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38. 魔王と呼ばれし者

 王が少し目を伏せる。睫毛が目の下に影を生み、憂慮すべき事態でもあるのだろうと気が重くなる。王は暫く押し黙った後、どこから話せばよいものか、と困ったように話し始めた。


「近年、干ばつや疫病が流行っているのは知っておるだろう」


 先程アレクサンドルと話していた内容と類似した話に内心驚いたものの、カシェが表情に出すことなく頷く。アダラールとアレクサンドルも王の言葉に相槌を打った。

 各々の反応を確認し、王がふむ……と考え込む。どう切り出そうかと思案しているように、薄く開かれた口がすぐに閉ざされる。


「父上、それがカシェ殿を呼んだことにどう関係があるのです?」


 中々本題に入らない王に痺れを切らし、アダラールが尋ねる。三者三様の訝しむ視線が王に突き刺さる中、その空気を邪魔するように、コン、と音が鳴った。


(この音は……)


 どこか聞き覚えがあり、音が聞こえた方へと視線が向かう。窓の向こうに、黒い鳥が佇んでいるのが見えた。迷い鳥が窓にでもぶつかったのだろうか。

 それにしては大人しくこちらを観察しているようにも見える眼差しに違和を感じていると、王が窓を開いた。鳥は逃げることもなくその場で待ち続け、為されるがままという風だ。王がその脚に触れ、何かを取り外した。


(なるほど、陛下の伝書鳥か)


 王の手に握られた紙にカシェは納得する。大方、何かの報告が書かれているのだろう。通信運搬魔術に比べれば不便な旧式の方法ではあるが、魔術妨害を受けにくいという点で重宝されている。

 王は素早く手紙に目を通した後、何事もなかったように話を続けた。


「その干ばつや疫病なのだが……少々特異でな」

「まさか……」


 アレクサンドルが思わず口を開き、カシェを振り返った。まさか、カシェが推察した通り、何者かによって引き起こされた事象なのだろうか。そんな思いがアレクサンドルの表情に滲み出ている。

 何か、不穏な存在が背後で糸を引いているのかもしれない。カシェとアレクサンドルが息を呑んで続きを待つ。静まり返る中、王はアレクサンドルの呟きに徐に首を振った後、重々しく口を開いた。


「それは……魔王によって引き起こされたものなのだ」

「は……?」

「魔王……?」


 王と言うからにはどこかの国の王族だろうか。聞き覚えのない単語に首を傾げる。理解できずにいたのはカシェだけではなかったようで、アレクサンドルが恐る恐る手を上げた。


「陛下、恐れながら伺いたく存じます。……陛下の先程のお話から愚考しますに、どこかの国の王族が干ばつや疫病を流行らせている、ということでしょうか」


 もしそれが可能なのであれば、干ばつや疫病を故意に引き起こすことで民の多くが飢え、亡くなることになる。民を救済しようにも国費にも限度があり、いつ底をつくかもわからない。その上、収入も減少するとなれば王国の体力は徐々に低下していくことだろう。そうなれば、いくら軍事力に優れたアルヒ王国相手でも、飲み込むことなど造作もないはずだ。

 だが、それはあくまでも可能性の話。そのような未知の技術を持つ国など想像もつかない。あまりにも荒唐無稽がすぎる。


「そうだな……王、などと呼称されているが、奴は一国の王というわけではない」

「王ではない、ですか……?」

「少なくとも世襲制ではないのだ……まあ、現魔王が国を築いていないとは言い切れないのだが」

「え……? 今なんと……?」


 上手く聞き取れず、アダラールが聞き返す。しかし、王は何でもないと首を振った。その代わりに、アレクサンドルの質問に対して答えを返した。


「魔を引き連れる者、すなわち魔の王。魔物、魔族と呼称される者たちを統べる者だ」


 王の説明にカシェは眉を顰めた。魔族の王というのは、可笑しな物言いだ。通称、魔族と呼ばれる獣人族は各種族で長が群れを束ねていると聞いたことがある。それに、領民から魔王と呼ばれる者の話などは一度も出た覚えがない。

 ふいに、王がカシェに声を掛けた。


「ファーガス司令官、何か言いたいことがあるようだな」

「は……。魔物、あるいは魔族を統べる者……とは、魔力に優れた者のことかと愚考するのですが、それを名乗る反社会的勢力ということでしょうか」

「ある意味ではそうだ。……魔王は我々人間側が付けた通称名なのだが」

「人間側が……では、各国ではある程度認識されている存在なのですか?」


 カシェは声が上ずりそうになり、喉元を抑えた。王族であるアダラールや騎士団長のアレクサンドルすらも魔王の存在を知らなかったということは、アルヒ王国が他国に情報収集技術の点で劣っていたということだ。それが本当であれば、高い軍事力を誇る国として、あってはならない。

 しかし、王は首を横に振り、「国主と教会、そして各々が認めた者にしか知らされていない」と答えた。


「こんな情報が流れれば国はおろか、この世界が恐慌に呑まれかねない……それは、我々にとって不利にしかならない。故に秘匿されておるのだ」

「……父上、それはあまり得策ではないように思われるのですが」


 少人数で情報を抱えているより、国同士で協力しながら魔王を抑え込んだ方がいいのではないか、とアダラールが首を傾げて尋ねた。

 確かに、情報を公表することで国内は多少混乱が起きるかもしれない。だが、後になって情報を知らされた国民が国に対して疑心を抱くことを考えると、はじめから説明して国民や他国に協力を要請する方がよっぽどいい選択のはずだ。


 それは国主であれば誰でも考え付くであろうことなのに、何故どの国も秘匿するという方針を示したのか。何かあるのかもしれないとカシェが目を細める。対する王は、遠くを見つめるように虚空を仰ぎ、瞼を閉じた。


「……まず、魔王について説明しておこう。魔王は、魔物や魔族を操り、世界を災厄へと導く者だ。……世界を、壊すためにな」

「世界を壊すために……? そのような危険な存在が近年になって表舞台に現れた……と?」

「いや。古来より、魔王と呼ばれる存在はいた。……この世界は、何度も危機に陥っては救い手によって窮地を脱しているのだ」


 聞かされる話はまるで聞いたことのないおとぎ話のようで、カシェは目を見開いた。そんな大層な歴史に関する資料が、何故現存していないのか。誰かしらが研究していても可笑しくないだろうに。それに、何度も危機に陥っている程繰り返される歴史なのであれば、対策として遺していた方がいいはずだが。

 否、それ以前に、世界の危機に瀕したという記憶が人々の間でさえ言い伝えられていないことも疑問でならない。意図的に記録を消したとしても、あまりにも綺麗なのだ。まるで端からそんな事実はないかのように。


 アレクサンドルもそう考えたのか、難しい顔で王に尋ねた。


「そのような話は聞いたことがないのですが……」

「それはそうだろう。この話は、各国の王族……国を継ぐ者と、教会で情報を統制し、決して外部に漏れることがないようにしているからな」

「何故そのような……!」


 アダラールが声を荒げる。


(何故そのようなことをするのか……いや、何故そのようなことを自身が知らされていないのか、か)


 カシェはアダラールの想いを悟り、目を伏せた。

 アダラールは第三王子ではあるが、第一王子は既に死去していて第二王子は病で伏しているため表に立つことがない。第一王女も他国に嫁いでおり、残っているのはアダラールとその妹である末の王女のみだ。

 必然的に、貴族の間ではアダラールが立太子する可能性が一番高いと囁かれているのだが、国を継ぐ者に伝えられる重要機密を教えられていなかった。まさか王は依然として後継者を決めかねているのだろうか。


「……魔王は、生きとし生ける者たちの負の感情を得ることで力を増し、災厄を引き起こす。少しでも負の感情を減らすために、こうして情報を知る者を必要最低限にするようにと決められておるのだ」

「負の感情が災厄を引き起こすというのであれば、こうして情報を統制して長引かせるのも得策ではないのでは? どちらにせよ、干ばつや疫病が流行れば負の感情も多くなるでしょうに」

「ああ、アレクサンドルの言うことは尤もだ。魔王を討伐しなければ、やがて世界は滅びへと向かう。……そのために各国から有望な人物が選ばれ、討伐へと向かっておるのだ」


 ここまで、この場に呼ばれ、国家機密を明かされていることに疑問を持つばかりであったが、漸く得心した。王は、カシェに魔王の討伐に向かえと言いたいのだろう。

 思えば、若輩の身でありながら特殊司令官などという地位に就くことを王がお許しになったのも可笑しな話だったのだ。特殊司令官という、アレクサンドルの直属の部下とも言い難い宙吊りの立場では、アレクサンドルの庇護を受けることも難しい。それを狙ってのことだったのだろう。

 カシェが内心頭を抱えていると、アレクサンドルの平坦な声が耳に響いた。


「……それは、カシェに討伐に向かえ、と仰っておられるのですか」


 アレクサンドルの問い掛けに王が一瞬だけアレクサンドルを見据える。そして、徐に口を開いた。


「……魔王討伐に赴いた者たちは、まだ誰一人として帰ってきていない」

「では、何も情報すらないのでは……?」

「いや、戻って来た者たちもいる……恐怖に駆られて逃げ帰った者たちだが。彼らによると、魔王の根城は北の大地(イーオン)の奥深く……死の砂漠を超え、魔族が住まう丘を越えた先……魔の森のその深淵にあるという」


 アレクサンドルの問い掛けに対する答えとは思えない会話が続く。アレクサンドルが手を強く握り締めるのが見える。王命に逆らうことはできずとも、できるだけカシェに行かせたくないという葛藤が表れていた。


「父上、どれだけの者がそこに辿り着いたのですか?」

「……それはわからん。帰還した者は死の砂漠の苦しみに耐えきれなかったとも言うし、丘で魔族に仲間が殺されて命辛々戻った者もいる。ただ、魔王の一端に触れた者は皆別人のように相貌がやつれ、気が触れたかのように同じことを言うそうだ」

「同じこととは?」

「あれは、人の手には負えぬものだ……とな」


 再び、辺りがしんと静まり返った。ふう……と誰かが呼吸を整える音が部屋に響く。アレクサンドルが玉座を向けていた身体を半身程、横に背けた。


「……何故、カシェなのです」


 アレクサンドルの呟きが落とされる。静かな声は、全ての感情を取り去ったかのように思えるほど穏やかだ。


「誰かが行かねばならんのだ」

「先程の話を聞いた限りでは、討伐に行った者はほとんど皆命を落としているか、よくて行方不明でしょう。辛うじて帰って来た者も甚大な被害を被っております。それを……それを聞いて行かせるなど……!」


 アレクサンドルの語気が強さを増す。徐々に熱を帯びる感情をどうにか抑えようとしているのか、握り締められた手が震えている。


 カシェはただ、二人のやり取りを見つめる他なかった。王の言い分もわかる。誰かがいかねばならぬのであれば、そこそこに使えて使い潰しても問題のない人間を行かせるべきだ。その条件に当てはまるのが、偶々己であったのだ。残念ながらカシェ自身も己が適任であるように思う。


 伯爵家の跡取りながら庇護する者はおらず、当主とは言っても代理の身。王に否を唱えられる立場の庇護者もいない。唯一アレクサンドルがどうにか止めようと藻掻いてくれてはいるものの、無駄に終わることだろう。


「カシェは……ファーガス家の当主です、何かあれば」

「正確には当主ではないだろう。……それに、弟ができたそうじゃないか」


 王の口から出た言葉にカシェは一瞬、息が止まった。何故、それを知っているのだ。まさか、アレクサンドルが漏らしたのだろうか。しかし、カシェの目に映ったアレクサンドルもまた、信じられないと目を見開いて王を見ていた。

 この場でアダラールただ一人が何の話かもわからずにそれぞれの顔を窺い見ている。


「何故、それを……」


 他の誰かが、裏切ったのか。想像もできないはずなのに、そんな思いばかりが頭を占める。震えた声で問うカシェに対し、王は興味深そうな眼差しでカシェを見返した。


「教会から報告が上がってきてな。何、案ずることはない。ファーガス司令官のことは余も気にしておったのだ……終ぞ、父君を見つけ出すことができなかったからな」


 確かに、教会では情報を秘匿しなかったが、探らなければ知ることもない情報だ。王が探りを入れていたのか、あるいはコアを見ることのできる人間が勝手に情報を漏洩したか。だが、気に掛けていたと言われてしまえば「何のために?」などと疑問を口にすることもできない。

 王は「これで貴殿も領地も安泰だな」と鷹揚に頷いた。跡取りの心配もないと言いたいのであろう。反論する口を塞がれ、アレクサンドルが唇をきつく噛み締めた。


「……危険な、ことなのですよね。それならば何もカシェ殿だけを行かせなくとも……」

「……アダラール、先の話をしたのは余なりのけじめだ。知らぬよりは、知っておった方が何かと準備をしてから行けるだろうと思ってな」

(別れを告げる準備か……)


 何も告げられることなく遺された人間の気持ちは痛い程わかる。これが王なりのカシェに対する気遣いであることも理解できた。


「ファーガス司令官ならば、冷静に判断する能力もあり、いざとなれば逃げきるための時間も稼げる。無論、余とて一人で行かせる気はない。騎士団の隊一つくらいなら手配するつもりだ」


 破格の配慮と言っても過言ではないのだろう。押し黙るカシェに、王はいいことを思いついたと手を叩いた。


「貴殿を悩ませている領民のこと、余が手を回そう。頷いてもらえるのであれば、すぐにでも動き出そうではないか」


 領民が隣国に連れ去られたことは、まだファーガス領の兵士たちとあの場にいたマルク、グリフ、エイド、そして先程会話していたアレクサンドルしか知らないはずだ。特に、カシェがアレクサンドルに願い出たことなど、部屋にいた二人しか知らないはずなのに。

 ふと、窓際から視線を感じて視線が窓に吸い寄せられる。すると、王の伝書鳥と目があった気がした。


(まさか……!)


 あのとき、伝書鳥がカシェたちの会話を盗み聞いていたのかもしれない。王族の指令に従って諜報をも熟す影の騎士団の中には、使役魔を操る者もいると聞く。あの鳥こそが、影の使役魔であり、王はカシェを意のままに操るに有利な情報を探っていたのだろう。

 カシェが答えに行き着いたことが雰囲気からでもわかったのか、王が玉座に凭れ掛かり、満足気に微笑んだ。


「行ってくれるな?」


 最早質問というよりは、強制的な問い。だが、カシェが頷くしかないことを王はわかっていた。

 王の問いにカシェが口を開こうとしたときであった。不意に扉が叩かれ、王が許可するよりも前に艶やかな金色が部屋に入り込んできた。


 ***


「お父様! ……あら? 貴方もいたのね、カシェ」


 軽やかな声が玉座の間に響く。気安くカシェの名を呼ぶ人物に、カシェは顔を顰めた。


「お前が何故ここに……」


 アダラールが入室してきた人物を睨み付ける。だが、当の本人は「きゃぁ、怖い」などとまともに取り合わず、スタスタと王の隣まで歩み寄っていく。三者の視線が突き刺さる中、玉座の背凭れに手を掛け、その上に顔を置いて愛らしく小首を傾げてみせた。


「何の話をしていらしたの?」

「この国の情勢のことだよ」


 王の答えに王女がふうん、とつまらなさそうに呟く。今度は王が何かあったのかと尋ねると、王女は頬を赤く染めて答えた。


「わたくしが植えた種が漸く芽を出したの……!」


 王女の口を衝いて出た話が思いの他穏やかな内容であったことに、アダラールが信じられないという目で王女を見つめる。アレクサンドルも微笑ましい世間話かと興味なさそうにしていたが、ただ一人カシェだけが目を増々鋭くさせた。


(私ならこの方が苦しむ……か)


 耳の奥で、王女がカシェに話した台詞が蘇る。

 だが、カシェが深く問いただすよりも前に、扉の前が俄かにざわつき始めた。


「……騒がしいな」


 王が不快感を示しながら扉の向こうに問い掛ける。すると、扉から騎士が勢いよく転がり込んできた。


「何事だ」


 すぐさまアレクサンドルが騎士に尋ねる。騎士は縺れる舌でどうにか「伝令!」と叫んだ。


「ファーガス領から至急騎士団に要請! 魔族に襲われ、死者及び重傷者多数。魔族の魔法によるものか、土地が荒れ、救援に向かった兵士のほとんどが昏倒しているようでして……!」


 心臓の音が耳に煩い。アレクサンドルが何か言い、騎士が掛けていく。急に肩を掴まれ、アレクサンドルが必死の形相で伝えて来るが、上手く頭に入らない。

 アレクサンドルの肩越しに、玉座に座ったままの王の姿が目に入った。


「ファーガス司令官。……それが災厄だ」


 どくん、とひと際激しく心臓が脈動する。グリフの賑やかな小言、アデールの穏やかな瞳、マルクの微笑みやジョゼフの明るい話声。……そして、頬を染めて笑うゼノの顔。大切な者たちの顔が次々に頭に過り、淡く消えていく。


 今すぐ、行かなければ。


 しかし、向かおうとするカシェの意思を阻むようにアレクサンドルがカシェの肩を掴んで離さない。


「カシェ! 領地が襲われたとき、領主は前線に立つことはできない。いくら行きたくとも、お前はその場に行ってはならないんだ!」


 揺れる頭にガツンと声が響く。

 領主は、たとえ領地で何か異変が起きたとしても、異変が起きた場所へ向かってはならない。これは、領地を治める血筋を途絶えさせないためともう一つ、決定権を持つ領主が冷静な判断を下すためだ。前線に立ち、使えなくなる者は少なくない。

 騎士でさえ、死を間近にすれば発狂してしまうこともある。特に、戦に慣れない新人であれば尚更だ。また、元騎士であっても自身の大切な人間が目の前で殺されそうになったとき、己の感情に振り回されて隊を危険に曝しかねない。

 だからこそ、不必要な情報を取り除き、必要な現実にのみ意識を向けられる場でただただ待つしかないのだ。


「……わかって、おります」


 行きたい。今すぐ彼らの元に向かい、無事を確かめたい。危険に曝されているというのならその危険を共に跳ね除けたい。

 わかっている、それができないことくらいは。こんなときばかりただ待つしかない己の身が不甲斐ない。カシェは目を伏せ、揺れる心を隠そうとした。


「あら、カシェも行けばいいじゃない。ねえ、お父様?」


 思いがけない言葉が玉座の間に響いた。都合のいい言葉に、伏せた瞼を上げる。可憐に微笑んだ王女がカシェを見つめて笑っていた。毒々しく、甘やかにカシェに囁く。

 罠だとわかっているのに、甘言に惑わされる。


「……そうだな、特別に許そう。行くといい」

「陛下……!」


 アレクサンドルが声を荒げる。だが、カシェは頭を垂れ、玉座の間を後にした。



 カシェが去った後、アレクサンドルは行先を失った感情を吐き出そうと息を吐いた。そうでもしないと、今にも目の前に座る男を殴りそうであった。

 ドク、ドクと頭の中で血が脈打ち、その動きに合わせて頭が痛む。


「陛下……恐れながら申し上げます。何故、カシェを向かわせたのですか」

「現実を見せるためだ。彼には、知ってもらわなければならんからな」


 魔王討伐へ向かわせるためだろう。そのためだけに、どれだけの酷を強いるつもりなのか。


「……カシェは、自身の身内が危険に曝されたとき、勝手に動く危うさがあります。まだ、騎士としても未熟者です」

「貴殿の目にはそう映るのかもしれないな。だが、単騎でも十分敵を排除できる能力があるだろう」


 カシェが盗賊と対峙したことはもう耳に入っているのかもしれない。

 ぎり、と奥歯が嫌な音を立てる。


「ま、まあまあ。アレクサンドル騎士団長、カシェ殿であれば大丈夫ですよ……きっと、敵を討ち取るはずです」


 アレクサンドルたちのやり取りと見守っていたアダラールが執り成すように間に入った。アダラールの言う通り、カシェならば敵を討ち取ることくらい容易いだろう。だが、何故か耳に雑音が残るような、あるいは胸が騒ぐような妙に落ち着かない感覚がある。


「そう、ですね……敵を討ち取ることは……」


 アレクサンドルははっと顔を上げた。

 伝令役の騎士は何と言った? 確か、魔族に襲われていると告げたはずだ。この魔族差別が根強い大陸に、魔族が訪れることはそうない。

 しかし、ファーガス領は珍しく魔族も暮らす領地。もしも、王の言う通り魔王と呼ばれる者が世界を壊そうと考えているのならば、この上なく都合のよい場所ではないか。疑われることもなく、内に入ることができるのだから。


「……まさか、暴れているという魔族というのは」


 思わず零れた呟きに、王は面白そうに笑みを浮かべ、「さあな」と言った。その笑みに、敵が領民である可能性もあると王が認めていることを察する。

 アレクサンドルは眦を吊り上げた。


「アレクサンドル騎士団長……?」

「カシェは……己の領民が敵に回ったとき、剣を触れぬ男です……!」


 思い至らないならまだしも、カシェの心に深刻な傷を付ける可能性を理解しつつもカシェを向かわせようとする身勝手さに反吐が出る。

 しかし、王は大胆にも余裕を崩さずに返した。


「ほう……ならばこそ、克服するべきではないか」


 ***


 王族だけが通ることを許された通路。その奥に飾られた絵画を前に、アダラールは先程起きたことを思い返していた。


 王は、カシェの望みを聞き入れ、許可を出したのだと思っていた。アダラール自身、領民のことが心配でも何もすることができずにやきもきするくらいなら、前線に立ち、共に戦うことを願うだろう。そして、カシェならば、それができる力があると思っている。


 しかし、アレクサンドルの反応を窺う限り、それは最善ではなかったのかもしれない。王は、カシェの心中を想ってではなく、利用するためならカシェの心を壊しても構わないとさえ思っているようだ。


(でも、それがわかったからと僕にできることは何もない……)


 カシェを止めることも、代わりに行くことも許されない。


「お兄様、何を思い悩んでらっしゃるの?」


 そのとき、鈴を転がすような声が暗い廊下に聴こえてきた。


「お前……どうしてここに」

「まあ! わたくしがお兄様の妹であることを忘れてしまったのかしら? お兄様がここにいることを許されているように、わたくしも許されているのよ?」


 そういうことを聞きたいわけではない。確かに部下に見張らせていたはずなのに、何故その部下から何の報告もなく、王女が玉座の間に現れたのか。

 直接聞けるわけでもない疑問を飲み込み、アダラールは深く溜息を吐いた。


「一体、何が目的だ」

「何が目的……とはどういうことかしら?」


 アダラールの問い掛けに王女が小首を傾げる。


「……これ以上カシェ殿に迷惑をかけるな」


 苦々しく釘を刺したアダラールに、王女は目を丸くした。わざとらしい表情が憎らしく映る。


「わたくし、そんなつもりは……」

「カシェ殿を追い回して、訳の分からないことまで仕出かして……お前の目的は何なんだ」


 悲しそうに目を伏せる王女に、アダラールは詰め寄った。純粋な王女にしては、不気味が過ぎる。本当に、何の目的も見えてこない。

 すると、王女は伏せていた顔を上げ、アダラールを真っ直ぐに見つめた。長い睫毛に縁取られた瞳が揺れ、頬に赤みが差す。


「恋煩いを、しているだけよ」



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