幕間1. 幼き日の思い出
今年最後の投稿となります。
来年もよろしくお願いいたします。
ゼノがファーガス家の一員として認められた日。マルクはゼノの身を客室からゼノ専用の部屋へと移すべく、掃除を進めていた。
カシェがゼノの部屋にと宛がったのは、カシェが使っている離れの一室。そこは、幼き頃のカシェにとって大切だったものが保管されていた。
アレクサンドルとの修行で使用した木剣やずっと手放せずにいた毛布。勉学で何度も読まれた本。どちらかと言うと、カシェにとっての大切なものと言うよりはマルクとクロヴィスが大切にしていたものかもしれない。
「ふふ、旦那様に言えば全て捨てられてしまいそうですね」
もしかしたらゼノであれば喜んで貰い受けるかもしれない。カシェはゼノに新しいものを望むだろうが、ゼノが願えばこのまま残しておいてもらえるだろう。
(……なんて、何処までも旦那様を第一に考えてしまう癖はいけませんね)
今ではゼノもマルクが仕える人物なのだ。ゼノもカシェと同様に扱うことが恐らくカシェと亡きクロヴィスの願いだ。
マルクはカシェが認めた以上はゼノを一家に迎えることに反対はなかった。まだ年若いグリフは納得できていない節もあるようだったが、あれはあれで器用な人間なので問題はない。
何より、心から笑うカシェにマルクもグリフも心底安心したのだ。
「それだけでも十分ですね……おや、これは」
そんなことを考えていると、本棚の奥底から随分と古めかしい絵本を見つけた。
軽く表面の埃を拭う。陽に焼けて薄くなった表紙には、竜の絵が描かれていた。
「懐かしい……坊ちゃんが大好きだった絵本ですね」
マルクは壊れ物に触れるように優しい手付きで本を開いた。本は軋むような音を上げ、物語を銀の瞳に映した。
***
「マルク、聞いているかい?」
突然声を掛けられ、マルクははっと意識を浮上させた。決して居眠りをしていたわけではないが、考え事をしていた気がする。
表面上は取り繕って頷くも、声を掛けた主には気付かれているようで苦笑交じりにもう一度尋ねられた。
「あの子は何が好きだと思う?」
「坊ちゃんの好みですか?」
そう、とクロヴィスは満足気に頷いた。その様子を横目に、マルクは首を捻った。
カシェは何かに特別執着を示す子ではなかった。流行りのぬいぐるみも、男の子が好むような玩具も特段欲しがる様子はない。それはもう、クロヴィスですら悩むほどに何かを欲しがったことなどなかった。
考えども答えなど中々出るものでもない。
「マルクでも思いつかないかい?」
「残念ながら」
「そうか……どうしたものかな」
マルクの答えを聞いたクロヴィスが口元に手を当てて考え込む。そんなクロヴィスの悩む姿を視界に収めたまま、マルクはカシェに思いを馳せた。
幼い頃から母親のいない可哀想な子ども。片親となってしまった子は、それでも寂しさをおくびにも出さずに過ごしている。日々、抑えきれぬ魔力によって魔力路を焼かれる痛みを抱えながら、孤独に耐えている。
それは偏に、忙しいクロヴィスの手を煩わせないためであった。クロヴィスもそれを知りつつ、妻を失った悲しみを埋めるように仕事に打ち込んだ。カシェの優しさに甘えてきてしまったのだ。
「あの子に何か父親らしいことをしてやりたいんだが、何をしてあげればいいかもわからないんだ」
今更遅いかもしれないが、とクロヴィスが皮肉気に笑う。カシェは随分と子どもらしくなく育ってしまった。それは自分のせいだ、と酷く後悔している。
「まだ、遅くないのではないでしょうか」
「……そうかな」
「坊ちゃんは、いつまでも旦那様を待っていらっしゃるかと存じます」
マルクの言葉に、クロヴィスが目を丸くする。そして、緩々と目尻を緩めて微笑んだ。カシェよりも深みのある碧色が嬉し気な色を帯びる。
「そうか、なら僕が諦めちゃいけないな」
「勿論ですとも。これから好みを知っていくのもよろしいのでは?」
それは妙案だ。クロヴィスは早速カシェを呼び出した。
呼び出されたカシェは訳も分からぬうちに馬車に乗せられ、あれよあれよという間に街に下ろされた。
「父上? マルク?」
カシェが不思議そうな顔でクロヴィスとマルクを見上げる。嗚呼、なんと可愛らしいことか。
クロヴィスがカシェの柔く白い髪をふわふわと撫でた。
「カシェ、君の行きたいところに行こうか」
僕たちを連れて行ってくれ。そうクロヴィスが言うと、カシェはぱちくりと瞬きをした後、じわじわと頬を赤らめた。
「坊ちゃんは何がお好きですか?」
「んと……」
マルクが問い掛けると、カシェが一生懸命答えを出そうと頭を捻る。自身でも好きなものが中々出てこないのか、へにょりと眉が八の字に下がった。
「なにも、思いつかないです」
「甘いものはどうだい? 綺麗なものでもかっこいいと思うものでも何でもいい、好きなものを探しに行こうか」
申し訳なさそうに告げるカシェに、クロヴィスが慌てて提案をする。
「父上、ついてきてくださいますか?」
「勿論だとも」
「……うれしいです」
カシェの機嫌が直ったことにクロヴィスもマルクもほっと胸をなでおろす。折角カシェが好きなものをと願った外出でカシェが傷つくことなど言語道断。クロヴィスとマルクは目と目で会話し、互いに頷いた。
一行は気の向くまま、色んな店を冷かして回った。ときに甘いものに舌鼓を打ち、ときに変わったものに目を丸くさせた。
それでも、カシェが欲しいと望むものには出会えなかった。だが、楽しそうに頬を緩めるカシェの姿にそれでもいいかと思える。
(結局、こうやって一緒にいる時間こそが坊ちゃんにとって一番欲しかったものかもしれませんね)
「カシェ?」
物思いに耽っているマルクの思考を、クロヴィスの声が引き上げた。視線を向けると、カシェが古本屋の前で足を止めていた。
「坊ちゃん、古本屋が気になるのですか?」
マルクは問い掛けると、カシェは意識を本屋の扉に向けたまま小さく頷いた。
「入ってみようか」
クロヴィスがそう言って扉を開ける。カラン、と鐘が三人を迎え入れ、古い本の香りが胸いっぱいに広がった。カウンターに座る店主がちらりと視線を寄越し、すぐに興味を無くしたように手元の本に目を向ける。
「カシェにも読めそうな本はここら辺かな……」
クロヴィスが絵本の並んだ場所を指差した。
「ほう……色々とありますね」
マルクの言う通り、本棚には姫を救う王子の話や冒険をする話、魔物を倒す話など様々な絵本が並んでいる。
「この魔物を倒す絵本などはどうです? 綺麗な色合いですし楽しめそうですよ」
「いやいや、それを言うなら冒険の話がいいんじゃないかい? 浪漫が詰まっていてきっと面白いに違いないよ」
あれやこれやと大人二人が薦める絵本になど目も暮れず、カシェは本棚の一点を見つめていた。
「……坊主、惹かれた本を手に取れ」
突然、背後から声を掛けられる。振り返ると、手元の本に目を通していたはずの店主がカシェを真っ直ぐ見ていた。
「でも……」
「お前は、その本に選ばれたんだろう」
戸惑うカシェを店主が指差す。買わせるための常套句だろうが、今はそれが有難い。
それでも尚、クロヴィスとマルクが薦める本を見て迷う様子を見せるカシェに、クロヴィスは仕方がない子だと微笑んだ。
「カシェ、僕らに好きなものを教えてくれると嬉しいな」
「私も、坊ちゃんのお好きなものを教えていただきたいです」
クロヴィスとマルクの言葉が後押しとなったのか、カシェは少し照れたように本棚から一つの本を取り出した。
それは、古本屋に並ぶ本の中でも一際古めかしい表紙の絵本であった。所々擦れており、淡く滲んでいる。それが味とも言えるが、凡そ子どもが好むようなものではなかった。
唯一子どもが好む部分と言えば、表紙に竜が描かれていることだろうか。
「それが欲しいのかい?」
「欲しい、です」
それは、カシェが初めて明確に示した欲であった。
「ならこれを買おうか。店主、この本を頂くよ」
それからカシェは毎日毎日、繰り返し絵本を読んだ。クロヴィスもできるだけ時間を作り、悪夢に魘されやすいカシェが少しでもいい夢が見られるようにと読み聞かせてやった。
「カシェは竜が好きなのかい?」
「大好きです!」
子どもらしく竜が好きと告げるカシェにクロヴィスが微笑まし気に話を続ける。
「カシェがこんなに竜のことを好いているだなんて知らなかったな……知っているかい、実はファーガス領にも竜が棲んでいるんだよ」
「本当ですか!? 会ってみたいです」
頬を桃色に染めるカシェの瞳がきらきらと輝く。マルクは親子の様子を見守りながら、クロヴィスにそっくりな幼子の表情に目尻を緩めた。
「坊ちゃんはどんな竜がお好きなのですか?」
男の子らしく強い竜だろうか。咆哮が空を割るような、何物にも傷つけられない正に伝説の竜。飛べば地を覆うような影を落とす存在かもしれない。
そんな答えを想像していたクロヴィスとマルクであったが、カシェは悩むことなく好きな竜を口にした。
「優しくて寂しい竜」
「優しくて……」
「寂しい?」
予想だにしていなかった答えに二人が首を傾げる。それでも、カシェはそれが当然だと言わんばかりに力強く頷いた。
「カシェはそんな竜がいたらどうするんだい?」
「う~ん……家族になります!」
竜をどうやって家族にするのか。そんな野暮なことを口にする者はここにはいない。クロヴィスは本を横に置き、カシェを抱き上げた。
「僕がいるのに?」
「竜も父上の子になるんです」
「はは、そうか。竜も僕の子か」
それは素敵だね。そうクロヴィスが笑うと、カシェも満面の笑みを浮かべた。
***
マルクは絵本を閉じた。懐かしい、本当に懐かしい思い出だ。
(旦那様。竜が御家族になることなどはありませんでしたが……竜の愛し子が坊ちゃんの弟君になりましたよ)
そして、カシェ自身も竜の愛し子であった。あれは、本屋の店主が言うように本に選ばれたのかもしれない。当時は本屋が買わせるために言ったものだと思っていたが、今となってはこうなることがわかっていたのではないかと思える。
(何にせよ、坊ちゃんはもう孤独ではなくなったようですよ)
マルクの口角は気付けば緩く上がっていた。
案外、この部屋がもので溢れるのはすぐのことかもしれない。




