31. 強襲と応酬
突然の来訪にせよ、持て成すことができなければ一族の恥。アデールの銀蝶からは末の姫こと王女がいつ頃訪れるのかもわからないが、アデールが侍女を追ってからの日数を考えると、少なくとも五日は経過していた。
仮にも王族がカシェのような無茶な行程で来るとは思えないにしても、早めに対策をしておいた方がいい相手なのは確実である。
カシェは急ぎ、厩に向かうべく踵を返す。馬は王国民の脚であるため、各地でその馬を貸す店が存在する。基本的に家で馬を飼っている貴族が利用することはないのだが、グリフにゼノを預ける以上、御者のいない馬車に乗ることはできない。
(できれば早馬を借りたいところだが、残っているかどうか)
逸る心とは裏腹に、袖が後ろに引かれた。
「……僕は、連れて行ってくれないの?」
肩口から後方を見ると、足元を見つめるゼノがカシェの袖を握り締めている。両腕で弓を抱えているためか、袖を握る力は弱弱しい。振り解こうと思えば安易に振り解けるだろう。
「坊ちゃん、いい子に」
「連れては行けない」
グリフがゼノを引き離そうと薄い肩に手を置く。その手がゼノの肩を引く前に、カシェは前を向いてゼノに言い放った。
「……そっか」
駄々をこねるかと思いきや、ゼノは聞き分けよく手を離した。
自分でもわかっているのだろう。認識阻害すらもできない今、着いて行ったところでカシェたちの負担を増やすだけであることを。
ただ、頭で理解していることと気持ちとでは乖離があるはずだ。その幼子の未練を断ち切るように、カシェは足早に厩へと向かった。
「……さぁ、坊ちゃん! どうなさいます?」
カシェの背中が人混みの向こうに消えた後もじっと消えた先を見つめ続けるゼノに、グリフは態と明るく話し掛けた。
「…………」
「美味しいもの買いに行きます? あ、おもちゃもいいんじゃないですか?」
子どもの好みそうなものを列挙するが、ゼノの反応は一切ない。困ったな、とグリフがゼノから視線を上げると、ふと仲のよさげな家族が目に映った。
子どもがおもちゃを片手に走り回り、躓いて転ぶ。寝転がったまま泣き喚く子に親が笑い掛け、両手を広げる。子どもは自力で立ち上がり、親に抱き着いた。
親が子どもを抱き締めるところまで見つめていると、ゼノがぽつりと言葉を溢した。
「行こう」
「あ、はい……え? 行くってどこに?」
早急に現実に帰されるような感覚を抱きつつ、グリフはゼノに視線を向けて聞き返した。一方のゼノはまだじっと家族連れを見つめている。しかし、先程と違い、質問には返事が返ってきた。
「兄様に着いて行く」
「は!? 駄目ですよ! 容認できません!」
「……わかってる。でも、次は着いて行く。そのために、強くなる」
ゼノがグリフを見上げ、力強い藤黄色が空を映した。
「……どちらまで?」
「森へ。よろしく頼むよ、先生」
***
カシェが厩に着くと、運よく一頭だけ残っていた。馬は系列店であればどの厩に返しても問題がないと告げる店主の説明を足早に聞く。何処で返してもいいとは有難いことだ。関心していると、店主が意気揚々と語り出そうと口を開いた。
カシェは逃れるように店主の手に金を握らせ、即座に馬に乗った。その背後、残念そうな顔をする店主を振り切る。
馬は器用にも人を避け、街路を抜けた。元々ファーガス邸は砦の中にあるため、街からもそう遠くない。瞬く間にカシェは屋敷に着いた。
「……お帰りなさいませ、旦那様」
馬から降りると、困惑を隠し切れないといった様子のマルクがカシェを迎え入れた。その後ろに使用人が並んでいるが、特段屋敷に変わりはないようだ。カシェは馬に視線を向けて誰も後続して来ないことを訝しむマルクの視線を遮った。
「マルク、アデールはいるか」
「いえ、まだ戻っておりませんが……」
行きに乗っていたはずの馬車の姿もなく、一人で戻ってきたカシェに何か問題が発生したのではないかとマルクが表情を硬くする。だが、まだ他の使用人の目もある手前、話題にできないと思ったのかすぐに表情を取り繕った。
「マルク、少し話したいことがある」
「かしこまりました」
マルクは礼を取ると、近くにいた使用人に馬を預けた。
執務室に辿り着くと、カシェは首元を緩めて息を吐いた。漸く息の詰まるような心地から解放される。万が一にも末の姫が既に来ていたらと思うと気が気でなかった。
深く椅子にもたれ掛かるカシェにマルクは今度こそ困惑を隠し切れずに問い掛けた。
「一体、如何なさったんです? グリフとゼノ様は……」
「二人には今、身を潜めてもらっている」
「身を……? どういうことです?」
どういうことかなど、カシェの方が聞きたい。カシェは組んだ手に額を乗せ、心底重たい気持ちを吐き出した。
「銀蝶より報せがあった」
「銀蝶ということは、アデールが……」
「そうだ。首謀者がこちらに来るらしい」
カシェが疲労の滲む目で頭を上げると、マルクが目を見開いた。一体どういう神経でいれば態々被害者の元へ訪れようと言うのか。全く気が知れないと言いたげな視線に首を振って同意する。
「証拠を吐かせればよろしいでしょうか」
「それができるような相手ならばよかったんだがな」
「……迎え入れろ、と?」
カシェの言葉からもファーガス家よりも爵位が高く、決して断れない相手であることは理解しただろう。それでも、マルクは冷え切った銀の瞳を細めた。余程受け入れ難いらしい。
カシェは再び頷いた後、片側の口角を上げた。
「だが、来訪の先触れは来ていない」
「表立って権力をふるうこともできないということですね」
本来であれば、来訪することを事前に知らせる必要がある。それをしないということは、お忍びで訪れるということであり、身分に見合ったもてなしを受けられずとも文句を言うことはできない。そんなことをしてしまえば、先に礼を失したことを指摘されるばかりか常識外れと後ろ指をさされかねない。
爵位が高ければ高い程、その影響は大きくなる。
「我々がもてなすのはあくまでもただの客人だ」
数日後。いくらか準備の整ったファーガス邸の前に、紋はないものの豪奢な馬車が停まった。
侍従の太腿を足場に、ふわりと柔らかな生地のドレスを身に纏った女が降り立つ。まるで女神か何かを彷彿させるような清らかな風景に使用人の幾人かがほう、と息を吐く。それをマルクが鼻白んだ様子で見つめていた。
「あら、随分な出迎えね」
カシェの傍に側近とも言えるグリフやアデールがいないことを確認し、女がにこやかな声音でカシェに語り掛ける。総出で迎えないのが気に食わないのだろう。その目は愉快そうに弧を描いているが、瞳の奥は冷たさを孕んでいる。
「客人を迎え入れるには十分かと思いますが?」
「王族を迎え入れるには不十分だわ」
不満げな表情を隠しもせず、カシェに手を差し向ける。エスコートをしろということか。カシェは柔和な笑みを崩すことなくその手を取った。
「おや、王族の方がいらっしゃるとは存じ上げませんでしたな」
カシェの口から言い放たれた言葉に、女の指先に一瞬力が籠る。報せもなく来た分際で王族としての扱いを享受できると思うなよ、という声なき声は届いたようだ。
それでも女は可憐な薄桃色の唇の端を上げ、親し気にカシェの掌を撫でた。
「王城に届けば後悔するのは貴方よ」
今からでも滞在先を王城に伝えようかしら、と女が小首を傾げる。王女が公式に訪問したなどと知られれば、恋仲なのではないかと噂をされるぞと脅しているのだろう。
だが、それがどうしたというのだ。
「ご随意に。……どちらの方がよろしいかなど考えずともわかるかと存じますが」
何にせよ、非礼なことをしている以上は王族として傷にしかならない。婚約もしていない男の元に訪れることも、先触れもなしに訪れた上に身分を笠に着ることも、だ。
そんな勝手が許されようものなら、建国当初からアルヒ王国を支えてきたファーガス家とそれに連なる家々が離れるだけだ。王国で活躍する文官だけではなく、軍事面で大きな影響力を持つ騎士団長のアレクサンドルまでもが背を向ければ大きな痛手だ。下手をすればクーデターすらも起こりかねないのだから。
それは流石に本意ではないのか、女がそれ以上口を開くことはなかった。
応接室に着くと、マルクが手早く茶を用意する。その後、少し開かれた扉の横に控えるのを待って、カシェはカップに口をつけた。
「香りがいいわね」
女は香りを嗅ぐとすぐに傍の侍従に下げ渡した。侍従が一口含み、嚥下する。侍従が何も言わずに控えるのを確認し、女が優雅にカップを摘まむ。その一連の流れをマルクが表情を動かさずに見つめていた。
「それで、遠路はるばるこのような場所においでくださるとは、どのような御用事で?」
話を広げる気など一切ない。早く本題に入れと言わんばかりの態度に、女は仕方なさそうに肩を竦めた。
「うちの子を知らないかしら?」
誰のことか、などと態々聞かなくとも、カシェに薬を盛ってきたメイドと侍女のことであることは理解できた。だが、そんなことなどおくびにも出さず、カシェは困ったように眉尻を下げた。
「人を探しておられるのですか? 生憎どのような方なのかは存じませんが、それならば捜索隊を願った方がよろしいのでは?」
心配そうな顔を取り繕ったカシェの視線の先で、女が徐々に目を潤ませていく。程なくして、ほろりと雫が滑らかな頬を伝った。
「わたくし宛のお手紙が取られてしまって連絡がつかないの……」
それは、女の本性を知らなければ可憐な女が悲しみに睫毛を濡らす、庇護欲を掻き立てるような表情であった。
「それはお気の毒に……早くその方も手紙も見つけ出したいでしょうが、もうお疲れでしょう。今日ばかりは我が家でお休みください」
一方のカシェも女を気遣う優し気な風貌をしていた。言っている内容も表面上は突然訪れた女を追い払うどころか快く休むようにと伝えている。現に、女の侍従は満足そうに頷いていた。
少し考えれば「そんなことで無断で訪れたのならば用もないのと同然、一晩で出ていけ」と言っていることなどすぐにわかるであろうに、そこまでは思い至らないらしい。
「あ~あ、可哀想」
女は突然表情を消すと、愛らしい声音のまま呟いた。玉を転がすような声が耳に不愉快だ。
「姫様……」
「眠ってちょうだい」
急に気分を害した女の顔色を窺うように声を掛ける侍従を遮り、女が気だるげに告げる。その瞳と侍従の目が合った途端、侍従は膝から崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。そのままぴくりとも動かない侍従を女が眼下に見る。
一切動かずに見ているカシェに女は女神もかくやといった微笑みを浮かべる。残念ながら、その微笑みに釣られる者はもうこの場にはいないのだが。
「部屋をご用意いたしましょうか?」
「結構よ。私は可哀想な貴方にお告げを伝えに来ただけだもの」
今度こそ意味がわからず、カシェは黙って続きを促した。
「可哀想なのは貴方だけじゃないけれど。……彼女、死んじゃうわ」
「彼女とは?」
「わたくしが丹精込めて育てた子よ。使えない男爵令嬢なんかじゃなくて、もっと長く育てていた子」
恐らくメイドではなく侍女の方だろう。しかし、アデールが侍女を殺すとは思えない。だと言うのに、もしかしたらもう死んでいるかもと言ってくすくすと笑う女の言葉が嘘だとも思えない。
カシェが惑うのが嬉しいのか、女は花の色に染めた頬を両手で抑え、酩酊したように告げる。
「種を植えたのよ。そろそろ芽が出るかしら」
突如変わった話題にカシェは眉を顰めた。最早女はカシェの理解など求めていないのか、そのまま会話を続ける。
「あの子ったらここに植えてくれなかったようね。特製のお茶も上手く入れられなかったようだし、本当に最後まで言うことを聞いてくれないんだから」
「……一体、何のことです?」
特製の茶というのは、例の誘導剤入りの紅茶のことに違いない。先程自ら侍従に命令したのは、暗にカシェにも効くかどうか試していたらしい。
自身が首謀者であることを隠そうともしない気味の悪い女を前に、カシェはしらばくれた。
「嗚呼、でも貴方ならこの方が苦しむかも」
楽しみね、と心底嬉しそうに告げた女は嵐のように屋敷を去った。
カシェは胸中に漂う暗雲に眉を顰め、女の乗る馬車に背を向けた。




