5. 蒼き報せ(上)
自身の執務室の扉を閉め、嘆息する。面倒なことになった。ただその一言に尽きる。
徽章を返却して終わり、そう単純に考えていた。
(王族からの話では断るに断れないではないか……)
その上、断れば婚約が待ったなしという罠付き。
カシェは、身に付けていた制服の上着を乱雑に脱ぎ捨て、椅子に深く沈み込んだ。目を閉じると、先程の会話が耳の奥で反響する。気分転換も無駄に終わってしまった。
苛立ちを紛れさせるようにトントンと指先で机を叩く。その音に重なるように、控えめなノックが部屋に響いた。その後すぐに、入室の許可を求める声がカシェの耳に届く。
「カシェ先輩、お客様がお越しになりました!」
「旦那様、入ってもよろしいでしょうか」
一方はカシェの後輩のものであり、もう一方は執事のものだ。しかし、通常ならば騎士団以外の人間には警備の騎士が付くのに、担当ではない者と一緒にいるとは何事だろうか。特に、外部の人間は応接室に連れられるはずだ。
(それに、ここまで彼奴が来ること自体が珍しい)
今度は領地で事件でも起きたか。それともこの忙しい時に、親族のろくでもないことで連れ戻しに来たのか。何にせよ、よい報告でないことには間違いない。だからといって、入るなと言ったところで面倒事から逃れられるわけでもないのだが。
「どうぞ」
カシェが溜息を吐きながら許可を出すと、すぐさま後輩と執事が部屋に入ってきた。執事は何も手にしていないようだが、後輩の男はご丁寧にティーセットの乗ったワゴンを運んでいる。そんな二人を訝しげに見ていると、後輩が照れたように話し出した。
「いやぁ、先程丁度グリフさんが差し入れをくださって! あ、先輩もありがとうございます!」
どうやら賄賂を渡していたようだ。
カシェが呆れた視線を執事ことグリフに向けると、彼はその視線を何事もないように流した。そして、そのままカシェを見ることもなく後輩からティーセットを受け取る。
「え、そんな! お客様の手を煩わせるわけには!」
「気にするな。それが此奴の仕事だ」
「その通りでございます。私はファーガス家の執事ですので」
こんなにもこの騎士は気を利かせようとする男だったか。否、ある程度はそういった部分もあるだろうが、本来であれば客ではなく使用人の立場にある者に対して丁重に持て成すことはないだろう。
そのようなことを考えつつ、ゆっくりと視線をグリフに移す。皺一つない燕尾服に、綺麗に撫で付けられた焦げ茶色の髪。この男は、いつだってその見た目だけは崩すことがない。一見して執事らしいと理解できる恰好をしている。
(君、何をやったんだ)
そんな気持ちを視線に込めると、グリフは糸のように細い目をさらに細めてにこやかに返してきた。
「そう言えば、旦那様。今日は随分とやんちゃなさったようですね」
「そうなんですよ! カシェ先輩の戦いめちゃくちゃかっこよくて……!」
その話題にすかさず後輩が乗ってきた。
「正直あんまり訓練中だと人の練習姿とか気にしていられないじゃないですか。……よそ見してると副団長が怖いし」
「ふむふむ」
「だからああいう風に先輩の戦い方を見られるのって珍しくて!」
きらきらとした輝きが真っ直ぐにカシェに降り注ぐ。居た堪れなさに目の奥がチカチカと点滅する感覚を覚えた。
グリフは微笑ましそうに後輩の話に相槌を打っている。かのように見えるが、カシェにはしっかりとわかっていた。
(面白がっているな……)
その会話の合間にも、グリフは手早くティーセットに手を翳し、ポットとカップを温め始めた。そして、それらを温めている間にお湯の入ったポットの中身を確認し、再度温め直す。
魔術の組み込まれた道具は、その文様に手を翳して魔力を通すことで効果を発揮する。このティーセットもその類で、送り込んだ魔力量によって保温や加熱を行うことができた。
「普段は柔らかい雰囲気というか……野蛮なこととは程遠そうに見えるんですけど」
「あぁ……確かに、旦那様は見た目だけは優しげですよね」
「でも! 戦う姿は剣のように鋭いんですよ!!」
「本性を露にするんですねぇ」
先程から何気に失礼な言葉がグリフの口から飛び出る。普通なら使用人が主に対してそのような態度をとることは許されないのだが、カシェは特に注意することもなく流している。その関係性に後輩は少し不思議そうな顔をしたが、そういうこともあるのかもしれないと飲み込んだ。
当の本人は、お湯が納得のいく温度になったのか、空のポットに茶葉を入れてお湯を注いでいた。暫く蒸らした後、濾しながらカップに入れていく。そのカップの数を見て、カシェは小首を傾げた。
「カップが二つしかないようだが」
グリフが遠慮したのだろうか。否、彼はもらえるものはもらっておく男のはずだ。
「あっ、俺この後に用事があるんで!」
「用事?」
「ヴァイスハイト先輩……じゃなくて中隊長に稽古つけてもらう約束なんです!」
「確か旦那様と同じ武器の戦い方を学びたいんでしたっけ?」
「わぁぁ!! 何で言うんですか! ってか何で知ってるんですか……!!」
後輩は大慌てでグリフの声を遮るように声を張り上げた。その頬が少し赤みを帯びている。そして、顔を手で仰ぎ、火照りを冷まそうと試みていた。
グリフはもう少し掘り下げて楽しもうとしていたが、カシェが素早く話題を変える。一瞬だけグリフが残念そうに眉尻を下げた。
「だが、ヴァイスは刺突剣ではなく大剣使いだろう?」
大剣を両手で持ち、振り回す姿が脳裏に過る。身体能力が突出しており、力強い攻撃を得意とする男が刺突剣を扱う姿は想像がつかない。
「それはそうなんですけど……カシェ先輩、よくヴァイスハイト先輩と組んで練習してらっしゃるじゃないですか。だから誰よりも刺突剣を受ける経験がおありだと思いまして」
なるほど、よく見ている。カシェは素直に感心した。
「なら、そろそろ行った方がいいんじゃないか? もしかしたら君以外にもそう考えてヴァイスに頼んでいる者がいるかもしれないからな」
「お、俺行ってきますね!」
アレクサンドルから聞いた話を思い出して口に出した。すると、後輩は焦ったように去る意を伝え、その間にもそそくさと出口へと向かう。最後に、出口の前に立つと、振り向いて敬礼をした。
「ファーガス司令官殿、失礼いたします!」
少年のように無邪気な笑顔が扉の向こうへと消える。その姿を見送った後、カシェは自身の口元が少し綻んでいることに気が付いた。
「大出世じゃないですか、司令官殿ぉ」
グリフがわざとらしく話しかけてきた。その顔は相変わらず微笑を湛えているが、全力で揶揄おうとしていることが窺い知れる。
カシェは顔を顰め、淹れたての紅茶に手を伸ばした。しかし、カップを持ち上げるよりも早く、グリフによって目の前から下げられる。カシェが驚いて顔を上げると、血の気が引いたような酷い顔をしていた。
「アンタ馬鹿ですか! 一応当主なんですからもう少し気を付けたらどうなんです?」
そう言うなり、カップに角砂糖のような物体を入れる。
「ここは王城の中でも比較的安全な場所だが……」
機密を扱う場所だ。その分、持ち込みのものや騎士団で支給されているものに関しては厳しい検査が行われる。万が一も許されない。
「場所に限らず何があるかわからないでしょう! それも、大出世が決定したも同然なんですから引き摺り下ろそうとする人間だって出てきますよ」
先程までの茶化すような雰囲気は霧散していた。グリフの眼差しには、真剣さの他に僅かな苦みを含んでいる。
「……うちだって、事業が成功したと思った瞬間にあんなことになったんですから」
グリフはファーガス家の遠縁の子爵令息であった。彼の父親には事業の才があり、子爵家はメキメキと頭角を現していった。そうして傾いていた子爵家が立て直された頃、その噂を聞きつけ、家督を継がずに漫遊していた伯父が帰ってきたのだ。大量の借金を抱えて。
少しでも構わないから金を貸してほしいという伯父に、グリフの両親は猛反対した。というのも、この伯父こそが子爵家の家計を傾かせた大きな原因であったためだ。家の金を毎夜浴びる程使い、遂には持ち出したまま帰ってこない。そんな男に何故金など貸せようか。
まだ少年であったグリフは母親に無理やり連れられて部屋に戻ったので、その後どのような話し合いが行われたのかは知らない。ただ、真夜中に瞼の裏にやけに熱い光を感じ、目を覚ますと屋敷は火の海に飲まれていた。
グリフは命からがら逃げ果せた。こうして一夜にして全てを失った少年は、ファーガス家に単身売り込みに来て、現在に至るわけである。
その過去を知っているカシェは、不平を言おうとしたが口を噤んだ。寸刻の沈黙の後、グリフが声を上げた。
「ほら見たことか!!」
見せつけるようにカップを眼前に持ってくる。中を覗くと、薄紫に染まった立方体が紅茶の波に揺れていた。
グリフが入れた立方体の物体は、毒素を検知する魔道具だったようだ。真っ白の見た目が他の色に染まると、何らかの毒か薬が含まれている証である。
「紫ということは、睡眠薬か……」
「水自体には反応がないんで、恐らくは茶葉に含まれていたんでしょうね」
お湯の入ったポットの中身を確認していたのは、そちらにも魔道具を入れるためだったのだろう。
「先程の騎士でしょうか」
「いや、恐らくは……」
カシェが話の途中で言葉を切る。その意図に瞬時に気付き、グリフが扉の鍵を閉めた。そのまま扉の向こう側に意識を集中させる。水を打ったような静けさが部屋を満たした。
「…………」
その状態のまま数分にも満たない時間が経った。物音一つせず、グリフは勘違いであったかと身体を和らげようとする。その瞬間、ぱたぱたと軽い足音が廊下に響いた。
(騎士にしては足音が軽すぎる……刺客にしては不用心だ)
一気に気を引き締める。足音は扉の前で止まり、ガチャガチャと扉の取手が音を立てた。
「あら……可笑しいわ」
扉の向こうから聞こえてきたのは、玉を転がすような女の声であった。
「失敗したのかしら」
場にそぐわないその声に、グリフは鳥肌が立つ思いがした。カシェも難しい顔をして扉を見つめる。
数刻が経ったようにすら感じる一瞬。足音が遠ざかり、完全に音がしなくなるまで息を潜めた。
「……行ったようですね」
肺に溜まった空気を吐き出し、新鮮な空気を取り入れる。カシェもグリフも緊張の反動で少しぐったりとしていた。
「誰だったんでしょうか……」
「……ここまで来られるほど高貴な方だ」
グリフは暫く思案し、はっと息を吞んだ。
「まさか王族の……」
声には出さず、首の動きだけで返答する。カシェはまるで信じられないという様子のグリフをちらりと一瞥した。
「ですが、うちの王国では後継者争いの問題はないはず……。王女であれば特に旦那様を狙う必要はないのでは?」
「いいや。……私は此度の戦いで褒賞を頂くことになっているんだが」
「それは昇格の話で……いや、待てよ。まさか末の姫君との婚約の噂は本当だったんですか!?」
ぎょっとした目がカシェに向く。それに苦笑を返した。
「相変わらず耳が早いな」
「情報は鮮度が命って教わりましたからね」
表にすら上がっていない話を一体どこで拾ってくると言うのか。この執事は昔から人の懐に入ることに長けているのだ。
一方のグリフは、カシェの反応からその噂が事実であると得心した。
(ということは、先程の足音は末の姫君によるものか)
そして、一つの推測に辿り着いた。
「旦那様が司令官になれば婚約はなかったことになる……それを恐れて?」
「確かなことは言えないが」
「ですが、何の得があって……?」
「さあ」
心底理解できない。建国当初から仕えているとはいえ、一国の王女が伯爵の元に嫁ぐメリットなどないだろうに。
「もういっそ結婚しちゃえばどうですか」
在り得ないことを宣うグリフに、カシェはうんざりした顔を向ける。何奴も此奴も勝手なことを。
その心底嫌なものを見たと言いたげな顔に一瞬尻込みするも、グリフはなるようになれと声を張り上げた。
「こちとら忙しすぎて結婚したくてもできないんですよ……!」
「したらいいじゃないか」
グリフの方から、どの口が言う、という空気をひしひしと感じる。
「旦那様が結婚してくだされば私に流れてくる仕事の内、屋敷に関する仕事は奥方様が処理してくださることになるでしょう? それで私は浮いた時間で出会いやらデートやらを果たせるわけなんですよ……」
「それじゃあ君はいつまで経っても結婚できないな」
「はい? ……結婚しないなんて言うつもりはないですよね?」
「よくわかっているじゃないか」
「よくわかっているじゃないか、じゃあないんですよ……」
グリフが頭を振る。
「信用できない者を周囲に置いてどうする? 余計に仕事が増えるだけだろう」
最初から己の意見が通るとは思っていなかったが、聞く耳を持たない態度に肩を落とす。どうやらグリフの望みは叶わないようだ。意趣返しも兼ねて、少し不貞腐れた口調で返す。
「私のことだってそうなんじゃないですか」
カシェはきょとんとした。全く予想外のことを言われたという顔だ。
「グリフは信頼できるからいいだろう?」
言われた言葉がじわじわとグリフの胸に広がる。
(これだからアンタの元から立ち去ろうとは思えないんですよ……)
何となくむず痒い心地がして、グリフは手袋をはめた手を胸元に当て、深く一礼をした。
「何にせよ、こんな話が王族側から出ること自体がおかしい……裏があるのかもしれないな」
「結局私の仕事が増えるわけですね……」
話を上手く流され、ため息交じりに言う。しかし、カシェは首を横に振った。
「今回はアレックス叔父さんに頼もうと思う」
グリフの情報収集の腕は抜きん出ているが、それでも王城の中では動き難いだろう。今回ばかりは王城でも堂々と行動できる立場の人間の方がよい。アレクサンドルであれば騎士団の中でも最上位と言ってもいい立場にいる。その上、今回の件は王族の問題だけではなく、騎士団の問題でもあった。
「職務怠慢な態度はいただけないからな。うちは何にも染まらぬ不動の騎士団だ。汚職なんて許されるはずがないさ」
くつくつとした笑いが喉の奥から漏れ出る。おお怖い、とグリフは両腕を擦った。