を追って振り返ると、そこには窓枠に片足を乗せた状態でこちら側を見ているアレクサンドルの姿があった。アレクサンドルの口には一欠片のチーズが含まれており、両脇にはワインのボトルが挟まれている。

 そのあまりにも残念な叔父の姿に、カシェは頭を抱えたくなった。


「そんなところから逃げようとしても無駄ですよ!」

「叔父さん、人様の迷惑になるようなことはお控えください……」


 アレクサンドルの執務室は地上からかなりの高さがあるのだが、誰も彼が飛び降りた後の心配はしない。アレクサンドルはふごふごと不服そうに口を動かした。


「うちの叔父がすみません、レイモン副団長……」

「いえいえ、お互いに苦労しますね」


 互いに顔を見合わせ、遠い目をして笑う。その間に素早くチーズを飲み込んだアレクサンドルが噛み付いた。


「おい、カシェ! お前、私への対応と全然違うじゃないか!」

「当たり前でしょう……。こんな情けない叔父と憧れの人を比べることすら烏滸がましい」

「おや。嬉しいことを言ってくれるじゃありませんか」


 尊敬できるところはあるものの、人を散々振り回して残念な姿を晒す人物と、常から仕事に忠実で部下や上司の統率に優れている人物。残念ながら、カシェの中では後者に軍配が上がったようだ。

 アレクサンドルが悔しそうにレイモンを睨み付ける。対するレイモンは何処吹く風とばかりにその視線を流し、さっさとアレクサンドルの首根っこを引っ掴んだ。


「それではこの馬鹿は借りて行きますね」

「うわっ、ちょっと待て! 私はもう帰るんだ!」

「何をふざけたことを……貴方のせいでこっちは仕事が溜まってるんですよ! 今日こそはきっちりかっちりと仕事してもらいますからね!」


 そして、その状態のままアレクサンドルを引き摺り、扉へと向かう。扉から出る直前、カシェは思い出したように言葉を発した。


「すみません、少しお耳に入れておきたいことがありまして」

「ほう?」


 レイモンが立ち止まって続きを促す。されるがままになっていたアレクサンドルも、引き摺られていた足を地に付けて体勢を整えた。


「どうやら騎士団の中でも綻びが生じているようでして」

「というと?」


 興味深そうな声に、カシェの執務室で起こったことを話した。話が進むにつれて、どちらの顔も真剣さを増していく。


「……支給品への薬物混入と、無許可の王女の立ち入りですか」

「舐めた真似をしてくれるじゃねぇか……怪しいのは警備を担当した騎士か?」

「恐らくそうかと。機密を扱う場であるという意識が乏しいようですね……」

「もう一度締め直す必要がありそうだな」


 アレクサンドルが歯を剥き出して笑う。その好戦的な姿に、普段からこれだけ頼もしければ、とレイモンは肺の底から空気を吐き出した。だが、身内のためならどれだけ面倒なことであれ、手を抜くことはない。そんなアレクサンドルの性格をレイモンは好ましく思っていた。


(そういう点は彼にも引き継がれているのかもしれませんね)


 レイモンはアレクサンドルの唯一の弟子を見やる。そして、言い忘れていたことを思い出した。


「そう言えば、ある方が貴方のことをお待ちですよ」

「ある方、ですか?」

「ええ。応接室にてお待ちいただいておりますので、急いで向かった方がよいかと」


 カシェは首を傾げながら、レイモンの言葉に従った。


「では、私はこれで失礼します」


 足早に執務室を後にする。その後ろ姿を目で追いながら、アレクサンドルは疑問を口にした。


「……なんで私の居場所がわかったんだ?」

「ある方に教えていただきまして」


 しらっとぼかした答えが返ってくる。その態度に、アレクサンドルはある方に関して凡その予想が着いた。


「なんと哀れな」


 もうカシェの後ろ姿も見えない廊下の先を見つめ、呟く。

 レイモンも心の中でカシェを憐れむ。そして、アレクサンドルに向けてこう告げたのであった。


「ところで……その年代物のワイン、私もいただけますよね?」


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