40. 異変と豹変
案内役の兵士が先導する道をカシェ、イルヴァ、レイモンの順に着いて歩く。美しかった景色が見る影もなくなってしまった現実に、カシェは一人ひっそりと溜息を吐いた。
「本当に人っ子一人いませんね」
「外に出ては危険ですから」
レイモンが周囲を見渡しながら呟くと、素早く兵士が反応する。兵士でも手こずる魔物が出没しているとあっては、出たくても出られないだろう。村の外からも人が立ち寄らないようにされている上、住人も息を潜めていることもあって、観光地としても有名な村には信じられないほどに静かである。
ふと、カシェは気になっていたことをイルヴァに問い掛けた。
「そう言えば、イルヴァはどうしてここに?」
砦街の中で再会したとき、確かにベルナールはリッシュ村へ向かうと言っていた。だが、このような状況下でベルナールが娘を連れて来るとは思えない。ここまで問題になる前であってもリッシュ村の状況は乗合馬車に乗る際に御者からでも聞いているだろうし、今やリッシュ村へ向かう馬車自体がない。何より、一度病で家族を失っている者が軽率な行動を取るとは考えにくい。
その上、イルヴァの容態からしてまだ無症状か、軽症の部類だ。この場に留まらずとも、早々に兵士と共に避難できたはずだが。そんなカシェの考えなど露ほども知らないイルヴァは少し悩んだ後、ぽつぽつと語り始めた。
「義父さんノ母さン、病気。薬、なイ」
「人の行き来が途絶えたせいで薬の在庫が切れているんですね」
「そウ。でモ、家になラ、あル」
そう言うと、イルヴァは手に握り締めていたものを掲げて見せた。そこには、手のひらサイズの紙に包まれた薬草が握られている。力が入っていたせいで草臥れてはいるが、そのおかげで逃走時に中身を落とすこともなかったようだ。イルヴァも掌中の薬草が見るからに減っていないことに安堵の表情を見せた。
「態々それを君が取りに行かなきゃならなかったのか? ベルナールはどうした」
「ソウレイ、の、看病」
「あの子も感染したのか?」
「多分、違ウ。たダ、疲労……」
居住地を抜け、雑木林を時折会話をしつつ進んでいく。大分歩いたのではないだろうか。そう思った頃、目の前に小屋が数軒見えてきた。その小屋を視界に入れた途端、兵士が「あ!」と明るい声を出す。
どうやら避難場所に着いたらしい。小屋の手前には、警備の兵士らしき男の後姿があった。知り合いなのか、兵士がその男の元へと駆け寄っていく。
「お前……! 生きてたのかよ!」
少し不謹慎な言葉だが、その声には喜色が滲み出ている。相当親しい仲であることが窺えた。
「護衛中に知り合いを見かけたからと飛び出していくのはどうかと思いますが……」
「…………」
年若い兵士の行動にレイモンが苦言を呈する。全くもって正論であるが、親しい友人を置いて一人避難する身となった兵士の気持ちを考えると肯定もし難い。イルヴァもそう思うのか、黙り込んでいる。
「……? おい、どうしたんだよ、黙り込んで」
急に矛先がこちらに向けられたのかと意識を兵士へと向ける。だが、発せられた言葉は兵士の友人に向けられたもののようだ。兵士が笑い飛ばすように、脅かすなよと少し乱暴に友人の肩を叩いたときであった。
「……え?」
叩かれた衝撃のまま、どしゃりと音を立てて男が地面に激突した。人間の身体とは思えないほど呆気なく、そして信じ難いほどの柔さで、ぶつかった途端に果実が潰れたようにその身が弾ける。兵士は男の肩を叩いた姿勢のまま固まり、友人だった塊を見下ろした。
「一体どうなって……」
「死んでいたのか……?」
「…………」
目の前の情景に脳の処理が追い付かない。それはレイモンも同様のようで、唖然とした表情を浮かべている。
死んだ男の身から流れ出した黒い血が筋となり、兵士の靴底に当たって流れを止める。その様をただ見つめるばかりであった兵士が両の手を眼前に持ち上げ、爪が顔に食い込む勢いで握り締めた。
「死、死んで……あぁ、……ぅああああ……っ!!」
一拍置いて押し寄せてきた現実に兵士は嗚咽を漏らした。悲痛な叫び声が耳に痛いほどに刺さる。
何と声を掛ければいいかもわからず、カシェが視線を地面に落とすと、場違いな拍手が泣き声を掻き消すように鳴り響いた。
「いやぁ~~見事見事! こんな傑作ってあるかァ?」
「……どちら様でしょうか?」
愉快愉快と下卑た笑いがカシェたちの気を逆撫でする。突然現れた不審な男の声にレイモンが誰何すると同時に剣を抜いて警戒を示す。
すると、木の陰から何者かが姿を現した。煤けた襤褸布を身に纏い、その間から包帯に巻かれた肌が見える。風に吹かれ、一瞬だけその人物の顔が露わになった。
「貴様は……」
「この顔を覚えてくれていたようで何よりだなァ」
そう言って不審な男が襤褸布を頭から外す。身体と同様、包帯だらけの顔面に目だけが異様にギラついている。その顔はまだカシェの記憶に新しい、忌々しい盗賊の頭の一人であった。
男は歯を剥き出し、威嚇するように笑った。
「ファーガス司令官、お知合いですか?」
「知り合いなもんかよ! 此奴のせいで俺の顔も計画もめちゃくちゃだ!」
レイモンの言葉が琴線に触れたのか、男が吠える。前者に関してはカシェも大いに同意であった。誰が自身の弟を攫った忌むべき相手を知り合いなどと思うだろうか。
「……まぁ、いい。俺は今気分がいいからなァ。ブツの回収に来たらイイ声を浴びれた上に、開花目前のヤツも見れたんだ。最高には程遠いけどな」
「何を言って……」
突然脈絡もないことを語り出した男にカシェが更に警戒を強める。だが、男は全く気にする様子もなく、にやりと笑みを浮かべた後、両手を広げた。
タイミングを見計らったように小屋の扉が開く。その中から少女が飛び出してきた。
「お姉ちゃン……!」
「こら、飛び出したら危ないぞ……!」
その後ろから腹を揺らして父親が出てくる。少女ことソウレイを引き留めると、ベルナールは顔を上げた。そして、カシェたちの姿を視界に収め、見る見る内に目を丸くさせる。
カシェとレイモンもまた、突然現れたソウレイとベルナールに一瞬意識を奪われた。
「さあ、役者は揃ったな! 楽しいショータイムの始まりだぜ……ハハハ!」
その隙を突いて男が意味深な言葉を残し、姿を消した。
「……逃げられてしまったようですね」
「…………」
レイモンが溜息を吐き、剣を鞘に納める。兵士も何が起こったのかわかっていない様子であったが、驚いたせいか涙は止まっていた。
「お姉ちゃンのとコ、行くノ……!」
妙な空気の中、あどけない声が耳を打つ。見ると、ソウレイが今にも駆け出そうとしているが、それをベルナールが必死で抑えている。ベルナールの方は、兵士の前に転がる残骸を目にしてしまったようで、先程よりも顔色を悪くさせていた。
「…………」
「……お姉ちゃン?」
家族が出迎えに来たという割に、イルヴァが先程から一言も言葉を発しない。流石に不思議に思ったのか、ソウレイがイルヴァに声を掛ける。それでも何も反応を示さないイルヴァにカシェが近寄った瞬間であった。
「……ッ!」
イルヴァは先程まで無反応であったにも拘わらず、後方に飛び退き、警戒するように毛を逆立てた。明らかに可笑しい様子にカシェが伸ばし掛けた手を下ろし、困惑のままに問い掛けた。
「イルヴァ……? どうしたんだ……?」
「フー……ッ、フー……ッ!」
突然のイルヴァの行動に一同が困惑を示していると、イルヴァが急に方向を変え、元来た道を駆け出した。一歩遅れてその後を追い掛けようとするも、イルヴァが得意の跳躍をもって逃げるため、距離はどんどんと開いていく。このままでは埒が明かないなどと考えていると、イルヴァが去った方角から魔物の群れが向かってくるのが目に入った。
「こんな時に……!」
「どうやら死臭に誘われてきたようですね。まずはあれを片付けますよ……!」
カシェとレイモンが素早く剣を抜く。兵士も慌てて剣を抜こうとしたが、焦りと震えのせいで上手く掴めず、剣を地面に落とした。
あの様子では足手纏いにしかなるまい。レイモンもそう判断したのか、魔物を剣で切りつけながら素早く指示を飛ばす。
「貴方はそこの一般人を守っていなさい!」
どう考えても食い殺されるしか未来のなさそうな兵士を後ろに下がらせる。その分、たった二人で多数の魔物を相手にしなければならなくなったが、持ちこたえられるだろうか。
カシェが祈りと共に剣に魔力を通すと、レイモンがカシェに話し掛けた。
「あまりそう気負わずとも、貴方の実力ならばこれくらいは大丈夫でしょう」
「……買いかぶり過ぎですよ、副団長」
レイモンがふっと笑みを浮かべる。どうやら本心からそう思っているらしい。憧れの人にそこまで言われて、その信頼を無下にできる人間などいるだろうか。カシェは目前の敵を見据え、剣を握り直した。
魔物の数はざっと数えただけでも十は下らない。人を守りながら捌くとなると、骨が折れる戦いになることだろう。しかし、目前まで迫ってきている状況でソウレイたちを逃がすことは難しい。どちらにしてもカシェとレイモンが退けば避難所にいる村人も被害を受けるのだ、何としても退くことはできない。
(兎に角、手数が欲しいところだな)
カシェは左手で乱雑に魔術式を描くと、切り裂いた空間から短剣を取り出した。そして、手にした短剣を口元に宛がい、魔力を吹き込む。魔力が十全に行き渡ったことを確認し、魔法を付与させる。更に、その上から魔力を余分に足した。
(これでよし)
最後に自身にも魔力を行き渡らせ、身体を強化させる。魔力が循環される毎に感覚が研ぎ澄まされ、力が漲るのを感じる。
「……行きます」
「ええ」
レイモンに一言告げ、短剣を前方に投擲する。短剣は風を切り、先頭の魔物の頭を掠めた。そのまま短剣が後方へと飛んでいくのを、まるで糸で操るかのように指を曲げて操作する。指の動きに合わせて短剣内の魔力が動き、僅かな変化が軌道を変えていく。ただかすり傷を付けるだけの作業だが、短剣に触れた者は悉く動きを止めた。
「相変わらず、規格外の魔力操作ですね」
「……集中力も魔力消費も激しいので、あまり長くはもたないですけどね」
「十分ですよ」
動きを止めた魔物が防波堤となり、他の魔物の進軍も止まる。その隙間を縫うようにレイモンが駆け出し、魔物の首を狩っていく。カシェもまた、背後からレイモンを噛み殺そうとする魔物を剣で突き刺し、魔力を流し込んだ。
(……?)
ほんの少しの違和を感じた後、重ね掛けるように更に魔力を流し、動きを封じる。魔物は全身を硬直させた後、バランスが取れずに地面に倒れ込んだ。
死体と動きを封じられた魔物が積み重なっていく。最後の一匹の動きを封じると、カシェは顎に滴る汗を手の甲で乱暴に拭った。
「……ハァ、ッ」
「大丈夫ですか?」
「問題、ありません」
いつもよりも魔力消費が激しい。本来ならば一度短剣に触れた者はカシェが魔法を解除するまでは一切の動きを止めるというのに、暫くすれば効果が薄れたかのようによろよろと立ち上がってきた。最終的に、短剣で一時的に動きを止め、その後にカシェ自身が刺突剣で直接魔力を流し込むことで完全に動きを止めたが。
何匹も繰り返していると、流石に違和感の正体にも気が付く。等級の低い魔物としてはあり得ないほど魔力抵抗が強いのだ。念のため、カシェは動きを止めた全ての魔物の頸動脈を斬った。
「行きますよ。……急がなければ」
レイモンに声を掛けられ、カシェは剣に着いた黒血を振り払った。
もう完全にイルヴァの姿はない。元来た道を戻りつつ、虱潰しに探す他ないかと思案していると、ソウレイが近寄って来た。
「私モ、連れてっテ」
「……私からもお願いです。大切な、家族なんです。お願いします」
「それは無理なお願いですね。危険な場所に貴方がたのような一般人を連れて行けるわけがないでしょう」
頭を下げるソウレイとベルナールにレイモンが冷たく言い放つ。しかし、ソウレイは食い下がった。
「私、お姉ちゃンノ、匂いわかル」
「……そうか。獣人族は人族よりも五感が優れている……レイモン副団長、ソウレイならばイルヴァの居場所がわかるかもしれません」
「……時は一刻を争います。もし我々に着いて来られなければ問答無用で帰っていただきますよ」
***
「お姉ちゃン!」
ソウレイの嗅覚を頼りに進むと、イルヴァの後姿が見えた。だが、イルヴァは相変わらずソウレイの声にも反応せず、背を少し丸めてじっと留まっている。時折、痛みを堪えているかのような小さな声が漏れ聞こえてきた。
「お~~い、カシェ! 無事か~~!?」
カシェがイルヴァに向かって一歩踏み出そうとしたときであった。イルヴァの向いている方面からヴァイスハイトが現れた。手を振っている様子からも、怪我もないことが窺える。その後ろから他の騎士達も姿を現した。幾名かが肩を借りて何とか歩いている。その中には兵士の隊服を着た人物もおり、無事に任務を完遂したようであった。
「ヴァイス、君も無事だったようだな」
ほんの少し安堵していると、カシェのすぐ横を小さな何者かが飛び出した。それに反応するよりも早く、飛び出したソウレイがイルヴァに抱き着く。心配したのだと、力強く。
しかし、イルヴァがソウレイを抱き締め返すよりも早く、ヴァイスハイトがソウレイの首根っこを掴み上げ、転がるようにしてその場から離れた。
「あっぶね……!」
ソウレイが先程までいた場所に、イルヴァの手から伸びた爪が突き刺さっていた。ゆっくりと抜かれた場所に刻まれた爪痕の深さから、本気で殺しに来たことがわかる。
「おねエ、ちゃン……?」
ぽかんと目を丸くしたまま、ソウレイが呆然とイルヴァを呼んだ。すると、今度こそイルヴァがソウレイの声に反応し、首をカクンと動かして見つめる。だらりと垂れ下がった腕は筋肉が発達し、指先から鋭い爪が伸びている。表情はないものの、首筋から顔の下半分にかけてひびのように血管が浮き上がっている。眼は血走り、口からは涎が垂れたままになっていた。
「おいおい、一体どうなってんだよ……」
「わからん……少なくとも、正気ではないようだな」
ヴァイスハイトと会話をしつつ、イルヴァを観察する。何故いきなり豹変し、実の妹を傷付けようとしたのかも定かではない。両者ともに探り合っていると、イルヴァが先に動いた。
「ァアアアアああアアあア“ア”ア“!!!」
耳に劈く咆哮に思わず耳を塞ぐ。脳を震わせるような声が周囲に響いたかと思うと、その声に呼ばれた魔物がカシェたちを囲うように姿を現した。
低く地を這う唸り声に、カシェの後ろに控えていた兵士が小さく悲鳴を上げて後退る。その拍子に、地面の凹凸に足を引っ掛けたのか、派手に尻餅を着いた。
「痛っ……あ、…………へ、へ」
兵士が痛みに呻いた瞬間。その声に反応し、イルヴァが跳躍して兵士の目の前に降り立った。兵士が恐怖に顔を歪ませ、笑みのようなものを浮かべる。
「……ぅ、ぁ」
段々と呼気が荒くなる様を仮面のような表情で見つめていたイルヴァが、素早く兵士の喉笛に爪を突き刺した。爪を肉から抜き、痙攣する兵士の血肉を啜る。ズズズ、クチャ……と不愉快な水の音が静かな空間を満たし、イルヴァが顔を上げた。
生々しい鉄の香りがカシェの場所にまで漂ってくる。それは、より鼻の利く魔物も同様のようで、先程よりも強い殺意が肌を焼くのを感じる。
「……どうやら戦闘は避けられないようですね」
苦々しく告げられたレイモンの言葉に一同は否応なしに剣を構えた。




