2. 醒むる者(下)
正直面倒でしかない。言いたい奴には言わせておけというのがカシェのスタンスだ。有象無象にかまける暇があるならば、自分の仕事をしている方が賢明である。
そもそも昇格自体は断ろうと考えていたのだ。そのような根も葉もない噂など気が付けば消えていることだろう。そう思って断ろうとした。
「それはいい考えだな」
しかし、大抵物事というものは上手くいかないらしい。カシェが思わずヴァイスハイトを睨みつけると、闘志に燃えた目線が返ってきた。
親友の汚名を晴らさねばとその目が語る。面倒事はできれば避けたかったが、どうにもこの男の真っ直ぐな目には勝てなかった。
当然、一言くらいは言ってやらないと気が済まないが。
「ランゲ卿、勝手に決められては困りますね」
「うぉっ! おま、気持ち悪い喋り方すんなよ!」
「いえいえ、本来でしたらこちらが正しいのですが……」
「やめたやめた! 爵位はそうかもしれんが、お前は伯爵当主。俺は公爵家を継ぐこともできない予備の次男坊だ! 第一、幼馴染にそんな喋り方されたら鳥肌が立つぜ」
さも鳥肌が立ちましたと言わんばかりに腕をしきりに擦る。その姿に留飲を下げると、ヴァイスハイトがにやりと笑った。
「やるんだろ?」
「まぁ、たまには親友の期待にも応えておかないとな」
「そうこなくっちゃ!」
「それでは相手はどうされますかな? 優秀な訓練生もおりますが……」
(随分となめられたものだな)
ヴァイスハイトは可笑しくてたまらなかった。この男は暗に、実力の低い者を選んでも構わないと言っているのだ。
いくら訓練生の中で優秀とは言え、実践を積んできた騎士には遠く及ばない。その相手を選ぶということは、勝ったとしても自分の実力はその程度でしかないと示すことに他ならなかった。
訓練場がピリリとした空気に包まれる。度重なる礼を欠いた物言いに、同じ部隊の騎士がこれ以上我慢ならないと怒気を滲ませていた。
「お気遣い感謝いたします……が、私は貴公と手合わせ願いたく存じます」
「それは構いませんが、本当によろしいので?」
明らかな嘲弄。周りからもクスクスと笑いが漏れ聞こえてくる。
「あーあ、実力もないのにあんな大口を叩いちゃって」
「大人しく訓練生と手合わせしときゃいいのに……まぁ、訓練生にも負けたら流石にもうどうしようもねぇけどな!」
「違いない! 彼の伯爵殿がどの程度のお手並みか……楽しみだなァ!」
「貴様ら……!」
場の空気が十分に温もってきた頃合いを見て、ヴァイスハイトがストップをかける。
「静粛に! これからファーガス卿とサマン卿の手合わせを行う。立会人はこの俺、ヴァイスハイト・ランゲが執り行う!」
未だ冷たさを孕んだ風が訓練場の空気を連れ去る。それでもなお、辺りは熱気に飲まれ、人々の期待も高まっていた。
「ファーガス卿は魔法を使われますかな?」
「いえ、それではあまりにも早く勝負が着いてしまいそうですので」
この期に及んで余裕が崩れない姿に、周囲は一層盛り上がる。一方は歓声を、そして一方は嘲笑を。また、心ある人物の中には憐れみの目を向ける者もいた。
見知った騎士が訓練用の剣をカシェに手渡す。両刃共に潰れており、当たっても身を裂くことはない。
それを確認し、礼と共に受け取ると、騎士は肩を軽く小突いて去っていった。恐らく激励のつもりだろう。対するサマンも既に準備は整っているようで、手には同様の剣が握られている。
心なしかカシェの心は熱くなっていた。手の内にある重みは馴染みの物とは異なるが、命のやり取りではないただの模擬戦に心躍っていることは確かだった。
「それでは、この試合での魔法の使用は禁止とし、万が一使用が認められた場合は即敗北とする。また、今回は魔術の使用も禁止だ。訓練場の土が抉れたら俺が怒られるからな」
魔術は使える者が多く、努力次第で誰にでも習得できるものだ。使える種類自体は本人の適性によるが、汎用性があり日常生活のほとんどで使用されている。そして、その強さは魔力量によって左右される。
騎士団でも基本的には身体強化の魔術を使用している。魔物との戦いで少しでも生存率を上げるためにも必ず習得する必要があるからだ。
魔素を全身に巡らせて身体を強化させることで、身体能力の向上の他、スピード特化、筋力特化、防御力特化、治癒力の向上など自身に見合った強化が為される。これにより、体格差のある相手とも渡り合うことができた。
「ふざけんな、ヴァイスハイト! カシェに不利じゃねぇか!」
「お前、どっちの味方なんだよ!」
ヴァイスハイトの下したルールに同じ部隊の騎士から野次が飛ばされる。彼らもカシェが負けるとまでは思っていないが、それでもここまでいけば公平性に欠けると感じていた。
「お前らはあれを見ても同じことが言えんのか!?」
止まない批判の声に、ヴァイスハイトはカシェを指差して叫んだ。その先には、渇いた唇を潤わせるように舐め、珍しく好戦的な表情を露わにしている姿があった。
(鬱憤溜まり過ぎだろ……!)
ヴァイスハイトはカシェの様子を見て少し冷や汗をかいていた。カシェは魔力量が多い方で、その気になれば訓練場のあらゆる箇所に穴をあけかねない。普段はそのようなことは絶対に行わないが、血が騒いでいそうな表情からその理性が働くのか心配になった。
他の騎士も同様のことを考えたのか、大人しく座り直していた。
「おや、魔術も禁止してしまってよろしいのですか?」
「少々気合を入れる必要はありますがね」
入念に筋を伸ばし、軽く剣を振って馴染ませる。フォンと風を切る音に頷き、ヴァイスハイトに目配せをした。サマンもヴァイスハイトに目を遣り、すぐにカシェに向き直って剣を構える。
それを準備完了の合図と捉え、ヴァイスハイトは腕を天に向けた。
「始め!!」
「はぁぁ————っ!!」
先に動いたのはサマンの方であった。勢いよく距離を詰め、相手の動きを封じるように畳み掛ける。剣がぶつかり合う音が空気を振動させた。カン! キン! と何度も刃を合わせるが、カシェは防戦一方でその場から動くこともままならない。
攻撃の手は止まず、重たい一撃がカシェの腕に負荷を掛ける。単純な力勝負に持ち込まれてしまえば受けきれなくなるのは一目瞭然。
それは、サマンに自身の勝利を確信させるのに十分であった。上段、下段と縦横無尽に降りかかる剣を受け止められなくなれば即終わりだ。否、既にこの攻撃だけで手が痺れ、待つこともなく剣を落とすことだろう。
「魔法も魔術もありにしときゃよかったのに」
訓練生の一人がそう呟き、すぐに迎えることになるだろう結末に落胆した。そして、騎士を目指す者として、爵位だけで騎士になった男に恥ずかしさまで覚える。やはり、火のない所に煙は立たないのだ。
訓練生は、どうせ周りも白けているに違いないと思い、周囲を見渡した。
「えっ……?」
ところが、訓練生の予想に反して周囲は試合に夢中で、真剣に成り行きを見つめていた。賑やかしい声は徐々に鳴りを潜め、手が固く握られる。訓練生は他の騎士達が固唾を飲んで見守る姿に驚き、急いで試合に意識を戻した。
「どうやら昇格の噂は噂でしかなかったようですな————!」
「それはどう、かなっと」
余裕で終わるはずだった。
しかし、いつまで経っても決着が着かない。いくら剣をその細腕に向けて振り下ろしても、軽く流れるように切り結んでは離れていく。
カシェの動きはおろか、呼吸すらも乱れることがない。むしろサマンは己の体力ばかりが削られていくことに気付き、焦りを募らせていた。
「何故……何故そのような成りで……!?」
「成りは関係ないでしょう」
まるで水中を舞うようであった。重力など感じさせず、軽やかに。緩急を付け、誘うように。
カシェの髪が風に揺れるも、それすら自分の意思で動かしているように錯覚する。好戦的な碧色は光を取り込んできらきらと輝き、周囲を引き込む。
誰もが呼吸を忘れて見入っていた。
カシェの動きに合わせてサマンの身体が動く。サマンは自分が優位に立っていたのではなく、踊らされていたのだと察した。そして、そのことに気付くことができたとしてもどうしようもないのだということも。
大きく振り下ろされた剣を、カシェは半身をずらすことで避けた。サマンの体勢が崩れ、急いで整えようとするが、カシェがその隙を見逃すはずもない。優雅な動きからは想像もできないほどの素早い剣が首の後ろに触れるか触れないかの位置で止まり、後からふわりと風が当たる。
たった一瞬。だが、その一瞬で戦場であれば己の首が飛んでいたと想像し、サマンの心臓がドッと騒ぎ立てる。嫌な汗が肌を伝い、サマンは腰を抜かしたのか膝をついて動けなくなっていた。
周囲は声を一切あげることができずにいた。その空気をものともせず、白い男が剣を下ろす。訓練生は、いつの間にか固く握り締めた手をゆっくりと開いた。掌が外気に触れ、じっとりと汗をかいていたことに気付かされる。
誰がこのような結果を想像していただろうか。否、カシェをよく知る者たちははじめからわかっていた。わかっていなかったのは、実力を把握できずにいたのは、相手を見ずに悪い噂だけを信じていた自分たちだけだったのだ。
「勝者——カシェ・ファーガス!!」
ワァ————ッッ!!
先程までの静けさが嘘のように歓声が轟いた。誰もが胸の奥を熱くし、カシェに手合せ願いたいと思った。
当の本人はその歓声を気にも留めず、膝をついたまま動かないサマンに手を差し伸べている。反射的に伸ばし、我に返ったように空を彷徨うサマンの手を掴み、その身体を引き上げた。たたらを踏んで力が入らない様子のサマンを支え、その耳元で囁く。
「魔法、使わなくてよかったでしょう?」
サマンは身震いが止まらなかった。すぐにカシェは離れていったが、未だに首元に刃を当てられているような感覚に襲われている。もし、もしも魔法を使われていたらどうなっていたのだろう? 相手を見下し、魔法の内容も知らぬままその使用を促したことを今更ながらに浅はかであったと悔いた。
「よう、お疲れさん」
「いい運動になったな」
サマンから離れると、カシェはあっという間に騎士たちに囲まれ、口々に声を掛けられた。そのほとんどが同じ部隊の騎士であり、他の騎士や訓練生達は近付きたくとも近付けない様子だ。
「しっかし、本当に魔法使ってなかったのか? お前と戦った後、アイツ一切動けずにいたじゃねぇか!」
「おいおい、俺が立会人をしていたんだぞ!? 疑うんじゃねぇよ!」
「だって気になるだろぉ! 相手の動きを封じられる妙なギフトなんだからさぁ」
「ちゃんと魔力鑑定使って見てたから不正はねぇよ。ランゲ公爵家の名を汚すようなことはしないさ」
「冗談だって」
ヴァイスハイトの掌には、カフスボタンサイズの魔道具が握られていた。魔力鑑定はその名の通り、空気中に漂う微かな魔力の流れを察知し、魔力の使用を持ち主に伝える魔道具である。
凡そ、このような事態を想定して持ち合わせていたのだろうか。準備のいいことだとカシェは感心した。
「……ていうか俺、中隊長だぞ!? 敬語使え!」
「よっ、ランゲ中隊長殿! 昇格祝いに何か奢ってください!」
「普通反対だろ!!」
「違えねぇ!」
共に命を預け合ったからか、爵位の壁を感じさせることがないほどに気安い。尤も、それは相手がヴァイスハイトだからでもあるだろうが。
公爵家次男という立場で、カシェと同じ歳ながら中隊長に昇格。しかし、その本質は気の良い兄貴分であることに変わりはない。この男は、相手が年上であっても困っていれば兄のように寄り添い助けてやるのだ。
それはもう、騎士の年代や身分に問わず好かれているのも当然と言えた。
「でもまさかカシェが司令官とはなぁ……」
「大出世じゃねぇか」
「いや、私は……」
「これからは司令官殿って呼ばねぇとな~~~」
カシェの声など聞いてすらもいない。彼らの中ではもう決定事項なのであった。
(断るんだが……)
祝いだ、肉だ酒だと騒ぐ騎士たちに最早苦笑いしかできない。まぁ、からかっているだけだろうとカシェは軽く流していた。
「……逃れられるわけがないんだけどな」
空は呆れ返るほどの青天。
ヴァイスハイトの呟きは誰に届くこともなく霧散していった。




