6. 蒼き報せ(下)
「まぁ、仕事が増えないならそれでいいんですけどね」
やれやれとグリフが肩を竦める。
「とりあえず本題に入っていいですかね」
カシェ自身、すっかり忘れていた。ここまでずっと話さずにいたということは、どうやら人がいる場では話せない内容らしいと推測が付く。このような場所に来てまで知らせなければならないのだから当然とも言えるが。
「領地の家令から手紙が届いております」
その言葉に引っ掛かりを感じ、無言で先を促す。グリフは懐から銀色の盆を取り出した。その上には手紙とナイフが置かれている。
「インベントリを使えるようになったのか」
「ほんの少ししか容量はありませんがね。おかげさまで毒検知も手紙も見られることなく持ち込めました」
インベントリ。それは、空間を維持している魔素を魔力によって拡張することで、見た目以上の容量が収納できる空間を生み出す魔術である。一般的にははじめからカバンやポケットに付与された魔道具が普及している。こうしたものは、塔に入る前に検査を受ける。
しかし、目の前の男は端から付与されたものを使うのではなく、身の回りにある空間に展開したようだ。非常に難しい技であり、カシェ自身もインベントリを扱えるものの、己が普段使う武器を登録して魔術展開を省略しなければならない。その点、不特定物を入れられるグリフは相当の努力を重ねたことが伺える。
ぼんやりと仕組みについて思考を向けていると、痺れを切らしたグリフが促してきた。
「旦那様」
グリフは平静を保っているつもりのようだが、声には緊張が隠しきれておらず、硬くなっていた。それは何も、報告が遅れたことによる叱責を恐れてのことではない。
カシェは確かに若くして一領主の立場にはあるが、その見た目は柔和な好青年だ。もちろんその中身までもが清廉潔白な人物とは言い難いが、理不尽に何かを責め立てることは決してない。それをよく知っているグリフがカシェを本心から恐れることはそうなかった。
では何がこの執事を強張らせているのか。
「火急の報せか」
戦に赴く前に領地の家令に頼んでいたことだ。もし領地で何か問題が起こった場合、青い封蝋の手紙を寄越すように、と。そして、それはこの王都の屋敷の執事であるグリフにも事前に伝えていた。
差し出された手紙に目を向ける。手紙の封蝋は青。遂に危惧していたことが起きてしまったのか。
(寧ろ今まで何事もなかった方が奇跡か。……やはり執務室に籠っているべきではなかったな)
手紙を受け取り、ナイフでその封蝋を弾いた。中身を取り出して目を通す時間は、一瞬のようでいて長く感じる。グリフはからからの喉を潤わせるように唾を飲み込んだ。
一通り目を通した後、カシェが眉間に手を伸ばして僅かに揉む。余程頭の痛い問題が発生したのだろうか。その姿にグリフは思わず疑問を口にした。
「ファーガス領は無事でしょうか……?」
「……無事とは言い難いな」
無言で手紙を差し出す。読めということだろうか、と戸惑いながらグリフは手紙を受け取った。受け取る手が嫌に震える。
そろそろと視線が紙の上を滑る。その視線がある一点に向けられた瞬間、普段は閉じられている目がカッと開かれた。
「そんなに開いたんだな」
思わずカシェの口から軽口が飛び出る。
「当たり前でしょう!? あ、アンタまさか、俺の目が普段は閉じられているとか考えてましたか! ちゃんと開いてますからね! ちょっと目が細いだけですから!」
「口調、崩れているぞ」
「くっ……誰のせいだと……! っていうか今日俺の心臓に悪いこと多すぎなんだよ!」
驚きのあまりか、取り繕うことすらままならないようだ。真面目で完璧な執事を装ってはいるが、生来の令息らしさは抜けきらない。本来使用人としてはそのようなことがあってはならないのだが、カシェは目の前の男が没落以降も態度を崩さないところをわりかし気に入っていた。
それに、この男は決して愚かなわけではない。
「私を使って現実逃避しないでくださいよ……」
カシェが気まずそうにそっぽを向く。グリフの言う通り、現実から目を逸らしたいという想いが多分に含まれていた。とても珍しい状態ではあるが、残念ながらグリフ自身にもその状況を楽しもうとする心の余裕はなかった。
(遂に耄碌したか、爺……)
グリフは報せを出した家令に対し、心の中で悪態をついた。実際の家令は、知能の高い魔物と言われる森の調停者でさえも尻尾を巻いて逃げるような人間だ。すなわち、耄碌とは程遠いところにいるのだが、そう考えてしまうほど在り得ないことであった。
「これ、本当でしょうか」
「当家の主に嘘の情報を掴ませてどうする」
「確かにそうなんですけどぉ……」
頭を抱えて呻き声を上げるグリフを横目に、カシェは重い腰を上げた。緩慢とした動きで、脱ぎ捨てた上着を拾う。そして、その皺を伸ばすように何度か服を叩き、羽織った。少し着心地が悪い。
直そうと苦戦していると、見かねたグリフがサッと整える。それに小さく礼を言うと、グリフが力なく尋ねた。
「……本当に行くんですか?」
「私が行かなければ誰が行くんだ。馬車の手配を……ああ、いや。まずはアレックス叔父さんに話すべきか」
「でも手紙には他言無用と書いてありますよね……? いいんですか?」
グリフの言う通り、できるだけ誰にも伝えないように願う旨が書かれている。そうでなくても、誰にも伝えたくないような内容だ。
しかし、カシェは首を振ってそれを拒否した。
「もしもここに書かれていることが確かならば、王城にも味方を作っておく方がいい。叔父さんならばいざという時にも動いてくれることだろう」
それもそうかとグリフは首肯した。納得した様子のグリフに、カシェはにっこりと笑い掛けた。
「そういうわけだから君は残って、手紙の処理を宜しく頼む」
「は……手紙ってまさか、屋敷に山積みにされたまま放置されている婚約の……?」
カシェの笑みがより一層増し、相対するようにグリフは顔を引き攣らせる。カシェが二週間屋敷を空けたせいで、彼の部屋には釣書や恋文が積み重なっていた。
カシェは他の人間に勝手に部屋に入られることを嫌うため、グリフが定期的に部屋に入って掃除をしている。その時に見た手紙の量を思い出し、遠い目をした。
「煮るなり焼くなり、好きに処理してくれて構わない」
できるわけがない。一応は全てに目を通し、返答することが礼儀だ。カシェもそれを理解し、当然グリフがそうすることを知った上で言っている。グリフの胃はキリキリと悲鳴を上げた。
「あ、アンタさてはこれ幸いと思っているでしょう!?」
「何のことだ」
「惚けないでください! これでやっと煩わしいことから逃れられるとか考えていることはお見通しなんですよ!」
「……何のことだ」
あくまでも口を割ろうとしないカシェに、グリフは内心で地団太を踏む。
「ああ、もう! せめて私を護衛として連れて行ってください!」
「必要ない」
「一応伯爵家の当主でしょうが! 必要ないなんてことないでしょう!」
「あくまで代理だ。正式には継いでいない」
「余計に駄目でしょう……!」
現当主という立場にあるとはいえ、カシェの言う通りまだ正式に継承の議を行っていなかった。即ち、ファーガス家の当主の座を狙おうとする者から襲撃を受ける可能性は十分にあり得る。現に、伯爵の前当主であったカシェの父親は領地の視察中に行方不明になっている。その上、婚約や昇格の件もあり、誰がカシェを追い落とそうと狙ってきても可笑しくはないのだ。
グリフはそれはもう必死に説得を試みた。どうにか思い直してくれないかと願いながら。
その必死な様子を見て、カシェは一言ぼそりと呟いた。
「そもそも君より私の方が強いじゃないか……」
ずしゃり、とグリフが両膝を突く。口でも武力でも敵わない。
そこにさらに追い打ちを掛けられる。
「さぁ、もういいだろう」
「よくねぇよ! でもそんな成りして意外と強いから何も言えない!」
最早出せる手札がない。
(嗚呼、さらば俺の手首……どうかくっついていてくれよ……)
グリフは逃げることを諦め、大量の手紙を捌いた後の自身の手に思いを馳せた。祈ったところで、神のように清廉な男は悪魔よりも悪魔らしく笑うだけだが。
「せめて……せめて護衛の一人だけでもいいんで……」
グリフは涙を吞み、護衛を付けることを要請した。何も、カシェより強くある必要はないのだ。いくらカシェが強いとは言え、限度は存在する。先程、睡眠薬入りの紅茶を飲みかけたように、何時でも気を張ることなどできない。
いざというときのために盾になれる人間は必要だ。
「要件を伝えることもできないのに、連れて行けるものか。万が一にも情報を流出させるわけにはいかない」
その言葉にグリフが俯く。まるで諦めたかのような姿に、カシェはこれ以上話すことはないと背を向けた。
「……信頼できないから、ですか」
「そうだ」
(……勝機)
カシェは最後の最後で油断したようだ。込み上げてくる笑いが抑えきれない。
その笑い声に、カシェは振り向いて不審げにグリフを見つめた。
「詰めが甘かったですねぇ」
「何がだ」
「旦那様、貴方は誰も信頼できないから護衛は連れて行かないと言った」
そうですね? と確かめる。カシェは頷きながらも、嫌な予感がふつふつと湧き上がるのを感じた。
「じゃあ、御者も信頼できないですよねぇ」
どうやって馬車を動かすんですか?
顔を上げたグリフは、それはそれは見事に勝ち誇った顔をしていた。
***
グリフは今までにないくらい機嫌がよかった。カシェとは主従の関係性ながら、幾度となく競い合った。大人になってからはそういうことも減ったのだが、久々の勝負ではグリフに女神が微笑んだ。
「あら、グリフさん。お帰りですか?」
「ええ、用事は済みましたからね」
屋敷に戻ると、侍女に声を掛けられた。
「そうなんですね。表情が硬いものですから、てっきり旦那様にお会いできなかったのかと」
「いえいえ。何とか門前払いされずに済みましたよ」
それならばよかった、とにこやかに言う侍女に、くすりと微笑みを作る。
「それでは、まだ仕事が残っておりますので」
そう言って足早に立ち去る。向かう先は馬小屋。できるだけ不自然にならない言い分で馬車を用意しなければ。
(旦那様の弟君とやらにお会いするためにも)
してやられたと気を緩めて笑うカシェの顔を思い出す。記憶の中のカシェの胸元には、金に輝く徽章の横に、彼の瞳のような色の徽章が輝いていた。