27. 立ち込める香りは竜をも誘うように
深い暗闇の森を男が駆けていく。時折振り返り、草に足を取られながら死に物狂いで走っている。
道なき獣道を行き、指針なき今、頼れるのは己の勘のみ。
麦畑のような黄金の髪が風に揺れた。光に照らされた瞳は、若葉のように輝く。
そこに絶望はなかった。男は、ただ走った。
***
契約の間を後にした頃。
一人の司祭が通路の向こう側から近付いて来た。グリフが警戒したようにカシェの半歩前に足を踏み出していたが、司祭は気にせずに向かってくる。
否、どうやら気にしているような余裕がないらしい。フードを被っていないゼノにも気付かない程、慌てているようだ。
「ジョゼ司教様……! 急患です……!」
瞬時にジョゼの顔が険しくなる。
「他の者は?」
「皆、治療に当たっておりますが人手が足りず……お急ぎください!」
カシェはジョゼと司祭のやり取りを静かに見守った。司祭が複数人で対応していても手が足りないとは、余程の事故か——あるいは事件が起こったに違いない。
司祭に急かされるまま移動しながら、カシェは疑問を口にした。
「……何があった?」
「意識のあった者によると、盗賊に襲われたようでして……」
「盗賊か……」
確か、砦街に入る前にそのような話を聞いた覚えがある。
カシェが考え込んでいると、ジョゼが補足してきた。
「最近、ファーガス領を荒らしまわっているのよ」
「そういえば検問を厳しく執り行っていたな……まだ砦内には入っていないようだったが?」
門衛が砦街から外へ向かう馬車ではなく、内へ入る馬車を警戒していた様子を思い出す。もしや既に内に入っていたのだろうかとカシェが眉を顰めると、司祭が慌てて告げた。
「まだ街中には入っておりませんが、周辺を行き来する荷馬車を襲い始めたようでして」
「討伐隊も組まれてるんだけど、まだ根城が見つかってないから全滅できてないみたいなのよね」
まさか自身が塔に引き籠っている間にそのようなことになっていようとは。
奥歯を噛み締め、己の不甲斐なさを感じていると、ジョゼがカシェの肩を勢いよく叩いた。
「貴方が国を守ってる間、この領地を守るのは私たち領民の仕事よ! 貴方はどんと構えて討伐隊の帰りを待っててちょうだい」
「だが……」
「何でも自分一人でやろうとするの、貴方の悪い癖よ」
ジョゼの言葉にグリフが激しく首を縦に振る。
悪い癖だと言われても、何とかできる力が備わっていて、何とかしなければならない立場であるのだから仕方がないだろう。
カシェが納得していないことが伝わったのか、ジョゼとグリフは顔を見合わせて溜息を吐いた。
「……一先ずは討伐隊の帰りを待つ。彼らが帰った後、持ち帰ってきた情報を頼りに根城を叩く」
「まさか旦那様自ら赴かれると……?」
「当たり前だ。我が領民を傷付けたのだからな」
カシェは手を強く握り締めた。魔力が怒りに揺れ、瞳を爛々と輝かせていた。
長い廊下を抜けた後、治療を行うための部屋に辿り着いた。その閉ざされた扉の前で足を止める。頑丈な扉に閉ざされ、部屋の外からは怪我人の様子が全く窺えない。
「貴方、悪いんだけど私の代わりに彼らを見送っておいてちょうだい。……私はこのまま治療に向かうから、ここでお別れよ」
ジョゼが司祭に指示を出してカシェたちに向き直る。真剣な瞳が、カシェたちがこの先へと入ることを拒んだ。
「では、ご案内いたします」
頼まれた司祭は漸くゼノの存在に気付いたようで目を瞬かせたが、特に触れることなく前方を歩き出した。
「ジョゼさん、またね」
「……もう暫くは来たくないんですけど」
その後を追うようにグリフとゼノが歩みを進める。ぶつぶつと文句を垂れるグリフをゼノが宥めていた。
「回復したら、快気祝いにでもしてやってくれ」
そう言ってカシェが貨幣をジョゼに投げて寄越す。カシェには誰かを治療できる力はない。領民の命を託すように投げた貨幣を、応えるようにジョゼが受け取った。
いつまでも残っていたところで邪魔になるだけだろう。そう思い、扉に背を向けたとき、ジョゼがカシェにだけ聞こえるように話し掛けた。
「ねえ、カシェ……男女のどちらでもないなんて人族ではありえないわ」
「ジョゼ」
「なんて、貴方ならわかってるでしょうけどね」
カシェが振り返ると、ジョゼがカシェの手を取って何かを握らせてきた。
「これは……?」
「兄様~~?」
そのとき、少し離れたところからゼノがカシェを呼んだ。その声にジョゼが手を離し、ゼノに向かって手を振る。
「そうだ! 今日は馬車なんて一歩も進めないから、ここに留置きなさいよ~~!」
そして、カシェにも追い払うように手を振って扉の奥へと身を隠したのであった。
***
「人通りが多いですねぇ……」
カシェとゼノ、グリフは神殿を後にし、街を歩いていた。グリフが先頭に立って人を掻き分けるように進み、カシェがゼノを守るように後ろを歩く。最早歩いているよりは流されていると言った方が正しいかもしれない。
今日は馬車など一歩も進めないとジョゼに言われ、三人で疑問に思いながら置いてきたが、正解であったようだ。
「うぷ……」
ゼノが人の波に流されて人にぶつかりそうになる。それを支えながら、カシェは周囲の様子に目を配った。
「どうやら祝い事があるらしいな」
「盗賊が出没しているというのに妙ですね」
視線の先には、露店が立ち並んでいた。魔物らしき肉を焼いたものや酒を片手に男たちが唄う。女たちは花で身を飾り、踊っていた。遠くからは吟遊詩人が弾く弦楽器の音も流れてきた。
賑やかな声があちらこちらで聞こえる。
「甘い匂いがする……」
下方からの呟きを拾い、意識を向けるとゼノがすんと鼻をひくつかせている姿が目に入った。
「食べるか?」
「いいの?」
確認するわりに、藤黄色は露店から目を離そうとはしない。その珍しくも子どもらしい姿にカシェは緊張を解した。自然と口角が上がるのを実感する。
「あれが気になるのか」
「とっても甘い匂いがする」
「買いに行きましょうか?」
「いや、構わない」
先導するグリフが買いに行こうとするのを止める。カシェはゼノを抱き上げ、人波を縫って露店の前まで出た。
「おや、いらっしゃ……領主様じゃないですか! お帰りだったんですね」
露店の前に来ると、店主に話し掛けられる。よく通る店主の声は周囲にも間違いなく聞こえたらしく、ざわめきが拡がっていく。
その様子を見てグリフは呆れた顔であーあ、と声を漏らした。何が起こるかわからないのだから忍べと言いたいが、忍んだところでカシェの外見ではすぐに気付かれるに違いない。そんな諦めが十二分にも含まれている声を聞きつつ、カシェは気にせずに店主と会話を交わす。
「ああ、つい先日な」
「そいつぁ、丁度いいタイミングでしたね! 今日は何て言ったってお祭りですから!」
「何かいいことでもあったのか?」
「盗賊討伐の前祝いですよ」
どうやら討伐隊が無事に帰ってくると信じて疑っていないようだ。周囲を見回しても皆が笑顔で楽しそうに過ごしている。耳を澄ますと、子どもの笑い声が空高く響いていた。
(……いや、そう振る舞っているのだろうな)
本当は不安に感じているはずだ。急患が運び込まれたのも知っているだろう。それでもなお、不安に飲まれないように敢えて場を盛り上げているのだ。
「逞しいな」
「ファーガス領の人間ですからね」
店主はにっと笑った。
「さて、それじゃあ私たちもそれにあやかろうか。ゼノ、どれが食べたいんだ?」
大人しく話が終わるのを待っていたらしいゼノに話し掛ける。すると、ゼノがもういいのかと目で問い掛けてきた。
「おや、その子は?」
店主が目を瞬かせてゼノを見つめる。カシェはその質問にどう答えようかと逡巡した後、素直に答えることにした。
「義弟のゼノだ」
「……はじめまして」
義弟という紹介に店主が瞬きの回数を増やす。
「結婚……か、婚約でもしたのか……? いや、それにしては何の報せもなかったような……」
と、口の中で呟いている。
一般的に、庶民の間では養子をとることはほとんどない。ベルナールのように養子をとれるのは養えるだけの貯えがあるためで、一般家庭では養子をとるメリットがない。精々子宝に恵まれなかった夫婦が迎え入れるくらいである。
それ以外となると、婚約者や配偶者の兄弟姉妹をそう呼ぶ程度。店主がピンと来ないのも無理はなかった。
「言っておくが結婚も婚約もしていないぞ」
「ですよね! どちらかと言うと、前領主様とアレクサンドル様のような……」
「アレクサンドル様?」
「叔父上のことだ」
カシェがゼノに教えていると、四方から生暖かい視線が感じられた。その視線はカシェが目線を上げた途端にあらゆる方向に散っていく。
カシェは一つ咳払いをして話を戻した。
「どれが気になるんだ?」
「えーと……」
今度こそゼノの目線が商品の上を滑る。
眼前には植物で編まれた小さな籠が並んでおり、その中に淡い色をした菓子が詰められている。その中の好きなものを選んで購入するようだ。
真剣に悩むゼノの姿を、周囲の人も固唾を飲んで見守っていた。
「これ、一番いい匂いがする」
そうして漸く選んだものは、花を蜜に漬けて固めたものであった。
「妖精酒の花か」
「お目が高い! 妖精酒の花はその名の通り、妖精を誘い込んで酔わせてしまう程、甘い香りのする花——ゼノ様も誘い込んでしまったようですね」
そう言って、店主が花を一片摘まんで光に翳す。薄桃色の蜜が光を反射し、宝石のように輝いてみせた。きらきらと人の視線すらも誘い込む花菓子にゼノの目は釘付けになっていた。
「是非食べてみてください」
店主が手に持った花をゼノに渡す。さあさあと店主に急かされるまま、ゼノが小さな両手を椀のようにして受け取った。
一片を顔の高さまで持ち上げ、その見目を楽しむ。名残惜し気に口にすると、ゼノは口を抑えたまま目を見開いた状態で動きを止めた。
(口に合わなかったか……?)
「坊ちゃん? 大丈夫ですか?」
固まったまま動き出そうとしないゼノに、流石に心配してグリフが声を掛ける。最悪吐き出してもいいようにと、その手にはハンカチが準備されていた。
「あ……」
カシェとグリフが固唾を飲んで見守っていると、程なくしてゼノが口を開いた。
「あ?」
「あまぁい……! 熟した果物みたい! これ、とっても美味しい!!」
相当美味しかったようだ。花よりも濃い桃色に染まった頬を抑え、興奮のままに味の感想を告げる。その感想に店主は満足気に頷いていた。
「宜しければ、御一つずつどうぞ」
気をよくした店主がカシェとグリフにも花菓子を渡してくる。
折角の好意だ。有難く受け取り、口にする。すると、口いっぱいに芳醇な花の香りが広がり、鼻に抜けた。
「これは……中々美味いな」
「でしょう?」
硬いと思い込んでいた蜜は思いの他柔らかく、噛むと簡単に砕ける。薄い氷を砕いたような触感の後には、少し弾力のある花弁がカシェの歯を受け止めた。抵抗感のある花の表面をぷつりと傷付けると、中からとろみのある蜜が溢れ出てきた。
花であるはずなのに、果物かと思い違えるくらい瑞々しく、甘美。だが、決して喉が渇くようなものでもなかった。
(妖精を誘い込んで酔わせるというのもあながち間違いでもないかもしれない)
と、カシェは妙に納得がいった。
「これを一掴み頂こうか」
「へい! 毎度あり!」
買った花菓子を紙で包み、渡される。これをどうしたものかと思案していると、店主がいいものがあると言って隣の露店を指差す。その露店には大小様々な大きさのガラス瓶が売られていた。
「あれに入れたら保存も効きますよ」
店主が口角を上げる。隣の露店でも同じような表情を浮かべた男が手を揉んでいた。
「全く……本当に逞しい限りだな」
ゼノが花菓子の入った瓶を両手で持ち、ご機嫌な様子で前方を歩く。浮き立つ心を表すように、亜麻色の髪がふわふわと揺れている。
辺りに溢れ返っていた人々はいつの間にか流れ、随分と歩きやすくなった。
「うわぁ……皆、坊ちゃんが褒めた菓子を食べようと集まってますよ。あ、揉みくちゃにされた」
グリフが後ろを振り返って言う。グリフの言う通り、露店の周囲を人が取り囲んでいる。人と人との隙間から店主の叫び声が聞こえた。
「売れ行きが好調で喜んでいるな」
「え、今の狂喜の声に聞こえました? むしろ助けてって言ってません?」
「身動きが取れない程賑わっているのだから、嬉しがっているんじゃないか?」
カシェが小首を傾げて微笑むと、グリフは無言で頷いた。
「兄様! グリフ先生!」
立ち止まってグリフと話していたためか、気付けばゼノと少し離れていたようだ。ゼノが瓶の持っていない方の手を大きく振って二人を呼んでいた。そして、痺れを切らして二人に向かって駆け出す。
「坊ちゃん、あんまり急ぐと転びますよ!」
グリフがゼノに声を掛ける。
カシェもゼノの方へと足を進めた。穏やかな時間であった。——細められた目が、とある光景を捉えるまでは。
「ゼノ……!」
突然、路地の影から二人分の影が飛び出してきた。
必死に伸ばすカシェの手を、ゼノがきょとんと目を丸くして見つめる。あどけない幼子の顔がカシェの網膜に焼き付いて離れなかった。




