幕間2. 戦地での祈りの夢
今年もよろしくお願いいたします。
今日は年に一度、誰もが剣や筆を置き、心から新たな世界の訪れを喜ぶ祈りの日。各地で、世界が創造された祝宴を上げる日である。
この日ばかりは戦の途中でも手を止め、敵味方関係なく祝い酒を飲む。それが世界の理とでも言うかのように、破った者には相応の罰が下される。かつて祝宴の途中で武器も何も手にしていなかった人々に卑怯にも剣を振るった者は、翌日冷たくなっていた。
そんな言い伝えもあってか、誰も神の意志に背こうとはしない。昨日まではこの戦場で剣を振るっていたカシェも剣を脇に置いた。
「今日ばかりは神様に感謝ですね」
気付けばカシェのすぐ傍にグリフが立っていた。その両手にはそれぞれ酒瓶が握られている。もう既に酒を飲んだようで目元が少し赤らんでいる。
「グリフ」
「安酒ですけどまあまあいけますよ」
カシェが声を掛けると、さあ飲めと言わんばかりに酒瓶を傾けてきた。酒器もないというのにどうやって受け止めろと言うのか。だが、酔いの回っているグリフにはカシェの困惑した表情などただの愉快な表情にしか見えないのだろう。
にやにやと笑いながら尚も酒を勧めて来る。瓶口から何滴か垂れてきた。
「いい加減に……」
酔いを醒まして寄ろうか。カシェが痺れを切らして刺突剣に手を伸ばし掛けたとき、横からずいと酒器が差し出された。
「おいおい、剣を抜くのはご法度だぜ。勘弁してくれよ司令官殿」
見上げると、ヴァイスハイトが仕方なさそうに肩を竦める。そして、酔っ払いから酒瓶を取り上げ、酒器に酒を流し込んだ。
「ヴァイス、私は司令官ではないが?」
「はいはい、細かいことは気にしない」
不服を申し立てるも、ヴァイスハイトにとってはどこ吹く風。さあ飲めと勧められるがままに酒器に口をつけた。
「カシェ、こちらも如何です?」
「レイモン! それは私の秘蔵の……!」
「団長なら団長らしく団員に振る舞ってください」
賑やかな掛け合いに振り向くと、レイモンが肴を手に近寄ってきた。その後ろで情けなく泣きついているのはアレクサンドルのようだ。カシェが頭を抱えると、ヴァイスハイトが愉快そうに笑い声を上げた。
「団長は相変わらずですね!」
「おぉ、これはいい肴ですよ! ……美味い!」
「グリフ! お前、今食ったもん返せ!」
「吐き出せと!?」
冷たい風が吹き、周囲の声を拾う。遠くの方からも笑い声が聞こえてきた。
たまにはこんなどんちゃん騒ぎもいいかもしれない。カシェが酒気を孕んだ息をほうと吐く。白い息が流される先を見つめていると、雪に反射した光が小さな子どもの姿をぼんやりと浮き上がらせた。
「君……」
祝宴の最中とは言え、今日が過ぎればいつ誰が武器を向けるとも知れない。危険を伝えようと掛けた声に、幼子がカシェに向かって手を振った。
「兄様~!」
そう呼ばれた途端、その幼子の顔がはっきりと見える。
「ゼノ」
「見て見て、雪で兄様とグリフ先生とマルク、あとアデールさんを作ったんだ!」
ゼノが自信満々に雪の塊を指差す。どれも全く同じにしか見えないが、ゼノはそれぞれが誰かを教える。その中にはゼノ自身の雪人形がなかった。
「ゼノの雪人形はないのか?」
「まだ作れないの。兄様が作って」
ゼノの言葉にカシェは苦笑して立ち上がる。酒器を傍のヴァイスハイトに預け、カシェはゼノの方へと歩き出した。
誰も血を流すことのない平和な一日。ここ最近はずっとそれを望んでいた。誰も倒れない、戦のない日々を。
(戦のない……? そうだ、今は確か戦の最中で……)
どうしてゼノがここにいるのだろうか。グリフも確か王都の屋敷にいるはずなのに。傷つき倒れた仲間も遠くで酒瓶を掲げているのが見える。
考え出すと、可笑しなことだらけだ。
(そもそもこの目の前の子は誰だ……?)
自然と名前が頭に過ったが、知らない子のはずだ。否、知らないのだ。
思考の渦に呑まれ、カシェの脚が止まる。奇妙な感覚に足を掬われそうになる。
すると、いつの間にかカシェの眼前にまで来ていた知らぬ幼子がカシェの頬を両手で挟んで持ち上げた。何故か懐かしさを感じる藤黄色から目が離せない。
「兄様、深いことは何も考えなくていいよ」
これは夢なんだから。
はっと目が覚めると、一面の雪景色が目に飛び込んできた。冷たい雪を運ぶ風がカシェの髪を掬う。
見渡しても先程まで一緒にいたはずの仲間たちは誰一人として姿が見えず、誰もが眠っているかのように喧騒は聞こえない。音を奪われたのかと錯覚してしまう程の静けさがカシェを包んだ。
まるで世界にひとりぼっちのようだ。そう思った途端、急激に寒気に襲われる。
(兄様)
そんな感傷に浸っていると、誰かに呼ばれたような気がした。
振り返ると先程まで銀世界の他に何もなかったはずの世界に、見知らぬ小屋が建っている。その小屋の扉の内で幼子がカシェを手招いていた。
「こっちへおいで」
招かれるままに足を進めると、瞬きをする間に小屋の中に足を踏み入れていた。木でできた壁には薬草が吊るされている。床には毛の短い絨毯が敷かれていた。屋敷で暮らしてきたカシェにとっては馴染みのない建物だが、木の温かみに肩の力が抜ける。
カシェがきょろきょろと内装を見回していると、幼子が椅子を引いて座るように促した。それに従い、椅子に腰掛ける。近くで見ると、幼子の顔が何処か見覚えのある顔に見えた。
「やあ、カシェ。よく来たね」
「父上……?」
誰だったかと内心首を傾げていると、カシェが入ってきた扉とは別の扉が開き、クロヴィスが入ってきた。その手の上には御馳走が乗せられている。
「父上、何故ここに……」
「うん? 僕がいると何か可笑しいかな」
「いえ……」
クロヴィスがいることはあり得ないはず。にもかかわらず、クロヴィスに心底不思議そうな表情で問われると、何が可笑しいのかもわからなくなった。
「ゼノ、ちょっと手伝ってくれるかい?」
「うん!」
クロヴィスに呼ばれ、ゼノが皿を受け取る。こうして見ていると本当に家族のようだ。
(いや、家族なのか)
ゼノもファーガス家の一員、自身の弟だったではないか。如何も今日は変なことを考えてしまうらしい、とカシェは頭を振った。
自身も手伝おうと席を立とうとすると、間髪入れずクロヴィスとゼノから待ったを掛けられた。
「今日は僕たちが兄様をおもてなしするんだから座ってて!」
「そうだよ、いつも頑張っているカシェに僕とゼノで御馳走を用意したんだから」
二人の圧にカシェは思わず浮かしかけた腰を椅子に下ろした。カシェの目の前にどんどんと皿が並べられていく。見たこともない料理に目を奪われていると、クロヴィスが気まずそうに頬を掻いた。
「不格好ですまないね」
その指先には包帯が巻かれている。料理などほとんど作ったことがないだろうにクロヴィスが自らカシェのために作ってくれたのだろう。確かに料理は形が崩れていたり少し焦げた部分があったりと料理人が作るものに比べれば見劣りするかもしれないが、カシェにとっては何物にも劣らない料理に見えた。
「いえ。……とても、嬉しいです」
心の底から温かな気持ちが溢れてくる。
先程までカシェの反応を恐る恐る窺っていたゼノとクロヴィスが、カシェの返答を聞いた途端目を輝かせた。
「兄様、これ全部この森で採れた食材で作ったんだよ!」
食べてみて、と促されるままにカシェは目の前の料理の一つを口に運んだ。優しくまろやかな味が口いっぱいに広がりつつもぴりりとした香辛料が味を引き締めてくれる。次が欲しくなる味だ。
「カシェ、どうだい?」
「美味しいです。ここに他の皆もいれば……」
咄嗟に口を手で抑えるも時すでに遅く。今で充分幸せなはずなのに、この場にグリフやマルク、アデールといったファーガス家の面々もいればどれ程よかっただろうかと思ってしまった。
やってしまったと瞼を閉じる。閉じた瞼の向こうではゼノとクロヴィスが絶句しているかもしれない。
(申し訳ないことをしてしまった)
反省しつつ再び目を開けると、温かみのある木の壁は姿を消し、カシェは見慣れた食堂の席に着いていた。窓の外へと目を向けると、領地にあるファーガス邸の庭が見える。
「旦那様、如何なさいました?」
ぼんやりとした意識がグリフによって引き上げられた。本来であれば主人と使用人が同じ食卓を囲むことはないのだが、グリフも椅子に座っている。
「今日は無礼講だよ」
「流石、クロヴィス様! 太っ腹!」
クロヴィスがそう告げると、グリフが口笛を吹き、行儀が悪いとマルクが叱る。それをアデールが呆れたように、ゼノが楽しそうに見ていた。
酒瓶がどんどんと空き、料理は次々に平らげられる。笑い声は屋敷中に響くのではないかと言う程高らかに、今だけはしがらみもなく自由を謳歌する。
「そろそろ時間かな」
粗方料理は食べ切った。もうこれ以上は入らないだろうと思えるくらい、皆が皆思いのままに食べた。お開きにするのに丁度いい時分だろう。
それでも何故かカシェは胸の奥に穴が開くような寂しさを覚え、誰に問うわけでもない言葉が零れた。
「……何処に行くのですか」
その声は騒ぐ面々の声に掻き消され、誰の耳にも届かない程の小さな音だ。当然、拾われないだろうと思っていると、じっとカシェを見つめる藤黄色と目が合った。
「何処にも行かないよ」
震える程の冷気に目を開いた。視界に、枕代わりにと支えにしていた剣が飛び込んでくる。今はまだ戦時下。だが、いつもに比べると静かな朝だ。絶望の朝ではなく、命の鼓動が聞こえてくる。
背に感じる温もりに視線を寄越すと、ヴァイスハイトが背を預けて眠っていた。ほう、と吐く息が白い色を帯びて空に向かう。その行く末を見つめていると、朝陽が銀世界を照らし始めた。
世界は創造された。祈りに答えた朝が来たのだ。
新年にちなんで、カシェが迎えた年明けの話でした。
普段悪夢ばかり見ているカシェですが、彼を憐れんだ神様が彼の心から望んでいる幸せを見せてくれたのかもしれません。
次回からはまた、通常の話に戻ります。




